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東急不動産だまし売り裁判―こうして勝った
林田力『東急不動産だまし売り裁判』政治書評
『小沢一郎 覇者の履歴書 超権力者への道』の感想
本書(奥野修司『小沢一郎 覇者の履歴書 超権力者への道』データハウス、2010年)はジャーナリストが小沢一郎・現民主党幹事長を分析した書籍である。政治家を扱う書籍は多数存在するが、本書の特徴は心理学も動員して、幼少期からの小沢一郎の人格形成について丹念に分析している点がポイントである。
小沢一郎が田中角栄の影響を受けているとする指摘は多い。本書でも田中角栄の影響を述べるが、それにも増して父親・小沢佐重喜の影響を指摘する。それによって単なるミニ角栄では片付けられない小沢一郎の複雑さを明らかにする。
父子の直接的な触れ合いが乏しい中で、佐重喜は一郎の内面で理想化された存在であった。このような屈折した思いが小沢一郎に大きな影響を与えつつも、「政治家小沢佐重喜には政敵はあっても、人間小沢佐重喜には、一人の敵もなかった」(北山愛郎による追悼演説)と評された人間味ある政治家とは似ても似つかない政治家にした要因である。
本書は1994年に出版された『小沢一郎 覇者の履歴書』の加筆修正版である。当時は非自民連立政権が成立し、その立役者として小沢一郎が注目された時期であった。それから16年が経過し、様々な出来事があった。本書は小沢一郎の人格形成につながる過去のエピソードと、そこからの分析を維持しつつ、適宜新しい出来事を付加している。
たとえば小沢一郎は司法試験勉強をしていたが、合格することはなかった。これについて本書は「司法試験を受験だけで終わったことは、学問としての純粋な法律論を身につけたということでもあった」と評し、形式的なきらいがあるものの小沢一郎の法的な論理性の高さを説明付ける(174頁)。この傾向は西松建設献金事件における小沢一郎の検察批判にも通じるとする(176頁)。
現在の小沢一郎の言動も16年前に出版した書籍の分析で説明できることになる。この理由を本書は以下のように表現する。
「小沢には過去と現在の境はない。それ故に、過去の小沢を知れば知るほど、これまで見えなかった現在の、そして未来の小沢が見えてくるという意外さがある。」(37頁)
この文章は帯にも採用されており、小沢一郎という政治家の特徴を端的に示すフレーズになっている。しかし、よく考えれば、これは強調するほどの話ではない。およそ過去のない人間は存在しない。誰であれ人間の現在は過去からの積み重ねである。特に政治家は有権者から選挙後の数年間を託される人物である。過去から現在や未来が見えてこないような人物では、有権者は危なくて投票できない。
ところが、日本社会は過去を水に流すことを是とし、目の前の問題に飛びつくばかりで歴史性に欠ける傾向が強い。そのために本来ならば人間としても政治家としても当たり前な「過去と現在の境はない」ことが「意外」と扱われてしまう。そこに日本社会の異常性が浮かび上がる。かつて小沢一郎は「普通の国」を掲げたが、小沢一郎が多数の政治家の中で良くも悪くも際立っている理由は、彼が日本には珍しい「普通の政治家」だからとも言えるだろう。
『政治家は楽な商売じゃない』積極的な政治家・平沢勝栄
本書(平沢勝栄『政治家は楽な商売じゃない』発行・創美社、発売・集英社、2007年10月10日発行)は自由民主党所属の衆議院議員(東京17区)による政治家の生活や政局を述べたものである。平沢議員は選挙区の東京都葛飾区・江戸川区小岩地域とは無縁の俗に言う落下傘候補であった。1996年の衆議院議員総選挙で新人として立候補した際は、対立候補優勢の下馬評を覆して当選した。
本書は全部で7章まであるが、大きく分けると4つに分かれる。
第1章及び第2章で政治家の日常を語り、政治家は大変な仕事であると説明する。これが本書のタイトルにもなっている。
第3章では2007年3月の参議院議員選挙で当選した丸川珠代氏の選挙活動を振り返る。この中で丸川氏の勝因と歴史的な大敗をした自民党の敗因を分析する。
第4章及び第5章では参議院で連立与党が過半数割れした「ねじれ国会」下の政局を論じる。
第6章及び第7章では集団的自衛権や拉致問題という重要な論点について持論を述べる。
最初の政治家の日常生活では、地元に顔と名前を売るドブ板選挙的な活動を赤裸々に述べている。ドブ板的な活動を率直に述べていることに感心する。
平沢議員は自らをドブ板選挙で当選した政治家と位置付けるが、それは組織票に安住する旧態依然とした政治家であることを意味しない。本書を読めば有権者に自分を売り込むために地道な努力をしていることが分かる。平沢議員は有権者と接触することに積極的で貪欲な政治家である。政治家を志す人にとっても参考になる内容である。
平沢議員は新人として立候補した1996年の総選挙において韓国の政治学者バク・チョルヒーの調査・取材に積極的に応じ、その調査結果は書籍として公刊されている(バク『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』文藝春秋、2000年)。
本書にしてもバク氏の書籍にしても政治家の手の内を明かしている面がある。にもかかわらず、堂々と公刊する平沢議員の開放的な姿勢は注目に値する。ドブ板選挙には批判があるものの、政治家が有権者とまめに接しようとすること自体は望ましいことであり、むしろ責務ですらある。
問題は旧来のドブ板選挙が町内会や職能団体などの人脈つながりで行われており、選挙区外に通勤・通学する新住民が疎外される傾向にあったことである。この新住民は大体において無党派層に重なる。この新住民を取り込むことが政党や政治家にとって大きな課題である。
2007年の参院選における丸川候補の当選は無党派層の重要性を再認識させた。著者は丸川候補の選対本部長を務めていた。自民党は参院選東京選挙区に、現職の保坂三蔵氏と新人の丸川氏の2名を公認候補として擁立した。保坂氏は組織票をまとめ、丸川氏は街頭演説中心に無党派層を狙う形で棲み分けを図った。
組織票を固めた保坂氏の当選は確実視されたが、保坂氏落選、丸川氏当選という関係者にとって予想外の結果であった。この結果からは従来型の組織票が磐石ではないことを示している。一方で丸川氏の当選も知名度のあるキャスター出身故という単純なものではない。
本書に「最後まで本人が諦めずに頑張って戦った結果」とあるとおり(91頁)、ひたむきに街頭演説を続けた努力が反映された。ここからは町内会や職能団体のような既存組織の人脈つながりではなく、もっとダイレクトに無党派層に向き合う新しいドブ板選挙が有効であり、必要であることを示唆している。これは今後の選挙の教訓となる。
実際に平沢議員自身が試行錯誤している。本書出版後の2008年7月には日本最大のSNSであるミクシィのマイミクとオフ会を開催している。このオフ会には記者も参加し、自己の経験した東急不動産(販売代理:東急リバブル)との新築マンション購入トラブルについて話した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。実際に会った平沢議員からは、物腰が柔らかく、人の話を聞く姿勢を持っているとの印象を受けた。
平沢議員は自民党への逆風をシビアに認識しつつも、早期解散の可能性を覚悟していた。「政治家は厳しい選挙で鍛えられる」との英国のサッチャー元首相の言葉を引き合いに出し、国民の目線に立つ必要性を強調する(122頁)。厳しい状況から逃げずに正面から立ち向かおうとする姿勢は好感が持てる。これが自民党の総意ではなかったところに今日の自民党の低迷がある。
最後の政策については激しい意見対立のある問題であるにもかかわらず、率直な主張が述べられている。ドブ板選挙は政策本位の選挙の対極に位置付けられ、否定的に評価されがちであるが、平沢議員は政策も明確に述べている。等身大の政治家を理解することができる一冊である。
政治家の成長『危うしニッポン!ズバリもの申す』
本書(平沢勝栄『危うしニッポン!ズバリもの申す―番組じゃ言えない「アレ」や「コレ」』KKベストセラーズ、2001年)は自由民主党の代議士が政局や政策を論じたものである。
平沢議員はテレビ番組に積極的に出演し、2008年7月には大手SNSであるミクシィのマイミクとオフ会を開催するなどユニークな活動をしている。本書は外国の首脳が発言したとされる「日本は20年後に消滅する」への強い危機感が出発点となり、日本の方向転換を強く迫る内容になっている。
タイトルに「ズバリもの申す」とある通り、著者の自説を前面に押し出している。憲法改正や終戦記念日の首相の靖国参拝など賛否が分かれるデリケートな問題に対し、臆することなく持論を展開する。また、二度の選挙で激しく戦った創価学会・公明党(一度目の選挙では新進党)への嫌悪感も表明している。「ズバリもの申す」は決して誇大広告ではない。
この点は2007年に出版された同じ著者の『政治家は楽な商売じゃない』とは対照的である。こちらでも自説は明確に主張している。しかし、本書に見られるような主張の押し付けがましさは抑制されている。
これは現実の政治状況を冷静に分析した上で自説を出しているためである。本書は全く同意見の人からは熱烈に支持されるが、拒否反応を示す人もいる筈である。それに対し、『政治家は楽な商売じゃない』は、より幅広く受け入れられる。
両書籍の出版の間には政治家としての成長がある。本書出版時、平沢議員は2期目であり、政治家の世界では若手であった。この頃は、たとえ敵を作ることになったとしても、鋭い発言で注目されることが有益である。
一方、『政治家は楽な商売じゃない』出版時は4期目で、2007年の参議院選挙では丸川珠代候補の選対本部長を務めるなど他の候補者の面倒を見る立場になっている。この頃になると幅広い支持を集めることが重要になる。
また、両書籍の出版時の時代状況も反映している。本書出版時は小泉純一郎が首相になり、国民の高い支持を得ていた。自民党改革派として改革を強く主張することが国民から支持された。一方、『政治家は楽な商売じゃない』出版時は参議院選挙で当時の連立与党(自民党・公明党)が過半数割れし、かつてないほどの逆風が自民党に吹いていた。謙虚に反省し、国民の声に耳を傾ける姿勢が求められた。
時代状況を理解することは民意に応える責務がある政治家にとって非常に重要な能力である。安倍晋三元首相も福田康夫元首相も「空気が読めない」ために国民の支持を失い、政権を投げ出すことになった。この点、著者の時代を読む目は評価できる。
著者のバランス感覚は本書にも萌芽がある。著者は本書で外国人参政権に強固に反対する。「政治家生命を懸けて阻止する」とまで書いている(110頁)。
著者の論拠には同意できない点がある。例えば在米韓国人が米国政府に参政権を要求しないのに日本にだけ要求するのは不当と主張する(106頁)。これは理由として成り立たない。出生地主義の米国で生まれた韓国人は米国籍を付与される。従って外国人参政権付与を主張する必要性自体が存在しない。米国の基準ならば在日コリアンの大半は既に参政権が保障されなければならない。
上記点についての著者の主張は同意できないが、一方で著者は現在の問題点についても認識している。即ち、「日本国籍の取得は手続きが煩わしい」と認めている。その上で帰化要件について「特別永住者は自動的に日本国籍が得られるくらいに緩和してもいい」と主張する(110頁)。
参政権を行使する者に他国ではなく、日本国の一員としての自覚を有してもらうことは、それほど極端な主張ではない。しかし、日本国民になることが自らの民族的アイデンティティーを否定し、日本人に同化することを意味するならば在日外国人が拒否することは当然である。
外国人参政権が大きな問題となる背景として日本の植民地支配に由来する特別永住者の存在があることは確かである。特別永住者が自動的に日本国籍を選択できるようにすることは保守派なりの戦後責任の果たし方になる。
この点からは他人の主張を、全てを聞かなければ評価できないことが分かる。外国人参政権に反対であるとしても、在日コリアンが日本社会から疎外されて当然と全ての論者が考えているとは限らない。著者の場合、帰化要件の緩和という代案を有した上での主張になっている。
ここにはテレビでの断片的な主張では理解できない深さが著書には詰まっている。ワイドショーという形で国民が政治家に興味を持つだけでなく、政治家が政策を論じ尽くした著書を出版し、それを国民が読んで評価する。それが真の国民主権の実現のために有益である。代議士の主張が理解できる一冊である。
『内部告発!社民党』リストラに動じない毅然とした態度
本書(松下信之『内部告発!社民党―社会党的なものの再生を』ロゴス社、2008年6月22日)は社会民主党執行部から整理解雇された職員による解雇無効を求めた闘争記である。労働者の党を標榜していた社民党(旧日本社会党)が労働者の首切りをしていたというショッキングな内容になっている。
本書はタイトルも著者のスタンスも社民党のあり方を問うものとなっているが、硬派な内容だけではない。本書には著者による映画の感想や戦国武将の人物評も収録されている。それらも自らの整理解雇に引き寄せて論評されているところが興味深い。記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションを購入したため、裁判で売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。
個人が組織を相手に戦う場合、個人の尊厳をかけたものとなりがちである。そのため、直接関係しない映画を観ていても、どうしても自分の紛争に引き寄せて考えてしまう。記者も同じであった。それ故に著者の思考経路も理解できる。
本書を仕事の観点から眺めると、社民党に関心のある人だけでなく、全ての労働者にとって関係する内容になっている。不況の深刻化によって派遣切りの次は正社員の首切りが進むとの声が囁かれている。その中で整理解雇と戦う著者の姿勢はリストラに怯える労働者の参考に資するところ大である。
著者が最初に受けた整理解雇通知文書は党首ではなく、幹事長名義で書かれていた。これに対して、著者は雇用責任者の名前で書かれていない通知は無効と突っぱねた(9頁)。
著者は党の財政難を理由として自主退職を強要されても、「私は財政難だとは思わない。財政難だという具体的な事例を見せてもらっていない」と反論する(12頁)。社民党は旧社会党時代と比べて議員数が激減しており、財政難という説明は感覚的に納得してしまいがちである。しかし著者は、その種のフィーリングに惑わされず、あくまで具体的な資料による説明を要求する。「百年に一度の大不況」という言葉の前に労働条件悪化やむなしという諦めムードが漂う労働界も著者の姿勢を見習うべきである。
しかも著者は退職を強要する幹事長に対し、役員が責任を取れと言い返した(13頁)。「第一義的責任は、経営側である党役員にある。まず役員が自らを処するのが筋である。役員は責任をとらないのか?」
企業がリストラを進める場合、企業側からの一方的な解雇はハードルが高いため、企業はあの手この手で従業員に自主的に退職させようとする。残念ながら社蓄とまで揶揄される日本の従業員には著者のように毅然とした態度を示せる人は少ない。これは著者が社民党の理念である労働者の権利擁護という価値観を自らの血肉としていたからこそできたことである。
日本の左派運動家には自分の生活を犠牲にして運動に献身することを美徳とするマゾヒスティックな傾向が否めない。本人のマゾヒズムにとどまるならば他人が口を挟む必要はないが、他人にも強制する点が大きな問題である。
逆に自分達は例外扱いで、他人にだけ強制する「他人に厳しく身内に甘い」輩も少なくない。本書が批判する政党職員の労働者としての権利が蔑ろにされている点は、その現れである。これでは左派と普通の市民の溝は深まるばかりである。著者のように理念を自らの生活において実践できる人物こそ本来は労働者のために活躍の場を与えられるべきであると感じた。
『憲法改正試案集』護憲派も改憲派も改正案を知ろう
本書(井芹浩文『憲法改正試案集』集英社、2008年5月21日発行)は公表されている主要な日本国憲法の改正案や改正意見を比較し、解説した書籍である。取り上げた改正案・改正意見は公的なもの(衆議院及び参議院の憲法調査会最終報告書)から、政党の作成したもの(自民党新憲法草案、民主党提言など)、議員個人のもの(鳩山由紀夫「新憲法試案」など)、民間のもの(読売新聞試案など)まで網羅する。
著者は長年ジャーナリストとして選挙・政治報道に携わり、現在は政治学の研究者である。憲法学者ではなく、著者のような経歴の持ち主によって本書が刊行されたことは、現代日本において憲法改正問題が、すぐれて政治的な性格をはらんでいることを示している。
何故ならば改憲や護憲が一方の党派の政治目標になっている状況では、憲法改正を論じること自体が特定の政治的立場の表明につながるためである。これに対し、本書では改憲反対論者であっても、むやみに憲法改正論を非難するのではなく、議論に加わるべきとする。それが「国のかたち」を豊かにすると主張する。
実際、憲法改正案を並べてみると、改憲論の問題点が浮かび上がってくる。多くの憲法改正案に対する私の第一印象は、「果たして改正案と言えるのか」というものであった。改正とは不適当な箇所を改めることである。憲法改正とは現行憲法を前提として、その中の不備な部分を改めることである。
ところが改正案は、現行憲法の文言を修正するのではなく、全く新しい構成になっているものが多い。これは前文に顕著である。憲法改正案ではなく、新憲法草案と呼ぶ方が内容的には相応しい。
ここには日本人の憲法改正に対する未熟さがある。日本の歴史上、実質的な意味での憲法改正は一度も行われていない。形式的には大日本帝国憲法(明治憲法)から日本国憲法への改正一度のみである。これは改正の形式を採っているものの、天皇主権から国民主権への根本的な変更であり、実質的には新憲法制定であった。この経験しかないため、「憲法改正=憲法の作り直し」という発想になってしまう。
日本の敗戦時には憲法をゼロから作り直す必然性があった。日本が受諾したポツダム宣言は無責任な軍国主義の駆逐を主張しており、日本は軍国主義国家から人権を尊重する民主的な平和国家に生まれ変わらなければならなかった。そのためには天皇主権の大日本帝国憲法を全否定する必要があった。
かくして日本国憲法は誕生した。基本的に護憲派を自認する人々は日本国憲法に象徴される戦後の民主化を肯定的に評価する。これに対して改憲論には「押しつけ憲法論」に見られるように日本国憲法そのものに否定的な立場もある。そのような憲法否定論者も改憲論に与しているところに改憲議論が紛糾する原因がある。
憲法改正とは憲法を改正したいだけの内容があって、その部分を変更するものである。その意味で改憲派と護憲派という対立軸が生じること自体が本来は不自然である。たとえば「日本国憲法の中の天皇制だけは容認できない。国民主権や法の下の平等を定めた憲法の他の条項とも矛盾する。だから第一章を抹消すべき」という主張があるとする。ここには天皇制廃止についての賛成派と反対派の対立があり、憲法を改正するかしないかは結果に過ぎない。
ところが、現代日本の改憲議論は新しい憲法を作るべきか、そのままの日本国憲法でいいか、という改憲の是非自体が目的化された感がある。この点については憲法を聖典のように扱う護憲派に原因があると非難されることが多かった。
しかし現憲法を継承しない新たに創作した文章を憲法改正案として提示する改憲派にも問題がある。特定の政策の実現ではなく憲法の作り替えを目的化していると批判できる。これは護憲派が改憲議論への参加自体を拒否することを正当化する理由にもなる。
実際のところ、本書で指摘されているように、憲法改正案で改正される内容の多くは現行憲法の枠内でも新規立法で実現できるものである。憲法改正案の多くは国会議員の手によるものだが、国会議員の本務は憲法に従って法律を議決することである。本来の任務である立法権でできることを行わず、憲法改正を名目とした憲法制定ゴッコに明け暮れているとしたならば本末転倒のそしりを免れない。
本書は改正案の紹介が主眼で、著者の主張は抑制している。それでも時折登場する著者の意見は鋭い。印象的な内容は公の支配に属しない教育事業への公金の支出を禁じた現憲法第89条についての議論である。
この条項は私学助成との関係で問題になる。多くの論者は価値判断として私学助成を肯定する。私立学校も公立学校と同じく重要な教育の基盤になっているためである。そのため、私学助成に違憲の疑いが生じないような憲法改正を主張する立場もある。
これに対し、著者は「私学振興の目的のためには、高い学費を支払わされる私学生に対して授業料(あるいは入学金)の直接助成をするべきだった」と主張する(208頁)。私立学校に助成するために、私立学校への文部科学省の口出しが可能になり、天下りポストを提供する結果にもなっている。この弊害を避けることが現憲法第89条の趣旨ではないかとも主張する。実に興味深い見解である。著者の憲法論を前面に押し出した論稿も読んでみたいと思わせる内容であった。
鈴木邦男『愛国と米国』左翼に愛国を見る柔軟さ
本書(鈴木邦男『愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか』平凡社、2009年)は右翼団体・一水会顧問である著者が反米愛国の少年時代を振り返りながら、アメリカについて正面から考えた書籍である。
著者の思想的特徴は民族派右翼として、親米雇われ右翼とは一線を画す点にある。イラクに行った著者は日本がイラク人からアメリカ帝国主義の先棒を担ぐ存在と受け止められている実態を目の当たりにする。イラクでは「カミカゼ」「カラテ」「サムライ」は広く知られている。
しかし、これは日本が尊敬されている訳ではない。「あれだけ米軍と戦った日本が、なぜ今、米軍と一緒になってわれわれを攻めるのか?そう聞かれて答えられなかった」と著者は述べる。ここには著者の右翼思想家としての良心がある。
本書では出版時に話題となっていた田母神俊雄・航空幕僚長(当時)の論文にも言及する。著者は「自虐史観ではこの国を護るという気にはならない」という田母神氏の怒りや憤りに理解を示すものの、全面的には賛同しない。何故なら、自衛隊は日本の現在を護るもので、過去や過去の歴史観を護るのではないからである。自衛隊は自分を否定する者も護る存在であるべきと主張する。
記者も著者の主張には共感できる部分がある。戦前の日本の軍隊は天皇の軍隊であり、国民を守るものではなかった。沖縄戦では日本軍は民衆を守るどころか、反対に盾にしたこともあった。旧満州(偽満州国)において関東軍は満蒙開拓団を置き去りして真っ先に逃走した。もし自衛隊が真に国民を守る組織であるならば、このような旧軍の体質を徹底的に批判することから始めなければならない。
そもそも戦前の日本を批判的に描く歴史観を自虐史観と呼ぶこと自体が誤りである。戦後日本は戦前の軍国主義を否定した上に成立している。それは国の基本法である日本国憲法の前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」と宣言されているとおりである。
戦前を否定した戦後日本で戦前を批判することは決して「自虐」(自分を虐げる)ではない。戦前の日本を否定的に描いた歴史観を「自虐」史観と受け止める発想は、自己が戦前の軍国主義的体質そのものであると自白しているも同然である。そのような思想が自衛隊内で幅を利かせているならば、自衛隊が国民を守ることはあり得ない。
本書のユニークさは全共闘世代の安保闘争を反米愛国と位置付けている点にある。記者は新築マンションをだまし売りした大手不動産会社と裁判闘争を続けたため(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)、左翼側の人と交わることが多かった。記者のような社会悪に苦しむ被害者には左翼の方が共感する人が多いという現実があるためである。
それでも少しの異論も許容しない教条主義的なところに閉口させられることもあった。そこには左翼が否定する戦前の軍国日本と同じ体質があった。狭量な一部の左翼に比べると安保闘争からも愛国を見出す著者の発想は柔軟である。お互いの思想を知ることの重要性を実感した。
『告発のときIn The Valley of Elah』人間性を破壊するイラク戦争
本書(ポール・ハギス原案、古閑万希子著『告発のときIn
The Valley of
Elah』講談社、2008年)は2008年6月28日に公開された米国映画(ポール・ハギス監督)のノベライズ版である。2003年に実際に起きたイラク帰還兵の殺害事件をもとに、泥沼のイラク戦争で人間性を破壊されたアメリカ軍の暗部を描く。従軍兵士の心を蝕むPTSD(心的外傷後ストレス障害)を直視したサスペンス・ドラマである。
退役軍人のハンクに、イラク戦争に従軍していた息子マイクがイラクからの帰還直後に失踪したとの連絡が届くところから物語が始まる。調査を続ける中で明らかになっていったものは、自由と民主主義のために戦う正義の英雄とは程遠いアメリカ軍の姿であった。
『告発のとき』は邦題で、原題は『In
The Valley of
Elah』である。これはエラの谷という意味で、旧約聖書サムエル記に登場する。後にイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデがぺリシテ人の巨人ゴリアテを倒した場所である。
果たしてアメリカ兵は巨人ゴリアテに立ち向かう勇敢なダビデと言えるのかと考えさせられるタイトルとなっている。むしろ人間性を破壊するイラク戦争を続けるアメリカ軍に抗議する声こそがダビデなのではないか、と自問したくなる。そして、この問題意識が邦題『告発のとき』につながっている。
原題の意味から離れた邦題は原題のイメージを壊すものとして、英語圏の文化に素養のある人にとっては不満が生じうるものである。しかし、上記のように考えるならば、本作品の真意を汲み取った一つの解釈として、味わい深さが感じられる。
過酷な戦場生活による人間性の破壊は日本でも他人事ではない。イラクに派遣された自衛隊員の自殺が問題を示している。自殺という形で自分を傷つけてしまう人がいるならば、攻撃の対象が他者に向かう人も出る可能性がある。
アメリカと比べて自衛隊が閉鎖的で情報公開に消極的であるために明らかにされない面があるならば、日本の方が深刻である。当事者意識の薄い日本人向けだからこそ、よりストレートな意味合いを持つ邦題にする意義がある。
映像作品の小説版の良いところは、映像だけでは不十分な内容が文字により説明されている点である。これによって読者は映像だけでは分からなかった点も理解することができる。一方、説明が冗長になると物語のスピード感が損なわれるデメリットもある。
本作品でも、警察と憲兵の仕事の押し付け合いやヒスパニックへの差別感情などのアメリカ社会の背景は、本書を読んだ方が理解しやすいだろう。一方、本書は基本的に真実を追求するハンクの視点で描写されており、彼の調査の進展に応じて場面が展開する。そのため、映画を観るようなテンポで本書を読み進めることができる。映画を観た方にも観ていない方にも推奨したい一冊である。
『G8サミット体制とはなにか』格差を拡大させるサミット体制
本書(栗原康『G8サミット体制とはなにか』以文社、2008年)はサミット(先進国首脳会議)を頂点とする世界秩序(サミット体制)を批判的に解説した書籍である。サミットの歴史を振り返り、サミットの目的を明らかにし、サミット体制が各国にもたらした影響を説明する。
著者はサミット体制を多国籍企業の利益になるために世界各国に新自由主義的な経済政策を押し付ける体制と位置付ける。僅か8カ国の私的会合に過ぎないサミットがIMFや世界銀行などの超国家的機関を媒介として、世界の政治経済について事実上の政策決定を行っているとする。
1970年代以降、先進諸国はサミットを通して、資本の自由化や貿易上の保護主義の撤廃を進め、多国籍企業が経済活動を行いやすい環境の構築を図った。特に第三世界に対してはIMFや世界銀行を通じて構造調整政策を押し付けた。
この結果、多国籍企業は利益を拡大する一方で、大勢の人々は困窮した。輸入自由化による農業の崩壊や、労働法制の規制緩和による労働環境の不安定化、民営化による公共サービスの低下など人々の生活基盤を破壊し、貧富差を拡大させている。
本書では壊滅的な打撃を受けた例としてソマリアを挙げる。構造調整政策を受け入れたソマリアでは貿易の自由化による安価な輸入作物の大量流入や、農業従事者向け公共サービスの切捨てにより、国内の農畜産業が衰退した。ソマリアの食糧不足・飢餓は、構造調整政策による人災であると本書は主張する。
これまで私は、本書で強く批判されている新自由主義的な経済政策には少なからぬシンパシーを感じていた。日本の公務員の相次ぐ不祥事を出すまでもなく、政府を動かしているのも欲を持った個々の人間に過ぎないためである。政府の役割を過度に大きくするならば、それだけ腐敗と非効率の危険を大きくすることになる。
たとえ政府が適切に経済を管理すれば最適化できるとしても、政府を動かすのは神ならぬ人間であり、そこまで見通す力はない。自由放任により神の見えざる手が働くとは考えないが、政府の誤った政策による弊害の方がはるかに大きいため、政府の介入は可能な限り減らすべきというのが管見であった。
一方で新自由主義者とされる人々が外交・安全保障面ではタカ派の傾向を有することには違和感を覚えていた。小さな政府と軍事費増大は矛盾する。また、人間の不完全性を前提として国家権力の介入による弊害を避ける立場ならば、国家が起こしうる最大の惨禍である戦争に対して否定的になるのが自然と考える。
しかし実際は新自由主義者とされる政治家(サッチャー、レーガン、中曽根康弘ら)は揃ってタカ派である。これは私にとって一つの疑問であった。この疑問に本書は一つの回答を提供する。
1980年代に台頭した上記の新自由主義の政治家は正にサミット体制の申し子であった。そしてサミット体制が進める政策は多国籍企業の利益を守るものにほかならない。その主張する自由とは多国籍企業の経済活動の自由であって、利権の維持・拡大に必要ならば武力行使を躊躇しない。
その例として、本書ではアメリカによるイラク戦争を挙げ、戦争の目的を先進国の経済プロジェクトに従属的な政権を打ち立てることにあったとする。多国籍企業の経済活動を保護し、第三世界に対する経済支配を強化する点でサミット体制は、多くの人々にとって自由の対極に位置するものである。
サミットが開催される度に激しい抗議活動の対象となるのも、このためである。洞爺湖サミットの物々しい警備活動が報道されているとおり、警察権力に守られなければ開催できないのがサミットの実情である。サミットに抗議した人々の境遇と思いに共感するための想像力を働かせることがサミット体制を克服するための第一歩になる。
本書では2005年に中国各地で吹き荒れた反日デモもグローバル化への抗議活動と位置付ける。著者はグローバル化に揺れる中国の実態を以下のように描く。
「工場で働く人びとの大多数は低賃金であり、中国全土が日本の下請工場となりはじめている」「日本企業に出荷するために生産競争にさらされ、没落する農家さえあらわれているし、化学肥料の使いすぎで土壌汚染が進んでいることも否めない」(71頁以下)。
グローバル化による貧富差の拡大や農村破壊への中国民衆の怒りが、中国に大々的に進出しており、民衆にとって分かりやすい日本へ向かったとする。
本書で言及されているとおり、日本のプレカリアート(非正規労働者ら)が政府や企業への怒りを噴出させ始めていることは注目に値する。一方でネット右翼のように排外的な方向に転嫁して自尊心を満足させる傾向も見られる。例えば反日の声に嫌中で応じるのではなく、反グローバリズムとして連帯できるか、日本人の想像力が試されている。
『バッド・ドリーム』日本政治の闇をユーモラスに描く
本書(落合誓子『バッド・ドリーム 村長候補はイヌ!?色恋村選挙戦狂騒曲』自然食通信社、2009年8月30日発行)は日本海に面する架空の小さな村を舞台とした村長選挙の物語である。公共事業の利権で腐敗した日本政治の実態をユーモラスに描く。
産業廃棄物処分場プロジェクト誘致をめぐり、村は開発優先の賛成派と環境保全の反対派に2分される。賛成派は急死した全村長一家の飼い犬を立候補者にし、買収や反対派への嫌がらせなど何でもありの選挙戦を展開する。
著者は石川県珠洲市の市議会議員であり、珠洲原発の問題について書籍を刊行している(『原発がやってくる町』すずさわ書店、1992年)。本書はフィクションであるが、珠洲原発建設をめぐる賛成派と反対派の対立の経験が活かされているように思われる。
反対派と賛成派を分ける要素は反対派住民の言葉が象徴する。「嫌なもんは嫌という人種と、金にでもできればという人種」である(117頁)。救いがたいのは「金にでもできれば」と考える賛成派の思考に合理性がないことである。
日本人には「(家族が)赤紙一枚で殺されても、まだお上にくっ付いてさえおれば、お上が良いようにしてくれて美味い目にあうと考える」おめでたいほどのお人よしが多い。だから何度だまされても懲りることがない。日本で革命が起きない理由は、この点にあると考える。その意味では反対運動は社会を変える第一歩になる。
選挙戦で賛成派側は現金配布、新聞社を騙った偽調査、反対派支援者への嫌がらせの手紙など手段を選ばない実態が描かれる。反対派が確かな証拠から警察に訴えても、警察は取り上げようとしない(151頁)。ここにも日本の暗い現実が描かれている。
本書の優れたところは選挙戦終了後に反対派の主だったメンバーに自問自答させていることである。それによって彼らは反対運動への確信を深めていく。これこそが市民運動を一過性で終わらせないために必要な要素である。
『介護情報Q&A』を読んで
本書は介護に関係する情報をサービス利用者の立場から平易にまとめたものである。
介護保険制度が内容の中心となるのは性質上当然であるが、医療保険や高齢医者虐待防止法など関連制度にも目配りする。制度の視点で体系的に説明するのではなく、あくまで利用者の目線で利用者の役に立つ情報を提供するというスタンスを貫いている。
例えば苦情解決の項目では介護保険制度上の苦情解決機関だけでなく、市区町村の消費者相談室や消費生活センターなども相談窓口として紹介する(64頁)。介護保険のサービスは契約に基づいて提供されるものであり、その点で消費者契約の問題となるためである。本書は利用者にとっては無意味な縦割り行政の弊害から自由である。
本書では消費者契約法に基づく契約の取消しについても言及する(118頁)。消費者契約法(不利益事実不告知)に基づき、マンション売買契約を取り消した経験がある私にとっては嬉しい内容である。
役人ではなくても、介護の専門家は介護制度に特化し、他は知らないとなりがちである。著者が縦割り行政と同種の罠に囚われていないことは高く評価したい。
現在、政府では縦割り行政の弊害解消の一環として消費者庁の創設が検討されているが、消費者問題が極めて広い分野に渡る以上、様々な官庁が消費者問題に関係することは、むしろ当然である。
本質的な問題は各現場担当者の消費者問題への理解が乏しいことである。たとえば消費者問題としての問題意識を有する介護専門家のような人材を揃えれば、財政状況の厳しい折、わざわざ消費者庁のような官庁を新規に創設する必要はないと考える。
本書は介護に関する制度の仕組み(サービスの内容や費用など)を説明するものであって、制度を評価するものではない。しかし本書の記述の端々から著者の介護保険制度に対する主張を垣間見ることは可能である。
著者は「介護保険はサービスの種類が多く、手続きも面倒な制度」と評価する。2005年の法改正によって「さらに複雑になり、利用する人たちや介護する人たちには、とてもわかりづらくなりました」とする(14頁)。
しかも利用者の負担が増大したため、サービスの利用を抑制する人たちが増えているのではないかと懸念する。そして「制度にかかわる人たちには、利用しない人や利用をやめた人たちの実態調査を行うなど、課題の解決にむかう姿勢を持ってほしい」と訴える(23頁)。
著者は必ずしも現状の介護保険制度を肯定的に評価していない。それでも本書が必要なのは、その不十分なレベルの介護サービスさえ役所が提供を拒むケースがあるためである。
要介護等認定の申請をしたところ、窓口で「子ども達がいるのに介護できないのか」と言われ、申請が受理されなかったケースもあるという(27頁)。受理してしまうと法律に則って手続きを進めなければならず、もっともらしい理由をつけて受付を拒み、申請自体をなかったこととするのが介護保険に限らず、役所に共通する住民無視の逃げ口である。
私も上述の東急リバブル・東急不動産との紛争に関係して、東京都生活文化局に東京都消費生活条例違反の申出をしたが、受理されるまでが大変であった。極論すれば、クレーマーに徹しなければ申請を受け付けてもらうことすらできないという現実がある。
本書は、そのような役人の卑劣な怠慢と戦うための有効な武器になる。著者は「声をあげていかないと問題は解決に近付きません」とも語る(64頁)。正しい知識を身につけ、非合理なことに声をあげていく。本書は、その大いなる手助けになるだろう。
『貧困にあえぐ国ニッポンと貧困をなくした国スウェーデン』の感想
本書は貧困をなくした生活大国スウェーデンの実態を説明した書籍である。著者は元ストックホルム大学客員教授で、スウェーデンの社会制度についての書籍を複数冊出版しているスウェーデン通である。
本書で描かれるスウェーデン社会は、格差が拡大する日本とは対照的である。スウェーデンではワーキングプアやネットカフェ難民のような、生活に苦しむ若者の存在はあり得ないとする。スウェーデンでは無職の若者がすぐに生活保護を受給でき、短期に自立できるためである(3ページ)。
このスウェーデンモデルを支える思想が「公的主義であり、個人生活への公的責任」である(167ページ)。これは個人の生活を支えることを公(国、地方自治体)の責任とする考え方である。日本で勢いを得ている「小さな政府」の対極の思想である。著者は「小さい国家と政府では、人びとが満足し、かつ安心できるような役割を果たせないことだけは明白である」と断言する(59ページ)。
これに対しては国が個人生活まで負担するとなると、財政がパンクしてしまうとの批判が考えられる。ところがスウェーデンの財政は日本政府よりもはるかに健全である。これは国による個人生活への支援によって個々人の自立が促され、結果として中間所得層が拡大するためである。中間層が拡大すれば救済すべき貧困者は減少し、税収は増加する(107ページ)。この好循環は、格差拡大が消費減退をもたらし景気を失速させ、それが一層格差を拡大させるという悪循環に陥っている日本と対比できる。
日本では「大きな政府」といえば、高福祉高負担となり、財政が悪化し、社会から活力がそがれるというお決まりの論法が登場する。しかし本書は、その種の言い尽くされた議論では得られない新鮮な視点を提供してくれる。それは1年の半分近くをスウェーデンで暮らすという著者ならではの客観的な視点である。日本を離れることで、日本の非合理な点を直視できる。例えば以下のような主張ができる日本人は少ないだろう。
「日本では、自らを勤勉と自画自賛してきた。しかし、広い世界を見回せば、過酷な気候、社会、それに労働の条件の下で懸命に働く途上国の人びとも勤勉といえるはずであるので、日本人自身の傲慢で狭量な過信に過ぎなかった。」(26ページ)
私は日本社会を批判する書籍を多く読んできたが、物足りなさを感じることも多かった。それは多くの論者が日本の問題点を批判しつつも、それでも日本社会は諸外国と比べて格別悪いわけではないという類の無根拠な思い込みが背後に見え隠れしていたためである。批判者であっても「日本には悪いところもあるが、良いところもある」という身贔屓な感情を捨てきれていない論者が少なくない。
日本の政治が問題を抱えていることは多くの国民が認識していることである。それにもかかわらず、日本では政権交代がほとんど行われていない。そこには現状を批判する立場の人々も、どこかに現状を肯定したい気持ちがあり、全否定できないという甘さを抱えていたことが一因である。
それに比べると、著者は島国という井の中の蛙になっていない。それ故に日本の問題点を直視できるし、悪いところを躊躇なく切り捨てることもできる。本書は日本国内の常識が決して世界の常識ではないことに気付かせてくれる。多くの人々が本書を読み、社会のあり方について考えるきっかけにして欲しい一冊である。
【書評】『疑惑のアングル』の感想
本書(新藤健一『疑惑のアングル 写真の嘘と真実、そして戦争』平凡社、2006年5月15日発行)はフォトジャーナリストによるドキュメントで、写真や報道の裏に隠された世論操作に迫る。
横田めぐみさんの写真、9・11テロの映像、イラク戦争でのフセイン大統領拘束劇の舞台裏、ロバート・キャパや岡村昭彦ら写真家のエピソード、日本軍の工作機関など内容は多岐に渡る。戦争がプロパガンダと密接に結びついていること、戦後日本も国家による謀略と無縁ではないことが様々な観点から示される。その中でも前半(第2章「見えてきた戦争」)と後半(第5章「闇の連鎖の彼方に」)で繰り返し取り上げられ、本書の背骨になっているテーマが普天間基地(米海兵隊普天間飛行場)問題である。
本書の主張は明確である。普天間基地の返還は1995年の沖縄米兵少女暴行事件を契機として沖縄県民から高まった基地縮小の声を受けてのものと説明される。しかし、実態は逆であったとする。
もともと米軍は老朽化し、補修も難しくなった普天間基地をもてあまし、辺野古沖への海上空港への移転を温めていた(90ページ)。さらに米海軍は空港に隣接して空母も接岸できる軍港を計画していた。そこに日米のゼネコンやコンサルティング会社、シンクタンクも加わり、新基地建設は一大利権プロジェクトとなった。
結論として、辺野古移設は米軍基地強化とそれに伴う利権獲得から生まれたものであった。米軍にとっては辺野古沖への移設が先にあり、普天間返還は住民の安全を考えてのものではなかった。この裏の狙いは普天間返還交渉に関わった日本政府や沖縄県の関係者も認識していたものであった。ここに普天間問題が今も迷走している原因がある。
民意が辺野古への基地建設を否定していることは明らかである。2009年の総選挙ではマニフェストに「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」と掲げた民主党が勝利した。民主党と社会民主党、国民新党の「連立政権樹立に当たっての政策合意」にも「沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」と明記された。そして2010年の名護市長選挙では辺野古への移設に反対する稲嶺進氏が当選した。
ところが日本政府の動きは民意を反映するものになっていない。これは普天間返還の表向きの目的と裏の動機の乖離があるためである。米軍基地負担の縮小を求める住民の願いが捻じ曲げられ、移設先ありきで議論されてきたことが今日の普天間問題迷走の背景である。その捻じ曲げられた実態を本書では明らかにしている。普天間問題が依然として迷走している現在において読み返す価値がある一冊である。
『近代日本と戦争』の感想
本書(李盛煥著、都奇延・大久保節士郎訳『近代日本と戦争』光陽出版社、2009年10月25日)は韓国の日本研究者が戦争という視点から日本の近現代史をまとめたものである。韓国は日本の帝国主義によって最も大きな被害を受けた国の一つである。しかし、本書では被害者としての視点は抑制されており、日本研究者としての中立的な記述になっている。
本書によって明治維新後の日本が際限なく戦争を繰り返していたことが理解できる。日本の戦争を正当化した論理が、山県有朋首相の第1回帝国議会(1890年)施政方針演説にある「利益線」であった。利益線は主権線(国土)を守る上で重要な地域を意味し、当時は朝鮮を念頭に置いていた。
ここから日本に敵対的な勢力が朝鮮半島に形成されてはならず、日本の勢力下に置かなければならないという発想が生まれた。これ自身が朝鮮の人民を無視した手前勝手な理屈である。しかも日本は朝鮮を植民地化した後は、朝鮮を守るためには満州、満州を守るためには華北が必要と無限に主権線・利益線を拡大していった(45ページ)。
この発想が日本の破滅をもたらしたが、本書は戦後にも利益線の影響を見出す。平和憲法を有する戦後日本が再武装した契機は朝鮮戦争であった(167ページ)。戦争国家を正当化する論理として朝鮮半島の危機が持ち出された点は戦後も変わらない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の飛翔体発射をめぐる過剰反応を振り返ると、その思いを強くする。
著者は自衛隊の海外派兵、日米同盟の強化、社会の右傾化から戦争国家日本が今も続いていると警告する。その上で戦後日本が戦争を経験しなかった要因として平和憲法の存在を挙げ、日本国憲法を世界遺産にすることを提言する(187ページ)。
本書は歴史を歪曲して日本を美化する立場とは対極に位置する。その本書が国家と国民を明確に区別し、日本の侵略戦争が国民の利益にならなかったと断言する点には救いがある。すなわち、日露戦争後の税負担率は日清戦争前の4倍になり、国民の窮乏をもたらした(99ページ)。また、国民は異質な環境の満州へ生活基盤を移すことを望んでおらず満州は国民にとっての生命線ではなかった(129ページ)。さらに平和憲法を敗戦という窮地に追い込まれた状況で日本人の平和を愛する本性が現れたものと評価する(187ページ)。
醜悪な過去を直視することには勇気が必要である。それ故に格差社会化する日本社会で負け組とされてルサンチマンが鬱積した人々は史実から目をそらし、過去を美化することで民族的自尊心を満足させる傾向に流れやすい。これに対して、本書は日本の過去を直視した上で、日本の中に世界に誇るべきもの(平和憲法)を見出した。これほどまでに日本を深く理解した研究者が隣国にいることは日本にとって幸福である。
『ハイチ いのちとの闘い −日本人医師300日の記録』の感想
本書はカリブ海に浮かぶ島国ハイチ共和国で医療活動に従事した日本人医師の体験記である。著者は「学ぶべきことは人々の中にある」というNGO代表の言葉に触発され、ハイチへの赴任を決意する。ハイチではカポジ肉腫・日和見感染研究所においてエイズの治療と研究を行うものの、2004年のクーデター騒乱によって出国する。
著者は専門家としてハイチに赴任したが、本書の内容は専門分野に閉じこもったものではなく、ハイチ社会と向き合った等身大の体験を記述する。ハイチ赴任のきっかけとなった言葉「学ぶべきことは人々の中にある」を文字通り体現している。
著者が赴任したカポジ肉腫・日和見感染研究所は過去10年以上にわたり、日本政府の援助を受けていたという。にもかかわらず、日本との人的交流は乏しかった。これは「顔の見えない」と形容される日本の援助の一例である。
著者は「こうした状況を変えてみたい」と考え、熊本で行われる感染症対策の研修コースに研修生を送り出す。著者がカポジ肉腫・日和見感染研究所に赴任し、それがきっかけでハイチの医者が日本を訪れる。これだけでも著者の赴任には意味がある。
本書の最後はクーデター騒乱の混乱の中からの身一つでの出国を描く。この騒乱は2004年にハイチ解放再建革命戦線が蜂起し、ジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が「亡命」した内戦である。ここにはキナ臭い話が色々とある。米国が反乱軍の武器を提供していた、アリスティド大統領の労働者保護政策に反対する米国人実業家アンドレ・アパイドが反政府勢力を率いていたなどである。
しかし、本書では、その種の政治的な裏話には触れていない。この点で国際政治の生々しい現実を知りたい向きには不満が残るが、現実に途上国で草の根の国際協力を行うためには政治に深入りしないことが必要であるかもしれない。
また、著者はハイチが混乱する背景として「麻薬を扱って利益を得ている集団」の存在を挙げる。この集団にとって安定した社会は不都合であるため、騒動を引き起こし、国内を不安定な状況に陥らせようとする。これを著者は「許しがたい」と非難する(184頁)。実際の世の中は明らかな悪を持ち出し、それを非難すれば済むというほど単純ではないと考える。しかし、誰もが合意できるところから非難していくということが現実的な知恵なのかもしれない。
本書では政治的な言説は抑制されているが、印象に残ったものはアメリカ在住のハイチ人アブジャスの言葉である。民主的に選ばれたアリスティドの施政下の混乱に直面して、「デュバリエ独裁時代のほうがハイチは豊かで、秩序があった」と独裁政権を懐かしむハイチ人がいることを彼は批判する。彼は独裁政権下の秩序を「恐怖の中での秩序」と位置付け、「自由のない社会の秩序は、自由のもたらす弊害以上に恐ろしい」と主張する(132頁)。
大衆が結果的には自らの首を絞めることになるにもかかわらず、独裁者を支持してしまうことは「パンとサーカス」で骨抜きにされた古代ローマから、ナチス・ドイツが台頭したワイマール共和国に至るまで繰り返されてきた。現代日本でも格差の拡大の中で鬱積したルサンチマンを歴史の美化や嫌韓によって埋め合わせようとする危険な傾向があり、決して他人事ではない。
日本社会の格差以上に深刻な苦しみを抱えるハイチで、独裁政権の恐怖を冷静に訴える意見に出会えたことは人間に対して明るい希望を与えてくれる。まさに「学ぶべきことは人々の中にある」という言葉の通りである。
『イラク崩壊』の感想
本書はイラク戦争以降のイラクを始めとする中東各地での取材をまとめたルポルタージュである。著者は朝日新聞元中東アフリカ総局特派員であるが、本書は日々の記事をまとめて一冊の書籍につなげたという類のものではない。サブタイトルに「米軍占領下、15万人の命はなぜ奪われたのか」とあるとおり、著書の問題意識を明確化し、危険な現地取材を通して著者なりの回答を出した力作である。
ジャーナリズムは主観を交えず事実を淡々と報道すればよいと考える向きには本書の性格は不満だろうが、著者の分析は傾聴に値する。著者は自爆テロが続くイラク社会を「人類史上、例のない異常事態」と表現する(304頁)。しかし、そこで「ムスリムは異常だ。我々の常識が通じない」と思考停止しない点が著者の鋭いところである。
著者は太平洋戦争における日本の特攻との類似性に思い至る。戦時中の日本は圧倒的な力を持つ米国と勝利の見込みのない戦争を続けており、国内では軍部が強権によって国民支配を正当化していた。さらに靖国神社や天皇制といった宗教的な装置が、特攻や玉砕などの死以外に選択肢のない戦い方を若者に強制する上で重要な役割を果たしていた。ここから著者は自爆の背景を探るために宗教指導者に会うことを課題の一つとした。
本書で描かれる米軍占領下のイラクは惨憺たるものである。米軍と戦うイラクの若者はアルカイダとも911同時多発テロとも関係なかった。米軍によって屈辱を味わわされ、財産を奪われ、人生設計の変更を余儀なくされたことにより、テロリストと呼ばれる側に身を投じていったのである。
一方で著者は米軍への抵抗勢力に対しても厳しい。本来は侵略軍への抵抗として国際的な共感を得られるはずであった。しかし、アルカイダに代表される不寛容なイスラム主義が伸張し、他派やジャーナリストをも攻撃対象とすることで、国際的な支持を得られる余地はなくなった。
それでも著者は解決策として米軍のイラク撤兵しかないと断言する(382ページ)。イラクの現状は米軍が持ち込んだ狂気が伝播し、増幅した結果だからである。米軍の即時撤兵は平和主義的な理想論にとどまらず、イラクの現実を見据えたものである。確かにイラクではシーア派とスンニ派を中心とした内戦状態にあり、米軍の撤退は宗派間の対立を一時的に激化させる危険性がある。
しかし、占領下でイラクの実情を無視した政策を押し付け、不法を繰り返した米軍にイラク各派の暴力を止める道義的資格は皆無である。むしろ米軍がイラクを占領している状態が武装勢力に大義名分を与えている。さらに対立宗派を「米軍の協力者」と決め付けることでイラク人同士の殺し合いが正当化されている。米軍さえ撤退すればイラクは平和になるというような楽観論には同意できないとしても、もはや米軍にはイラクに貢献する資格も能力もないという悲観的な立場からも米軍撤退は導き出せる。
本書の最後で著者は「イラク戦争とその後の占領の最大の目的」が「イスラエル防衛」にあるとの仮説を明らかにする(389ページ)。イスラエルにとって脅威になるフセイン政権の打倒を目的と考えるならば米軍の行動は合理的に説明がつく。
そもそもイラクには開戦の理由となった大量破壊兵器は存在しなかった。石油利権が目的だったとする陰謀論が流布しているが、米国は戦費に見合うだけの利権を得ていない。むしろ石油利権は実りのないイラク占領を国益優先主義者に納得させるためのカモフラージュではないかと推測する(176ページ)。
イスラエル防衛目的という著者の推測は、恐ろしいほどの説得力を持つ。米国にとってイラクで親米親イスラエル政権を樹立できればベストだが、それが無理ならばイスラエルの脅威にならないようにイラクを弱体化しておくことが上策となる。
米軍がイラク市民に不法を繰り返すことで、怒ったイラク市民を過激派へ追いやってイラクが混乱すれば、イスラエルに矛先が向かわずに済む。米軍のイラク占領政策は占領を進める上でも稚拙で、イラク市民から無用の反感を受ける内容であったが、そこにもネオコンの深謀遠慮が働いているのかもしれない。
加えて米軍がイラクでアラブ人の憎しみの的になることはイスラエルの負担を減ずることになる。イラクでは中東各国からイスラム聖戦士(ムジャヒディン)達が続々と入国し、米軍と戦い、自爆テロを繰り返している。著者はイラクに行ったムジャヒディンを輩出するレバノンの村を取材している。
当初、彼らはイスラエルと戦うことを望んでいたという。しかし、警戒厳重なイスラエルに比べて入国しやすいイラクを戦場とすることになる(328ページ)。米軍はイラク戦争によってアラブ中の不満分子の相手をイスラエルから肩代わりした形になる。米国の国益に反し、その威信を損ね、国力を低下させているイラク戦争はイスラエル防衛目的と考えれば辻褄が合う。
著者は「イラクでこれだけの犠牲を払ったその目的が、千葉県より少し人口が多い程度の小国の防衛のためだったというのでは、いったいイラク人の命はどうなるのだ?」と嘆息する(390ページ)。本書が読まれることで、イラク戦争がもたらした悲惨な状況を多くの人に考えてもらいたいと願わずにいられない。
社会主義
『マルクス主義の解縛』の感想
本書はマルクス主義信仰の縛りを解くことを目的とした書籍である。ソ連崩壊によってマルクス主義の社会的評価は著しく低下したが、日本のマルクス主義信奉者はソ連の失敗をもたらしたマルクス主義の問題点について十分に総括していないのではないかというのが著者の問題意識になっている。
日本の右派が都合の悪い過去(十五年戦争時の日本の戦争犯罪)から目を背けていると内外から批判されていることは有名である。同じ論理が左派にも当てはまることは興味深い。過去を水に流して反省しない点は左右を問わない日本人の民族性になっている。
マルクス主義は人類の歴史を階級闘争の歴史と定義し、階級のない社会を目指す。ところが社会主義を標榜した国家(旧ソ連など)でも現実はプロレタリアートの中の支配者が圧倒的多数のプロレタリアートを支配していた。一般の労働者にとっては支配階級が封建貴族やブルジョアから共産党に代わっただけであった。
この点を本書は多くの先行研究に依拠して明らかにする。時代状況や問題意識を共有していない多くの思想家が旧ソ連などの支配層の正体を知識人としていることには驚かされた。
●ミハイル・バクーニン「本物や偽物の学者という新しいごく少数の貴族」(47ページ)
●アルヴィン・グルドナー「文化的特権者としての新しい階級」(75ページ)
●ダニエル・ベル「知識人が社会主義の下では必然的に特権階級となる」(145ページ)
資本主義社会では資本(貨幣)を持つものが支配層であったが、生産手段の私有を廃止した社会主義国家では知識を有する者が支配層に取って代わったことになる。
私は旧ソ連などの支配層を知識人とする見方には腑に落ちない点がある。旧ソ連などは揃いも揃って戦前の日本と同じように軍国主義的であり、警察国家である。実際、本書が取り上げた高田保馬はソ連を「真先に五カ年計画をたてて軍備の充実を行ひ」「人間の生命を塵埃のように扱う」と批判する(235ページ)。
旧ソ連などにおける知識人の知識がマルクス主義のドグマに囚われた狭いものであったとしても、資本の代わりに知識が支配を正当化させる価値となったならば、むき出しの暴力で人民を抑圧する支配体制にはならないと考える。知識人は暴力から最も遠い存在である。知識人が支配層になるならば、もっとスマートな体制となる筈である。
資本が支配する社会に比べるならば、知識人が知識によって支配する社会の方が本来は期待できる。派遣切りによって住居まで失ってしまう、むき出しの資本の論理が横行する日本においては尚更である。この意味で本書の姿勢とは正反対であるが、社会主義社会がブルジョアに代わる知識人支配を意味するならば、理想社会ではないとしても、漸進的な進歩として社会主義を目指す意義はある。
ところが、現実に社会主義を標榜した国家は抑圧的な体制になってしまった。ここからは旧ソ連などの支配層になった知識人に一般的な知識人とは異なる権威主義的な要素があったことが推測できる。これについても本書はヒントを提供する。それは科学的社会主義との呼称で殊更に科学にこだわり、「下部構造が上部構造を規定する」として経済(生産関係)に偏重する姿勢である。まとめれば文化的・精神的な要素の軽視である。
このようなマルクス主義の構造的な欠陥から日本の左派は目を反らせていると本書は批判する。私も著者の主張に同意するが、一方で本書が明らかにした社会主義を標榜した国家の失敗を踏まえると、日本の左派の動向に一筋の光明を見出せる。
それは憲法第9条擁護に代表される徹底した平和主義が左派の運動の中心的価値となっていることである。海上自衛隊員が隊員15人相手の格闘訓練をさせられて死亡した事件が報道されたが、軍隊は本質的に人権や民主主義とは両立し難い非人間的な組織である。
戦前の日本が暗い陰惨なイメージで振り返られがちなのは甚大な戦争被害を受けたからだけではない。社会の隅々にまで軍隊的な思想が支配していたからである。この暗さは旧ソ連などの抑圧体制に通じる。その意味でマルクス主義への総括が不十分であるとしても、日本の左派は軍隊を否定する平和憲法を掲げることで旧ソ連と同じ轍を踏むことはないと期待できる。
社会主義理論学会第20回研究集会で千石好郎氏がマルクス主義批判
社会主義理論学会第20回研究集会が2009年4月29日に東京都・文京区民センターで開催された。「マルクスをどうする?」をテーマに、千石好郎・松山大学教授の著書『マルクス主義の解縛』(ロゴス、2009年)を基にマルクス主義の功罪及び現代的意義について活発な議論が交わされた。司会は田上孝一・立正大学講師である。
集会では最初に千石氏が「マルクス主義の解縛」と題してメイン報告を行い、それに対してコメンテーターである岡本磐男(東洋大学名誉教授)、上島武(大阪経済大学名誉教授)、村瀬大観(現代思想研究会)の3氏がコメントした。最後に参加者からの質疑応答にあてられた。
千石氏は市場や国家を廃絶・死滅させようとするマルクス主義の目標を空想的と批判する。人間は制度を創造し、手直しすることの積み重ねでしか、より良き社会を構築できないためである。また、下部構造(経済)を歴史発展の主因と捉える唯物史観には限界があり、文化など複合的な視点の重要性を主張した。例えば格差社会の元凶である就職氷河期も人口ピラミッドの歪みから説明できる。圧倒的に多い団塊の世代が経済の縮小する中でも職にとどまっているために若年層が弾き出された。それ故、階級論から格差社会を語ることには限界があると主張した。
続いてコメンテーターがコメントした。岡本氏は千石氏のマルクス主義批判は革命思想としてのマルクス主義に対するもので、マルクス経済学に対する批判にはならないのではないかと指摘した。また、市場経済の廃止を空想的と切り捨てるが、人類の歴史を振り返ると、市場経済よりも共同体経済の方が長期間・広範囲に行われており、市場経済を必然視する方が空想的ではないかと主張した。
上島氏はロシア革命を民衆が支配階級を振り捨て歴史の担い手になることを行動において示したと意義付ける。その上で革命を蒸気機関に喩えて、蒸気(民衆の自発性)がピストン付きのシリンダー(前衛党の指導)に注入されて動力(革命)が生じるとしたトロツキーの言葉を引き合いに出し、前衛党に一定の評価を与えた。
これに対し、村瀬氏は千石氏の主張に賛同し、スターリニズムの由来を職業革命家による前衛党の指導を必須としたレーニンの外部注入論に求めることは妥当とする。革命時の一時的な措置として正当化するならば、職業革命家から労働者へ実権を戻すことが可能か検討する必要があると主張した。そして分派活動こそ党に力を与えると問題提起した。
参加者からの質疑応答では様々な意見が出されたが、千石氏が狭隘と批判した唯物史観について関心が集中した。会場からは経済が上部構造を規定するという唯物史観の有効性は失われていないのではないかと意見が出された。また、唯物史観は経済決定論ではなく、経済を重視する思想ではないか、経済重視とすれば複合的な史観と差は少ないのではないかと指摘された。これに対して、千石氏は唯物史観では説明できない面がある以上、マルクス主義に拘泥するのではなく、現実に即して理論を精緻化していくべきと反論した。
社会主義理論学会は研究者が発表するアカデミックな学会であるが、広く一般にも門戸を開放している。今回の集会でも労働組合の活動家が活動経験を踏まえて発言するなど実践的な要素があるのが特徴であった。
雑誌「プランB」読者会で活発な議論
隔月刊誌「プランB」の読者会が2009年5月6日、東京・文京区民センターにて開催された。「プランB」は社会問題を扱う硬派な雑誌である。発行元はロゴス社(東京都文京区)で、雑誌名には閉塞時代を打ち破る代案の提示という意味が込められている。
2006年2月に「もう一つの世界へ」という誌名で創刊され、2009年2月の第19号から現在の誌名に改題し、最新刊は2009年4月発行の第20号である。「プランB」となった第19号から読者参加型の試みとして、編集委員と執筆者、読者が一堂に会して感想や意見を述べあう読者会を開催した。今回は2回目の読者会で、参加者は11名であった。記者は第20号に書評を掲載した関係で、末席を汚すことになった。
第20号は労働組合、農業、竹島(独島)の帰属、王制を廃止したネパールの近況など多岐に渡るテーマを扱っており、それを反映して読者の感想や意見も多様であった。本記事では3点ほど指摘する。
第一に労働組合運動の前提として、労働者の置かれた状況についての現状認識がある。グローバリゼーションの結果、世界的に労働条件が平準化したとする見解と、格差が拡大して二極化したとする見解が対立した。
古典的な経済学の立場からは完全自由市場では商品価格は平準化する(一物一価の法則)。ここからグローバリゼーションが進むことで国家別の規制が弱まる結果、長期的には労働条件が世界的に平準化するのではないかと指摘された。これに対して現実には自由競争化は配分を不公正にし、格差を拡大させると反論された。
第二に農業問題である。自然を相手にする農業の特殊性から、農業を保護する必要性を強調する論文の主張に対しては異論が提起された。農業も工業技術によって生産性を増大できるとの主張がなされた。食品に対して遺伝子組み換え技術などの安易な工業技術を利用することの危険性が再反論される一方で、無菌状態の植物工場では農薬が不要になるなど工業化によって安全性が高まる面もあり、一概に否定できないと批判された。
第三に不動産問題である。雑誌のコラムでは国の持ち家政策の歪みから、住宅が過剰供給された結果、空き家が増加していると指摘された。記者は自身の新築マンション購入トラブルの経験をもとに、地域の住環境を破壊し、マンション住民も不幸にする分譲マンションが大量に建設される実態を問題提起した。
これに対して、欧州では芸術家やホームレス、移民労働者の空き家占拠闘争が起きており、空き家もホームレスも増加する日本に示唆を与えるとの意見が出された。実際、2009年初めには東京・日比谷公園の年越し派遣村の要求に押されて厚生労働省が講堂を開放した。マンションの乱開発を抑制し、住居のない人に空き家を提供できるような政策が求められている。深い議論が行われ、勉強になった読者会であった。
『閉塞時代に挑む』の感想
本書は新左翼活動家による社会主義の研究成果をまとめたものである。マルクス主義を批判的に再検討し、社会変革の指針を示している。
歴史とは過去の積み重ねである。過去と連続している面がある一方で、断絶している面もある。どこに連続性と断絶を見出すかによって、人の認識は大きく変わりうる。本書は連続性と断絶について非常にユニークな視点を提供する。
最初に連続性についてである。マルクス主義者は自らの社会主義を科学的社会主義とし、それ以前の社会主義思想を空想的社会主義と切り捨ててしまう傾向にある。これに対し、本書ではマルクスやエンゲルスのみを突出させるのではなく、それ以前の思想も丹念に拾って、歴史の流れを俯瞰する。
この先人のロゴスに耳を傾けるという著者のスタンスは、生存権の研究で成功している。生存権はワイマール憲法を嚆矢とする現代的な権利と説明されることが一般的だが、本書は1793年のジャコバン憲法に生存権の源流を見出す(37ページ)。また、革命家バブーフが生存権を自然権と位置付けていたことを明らかにする(38ページ)。
派遣切りによって派遣労働者が住む場所も失い路上生活を余儀なくされる現代日本において生存権の意義は非常に大きい。しかし、社会的要請に憲法学は十分に対応できていない。それは生存権を国家によって保障される社会権・後国家的権利として、表現の自由のような自由権・前国家的権利の一段下に位置付ける傾向があるためである。本書が明らかにした生存権の歴史性は、生存権を真の意味で有効な権利とするための理論的な下地となりうるものである。
次に断絶についてである。唯物史観では人類の歴史を階級闘争の歴史と位置付ける。そして国家は支配階級が被支配階級を抑圧するための機関と考える(階級国家論)。この思想を信奉するならば資本主義社会における国家はブルジョアによる支配の道具であり、それを打倒することがプロレタリアの階級闘争になる。
これに対し、本書ではブルジョア革命前後での政治的支配の差異に注目する。奴隷制社会や封建制社会では支配階級が政治面でも経済面でも階級支配を貫いていた(23ページ)。ところが、ブルジョア革命では革命を正当化する理論として民主主義や人権が主張された。
この結果、資本主義社会は経済面では資本家の利潤追求(プロレタリアにとっては搾取であり、支配になる)が保障されるが、政治的にはプロレタリアも含めた全国民に政治参加の道を開く民主政に行き着く。つまり、ブルジョアは支配階級として固定されている訳ではなく、国家制度もブルジョアにのみ奉仕するものではない。この点において現代社会は階級国家ではない。著者が「則法革命」(法に則った社会変革)を目指すのは、この民主政の歴史的意義を踏まえたからである。
格差が深刻化した現代日本においてマルクス主義が再評価されることは自然な流れであるが、その場合に暴力革命をどのように考えるかという問題がある。本書はブルジョア革命前後での支配体制の相違を見出すことで、民主主義の枠内で社会変革を進めることに積極的な意義を見出している。現代日本において社会主義を実践する上で理論的支柱となる一冊である。(林田力)
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林田力『東急不動産だまし売り裁判』