Last Update: 2012/05/16

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『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』異界に通じる森


クラーク・アシュトン・スミス著、大瀧啓裕訳『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』(創元推理文庫)は幻想的なホラー短編集である。フランスの架空の一地方アヴェロワーニュの中近世の年代記と、オカルト現象を扱った降霊術奇譚から構成される。

アヴェロワーニュ年代記は「怪物像をつくる者」で始まる。ローマ・カトリックが絶対的な権威を有している中世フランスを舞台とするが、キリスト教が邪悪な存在に無力であることが浮かび上がる。読者をアヴェロワーニュの世界に誘う入口にふさわしい。

続く「アゼダラクの聖性」ではカトリックの司教にまで背教者が入り込んでいる。それを告発しようとする修道士が主人公であるが、物語は背徳の司教との対決という予想から大きく外れた展開となった。

「イルゥルニュ城の巨像」は死の間際に社会に復讐しようとする降霊術師の物語である。オカルトにはオカルトで対抗する構図を描く。

「アヴェロワーニュの媾曳」は森で逢引しようとして異界に囚われたカップルの物語である。これまでの短編は人間の邪悪な意思の話であったが、ここからは人外の現象が主題になる。続く「アヴェロワーニュの獣」は本書では珍しくSF色のある作品である。未来を描くだけがSFではないと再確認させられる。

「マンドラゴラ」は魔法使い夫婦の話である。闇に葬られた死者の怨念が殺人の事実を明らかにするという展開はホラー作品の定番中の定番である。ここでは魔法や錬金術の原料として馴染みのマンドラゴラを小道具として上手に使っている。

「ウェヌスの発掘」は修道院の敷地から発掘されたウェヌス像の物語である。ウェヌス(ヴィーナス)はローマ神話の美の女神である。キリスト教によってローマ神話は抑圧されたが、ここではウェヌス像が修道士を翻弄する。

「サテュロス」「シレールの魔女」では森が魔物の棲み、異界に通じる領域としてクローズアップされる。以下の文章が示している。

「森には人間にとって有害なものが出没し、キリストやサタンよりも古い原初の邪悪な霊もいる」(201頁)

ここには自然と人間を対立的に位置付け、人間の征服対象と捉える西洋的な自然観が投影されている。この種の西洋思想が環境破壊をもたらしたとして自然と共存する東洋思想の優越を語るナイーブな議論がある。森に安らぎや親しみを感じ、ロハスな生活を追求することは結構である。

しかし、それは人間に飼いならされた、人間に都合の良い自然である。人間の世界とは異質な他者として自然を認めることができるかが問われる。その点の発想が弱い日本では自然を破壊して超高層ビルを建設し、周辺や屋上を緑化することで自然と調和した再開発とデベロッパーが自賛するような勘違いが生まれる。その典型が東急電鉄や東急不動産が東京都世田谷区で進める二子玉川ライズである。

日本でも古くは森を魔物の棲む世界という見方があった。分かりやすい例に映画『もののけ姫』の世界がある。そこでは森は「もののけ」の棲む場所で、人間との間に勢力新生が起きていた。シシ神が討たれた後に森は復活するが、それは最早人を寄せ付けない森ではなくなってしまった。

「サテュロス」では異界の存在は人間にとって害をなすものであった。その社会的視点は「シレールの魔女」で変わらないが、主人公の選択は異なっていた。続く「物語の結末」でも異界の存在に対する抗い難い魅力を歌い上げる。

一方で年代記最後の「蟾蜍のおばさん」は「シレールの魔女」や「物語の結末」のロマンスに冷や水を浴びせる内容になっている。訳者は「蟾蜍のおばさん」が年代不詳のために最後に置いたと説明するが(412頁)、これを最後にすることで宴の後の空しさ寂しさのような印象を与える。

降霊術奇譚にはオカルトにのめり込んだ人物が破滅するストーリーが多い。「アフォーゴモンの鎖」は神に背いて禁忌の術を用いた神官の絶望が描かれる。「魔力のある物語」は先祖の体験とリンクする物語である。

「妖術師の帰還」は悪人が怪奇現象によって裁かれる勧善懲悪型のホラーである。現代日本の幽霊が出るマンションでも起きそうな話である。「分裂症の造物主」は主人公にとって救いがない結末であるが、神と悪魔について哲学的な内容を含んでいる。

「彼方から狩り立てるもの」はインスピレーションを得ようとしてオカルトの世界に足を踏み入れた芸術家が、そのために最愛の人を失ってしまう。その後の「塵埃を踏み歩くもの」は対照的に注意深く節度を持ったオカルト研究者に降りかかった話である。広い意味では本人の不注意に属するが、他者の行為が原因であると明らかにするミステリー色が濃い。(林田力)




『サバンナゲーム』格差社会の犠牲者がヤンキーを殺害する爽快


黒井嵐輔『サバンナゲーム 〜始動〜』(小学館)はモバゲーの小説コーナーで人気となった作品である。バトル・アクション、現代のテクノロジーを超えた武器、ファンタジー世界の超自然的能力、歴史上の人物の活躍とエンターテイメントの数多くの要素が詰まった作品である。

主人公はワーキングプアのフリーターである。「飯を食うために働き、今を生きることに必死な日常」(6頁)を送る格差社会の犠牲者である。それが日本国中を巻き込む殺人ゲーム・サバンナゲームの開催によって、非日常の世界に突入する。

かつて赤木智弘の論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」が格差社会の犠牲者の心理を率直に表明したものとして反響を呼んだ。『サバンナゲーム』にも貧困や格差に苦しむ人々が絶望的な毎日から抜け出すために破壊的な事態に希望を求める心理が現れている。

『サバンナゲーム』は人殺しのゲームであり、残虐な描写も存在する。アニメ化も決定されたが、『バトルロワイヤル』に対するものと同じような道徳的な非難が寄せられかねない。救いは主人公達が序盤で殺害する敵がヤンキーであることである。ヤンキーは「いかにも不良じみた風体」(71頁)で、主人公達に絡む社会のクズ的な存在として描かれている。

主人公達にも殺しを楽しむ残虐な気持ちが芽生えるものの、相手がヤンキーであるために主人公側に感情移入できる。また、主人公側も「こいつらと同じ人種になってしまう」(77頁)と自分達を戒めており、ヤンキーとは明確に区別されている。

後半に入ると真に倒すべき敵が浮かび上がってくる。しかし、本書はタイトルに『始動』とあるように導入部で終わっている。続編に大いに期待する。(林田力)




『権力のつかみ方』遅刻癖を切り捨てる健全性


内藤誼人『権力のつかみ方 〜人の心を虜にするJFK式「心理操作の魔術」〜』(大和書房)は、ケネディ大統領の言動を手本として支持されるリーダーになるための秘訣をまとめた書籍である。ケネディの言葉を紹介するが、ケネディの心理に踏み込むよりも、ケネディを導入部にして著者の哲学を全面に出している。ケネディは……と言っているが、危険なので……がいいという箇所もあるほどである(164頁)。

内容は「遠慮するな。厚かましくあれ」などの逆説的な見出しが並び、カバー裏には「あなたの人生観を根本から覆す『変革の書』」と紹介されている。しかし、内容は意外にも真っ当なものが多い。本書は権力をつかむためのハウツー本であり、望ましい権力者像を示すものではない。それ故に権力を悪用したい人物が本書を読んで権力者を目指すことにも使える。

それでも本書の背後にある著者の道徳観念は健全である。たとえば遅刻をする人間への否定的評価は複数箇所で登場する。普段は仏様のような顔をしているという著者であるが、約束の時間を守らない人には怖い顔を見せ、怒鳴りつける(70頁)また、口では綺麗事を語る人物でも遅刻癖があれば、その事実から、これっぽっちも価値がない人物と評価する(111頁)。

本書の提言には相互に抵触しかねない内容もある。たとえば福島第一原発事故で情報隠しが批判された東京電力を反面教師として悪い情報は早く伝えるべきとする(112頁)。ところが、他の箇所では上手な嘘が付けるように日頃から準備しておくことを推奨する(118頁)。

一方では「イヤな相手に、あえて好意的に接する」ことを勧める(35頁)。他方で「苦手な人はどうしたって苦手である。そういう人と付き合うのに過剰なエネルギーを費やす必要はない」と述べる(184頁)。リーダーになる道は一つではない。本書は一つの考えだけが唯一絶対というような幼稚な愚かさとは無縁である。

本書の「まわりからよく思われていない相手を切ると、それ以外の人からの評価を高めることにもつながる」(188頁)は私にも実感がある。しかも、切った相手は遅刻の常習者で、他人の迷惑を省みない人物であった。本書の価値観と合致する。その点もあって納得できる内容が多かった。(林田力)


『新しい道徳』携帯メール依存症は人間を壊す


藤原和博『新しい道徳』(ちくまプリマー新書)は民間人初の公立中学校長として話題を集めた人物が現代社会に即した道徳を提言する書籍である。私は道徳の書籍というものに必ずしも好印象を抱いていない。唯一絶対と信奉する価値観を一方的に押し付ける印象が強いためである。

愛国心教育が典型であるが、愛国心の押しつけを批判する側にも似たような傾向がある。教育現場を覆う管理主義は深刻な問題である。しかし、それを批判する教師側にも自己の考えのみを絶対視し、自己と他者を線引きする偏狭さが見受けられる。同じような管理主義の犠牲者の教師に対しても考えの相違する人々に対しては連帯ではなく、反動的な知事や教育委員会に対してと同じように執拗に攻撃する。

私は政策作りの市民運動に参加したことがある。そこで管理教育批判の立場から「教育の自由」という提言がなされたが、これに対して「教師に好き勝手させるような印象を与える」との反対意見が出され、「教育の自主性」に変更されたことがある。一部の人々の独善は進歩的な市民でさえも辟易させてしまう。

進歩派さえ辟易する状況である。故に「腐った公務員を何とかしてほしい」と考える多数の市民が「荒療治が必要」「病根を断つために極端な手段も正当化される」と管理教育を推進する首長を支持してしまうことも説明がつく。強権的な首長の手法に問題があっても、むしろ問題があるからこそ支持してしまう心理である(林田力「都知事選出馬の渡辺美樹・ワタミ会長の経営の評価」)。

http://www.hayariki.net/poli/tokyo.html

これに対して『新しい道徳』は価値観の多様性を前提とする。唯一絶対の正解の押しつけを否定することから出発する。それ故に著者の結論に納得する人だけでなく、著者の結論を支持しない人も一つの考え方として読む価値がある。

興味深い内容は携帯メール依存症批判である。携帯メール依存症の問題は既に様々なところで指摘されている。本書では携帯メール依存を世代間ギャップと捉えるきらいがあるが、若年層の間でも携帯メール依存症は恥ずかしく、迷惑な存在である。若年層に人気の漫画の中でも携帯メール依存症は風刺されている(林田力「空知英秋『銀魂』に見るゼロゼロ物件業者への対抗価値」PJニュース2011年11月4日)。

http://www.pjnews.net/news/794/20111103_2

この点で著者の若者観にはステレオタイプな傾向があるものの、携帯メール依存の弊害の指摘は重たい。携帯メール依存症患者は携帯メールによってつながっているという安心感が生まれる。これは幻想的なものであるが、本人にとって心理的な安心感が得られる。

これが相手の都合を無視してメールを送りつけながら、返事がないとキレるという身勝手な反応をもたらす理由である。メールは電話と異なり、非同期性が最大の特徴であるが、同期的な使用法しかしないならば愚かである(林田力「電子メールの同期性と非同期性(上)」PJニュース2010年12月16日)。

このように携帯メール依存症は携帯メールのコミュニケーションの世界でも迷惑な存在である。しかし、携帯メール依存症の弊害は携帯メールの世界にとどまらない。つながっているという幻想的な安心感によって感覚が麻痺し、いつでも質問すれば誰かが反応してくれると考えてしまう。その結果、自立心や異なる価値観に立脚する他者の話を聞く能力が失われると指摘する。

この指摘は説得的である。たとえばパソコンのメールを携帯メールの感覚で雑な文章で書いて読み手の反感を買うケースは現実にある。まさに道徳(モラル)の問題として取り上げる価値のある話である。携帯メール依存が人間を壊すことが理解できる内容であった。


『贋作に明日はない』ゼロゼロ物件業者とは対照的な人情味ある家主


ヘイリー・リンド著、岩田佳代子訳『贋作に明日はない』(創元推理文庫、2012年)は贋作ミステリーの二作目である。主人公アニー・キンケイドは世界的な贋作者の孫娘で、駆け出しの画家・装飾家である。舞台はサンフランシスコである。贋作がテーマとなっているだけあって、芸術の話題が豊富である。

話題となる芸術はヨーロッパに特化されているが、登場人物にはアフリカ系やアジア系もおり、人種のサラダボールとしての米国を描いている。主人公の祖父は会話にフランス語が入るフランス愛好者であるが、一方で本書はフランス語を「口から出まかせを並べ立てるのに、このうえなく適した言葉」と扱き下ろすことも忘れていない(154頁)。

主人公は駆け出しの芸術家で生活は苦しい。そのために家賃も滞納気味である。しかし、家主は「この先、家賃支払いの都合がつかないような状況に陥ったら、ちゃんと言ってきてくれ」とまで言う(58頁)。人情味ある家主の存在によって新たなストーリーが生まれる。

駆け出しの芸術家という主人公は夢も追って上京した日本の若者とも重なるが、日本の状況は深刻である。僅か一日の家賃滞納で高額な違約金を請求し、追い出し屋に豹変するゼロゼロ物件業者が横行している。現代日本の閉塞感はゼロゼロ物件などの貧困ビジネスが横行する住まいの貧困が要因になっていることを再確認させられる。

冒頭から死体が発見され、ミステリーとしての舞台が整うが、主人公は事件を解決する探偵ではない。刑事の友人はいるが、警察に協力して事件を解決する立場でもない。そのために事件解決に向けて一直線という物語ではない。むしろロマンスの粋な会話を楽しむ作品である。

スリルという点では序盤は張り込み中に友人を呼んでパーティーをするなど緊張感の欠片もない。ラストは緊迫感あふれる状況であるが、メアリー・グレーの解説が深刻感を薄め、スリルの中にもユーモラスな雰囲気にしている。(林田力)


『建礼門院徳子』徳子の秘められた心理描写


鳥越碧『建礼門院徳子』(講談社、2011年)は平清盛の娘にして、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母親である建礼門院徳子を描いた小説である。平家物語のラストを飾る大原御幸で幕を開け、徳子の幼少期に遡る。

徳子の秘められた心理描写が中心で政治的な事件は淡々と描かれる。平家は最終的には源氏に滅ぼされるが、それ以前に寺社勢力などの旧来の支配層を敵に回していた。そのきっかけを『建礼門院徳子』では高倉上皇が上皇になってから最初に参拝した神社が平家の信仰する厳島神社であったためとする(109頁)。

上皇になって最初の社参は石清水八幡宮や賀茂神社などと先例では決まっていた。この先例無視は寺社勢力軽視と受け止められ、寺社勢力の反感を買う。それまで互いに競い合っていた寺社勢力が反平家で一致団結した。

東急不動産だまし売り裁判で東急不動産はマンションだまし売り被害者本人を無視して話を進めようとし、被害者から反発を受け、提訴された(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年、14頁)。順番を間違えると、まとまるものもまとまらなくなる好例である。


『QuickJapan』100号、『AKB0048』特集でAKB48の本質論


『QuickJapan(クイック・ジャパン)』(太田出版、2012年02月11日発売)はサブカルチャー系雑誌である。記念すべき第100号は大きく4本の特集を組む。

第一に2012年4月放送開始のアニメ『AKB0048』(エーケービー・ゼロゼロフォーティエイト)の特集である。記事では『AKB0048』の作り手がAKB48の本質をつかんでいることが理解できるようになっている。また、現実のAKB48と『AKB0048』の相違点である襲名制や「会いに行くアイドル」についての分析も鋭い。

第二の特集は「あなたと未来を変えるキーパーソン20」である。入江悠、樋口毅宏、劇団ひとり、綾小路翔の各氏が映画監督、作家、ミュージシャン、芸人について各々5人をピックアップする。選考者も気鋭の存在であり、尖がった選び方がされている。面白かった内容は「入江悠が選ぶあなたと未来を変える映画監督5人」である。家賃を平気で滞納しているという映画監督を、変人ぶりを示すエピソードとして肯定的に評価する(93頁)。

一方で日本では僅か一日の家賃滞納で高額な違約金を請求し、追い出し屋に豹変するゼロゼロ物件業者もいる。入江氏も「賃貸&生活費などの現状維持が厳しくなった」(89頁)と書いているように気鋭のクリエイターを取り巻く経済的状況は厳しい。ゼロゼロ物件などの貧困ビジネスは文化の破壊者でもあると実感する。

第三の特集は「テレビ・オブ・ザ・イヤー2011」である。現役放送作家9名の対談で面白いバラエティ番組を選ぶ。満場一致で大賞を受賞した番組は対決物であるが、敗者へのフォローをしっかりしている点が評価された(64頁)。番組プロデューサーへのインタビューでも「素人ナンバーワン決定戦にしちゃうと、少なからず傷つける人が出てくる」とし、両者のプライドを守ることを重視したとする。勝負は番組が勝手に決めたルールで対戦した結果であり、絶対的な勝敗ではないとの意味が込められている(72頁)。

第四の特集は高城れに(ももいろクローバーZ)へのインタビューである。ももいろクローバーZはアクロバティックなパフォーマンスで通常のアイドルと一線を画した存在として注目されるが、もともと高城さんはモーニング娘。の久住小春に憧れていたという(132頁)。

モーニング娘。もデビュー当時はテレビ東京のオーディション番組の落選組を集めて結成され、B級感漂うグループであった。『LOVEマシーン』などのヒット後もアイドルとして偶像化されるよりも、面白さを持った存在として人気を誇った。そのモー娘。が正統派アイドルとして対比される存在になっていることに時代の移り変わりを実感する。

インタビューでは遅刻をしないことやレッスンに誰よりも早く行くことなど高城さんの努力も語られている(133頁)。このような小さな積み重ねはモーニング娘。やAKB48とも共通する。異色のアイドルとして注目される「ももクロ」であるが、根っこのところではつながっている。


『失われたミカドの秘紋』天皇制への批判的視点


加治将一『失われたミカドの秘紋 失われたミカドの秘紋 エルサレムからヤマトへ 「漢字」がすべてを語りだす!』(祥伝社、2010年)は陰謀論的な歴史観に立って歴史の新説を提示する小説である。歴史に対する見解や主張は登場人物のセリフとして語られており、著者の思想そのものとはワンクッション置いている。

本書中の思想には問題がある内容も含まれている。中国をチャイナと呼んでいる。中華思想に否定的な立場からのものであるが、相手国を無視した呼び方である。これでは現代日本が倭と呼ばれても文句を言えない。

また、偽満州国民であった満州族の人物を登場させ、偽満州国を肯定的に評価させている。その種の考えは偽満州国の特権階級が抱くことはあり得るが、満州族に一般化することは歴史の歪曲・美化になる。

さらには漢族がアフリカ発祥の現人類とは異なる北京原人の子孫という悪質なレイシズム思想も登場する。救いは日本民族に対しても同じように相対化していることである。民族の純血性よりも多様性に価値を見出している。中国を貶めて自民族の優位性を主張するネット右翼とは相違する。

そして、問題を差し引いても『失われたミカドの秘紋』は魅力的な思想を提示する。天皇崇拝者が登場するが、彼は天皇の自由を奪い、自らは天皇の権威に隠れて特権をむさぼる宮内庁を強く批判する。これは日本の官僚機構の国民無視の特権意識に通じる。

日本の官僚には国民の声を無視して自らに都合のよい政策を実施する傾向がある。国民が疑問を提起しても、疑問に答えず、国の基準に従っているから問題ないという論理を振りかざす(林田力「二子玉川ライズ住民訴訟は住民運動の勝利」)。究極的には「お上が決めたことに臣民は逆らうな」という発想である。

その種の勝手な振る舞いが可能な背景には天皇がある。官僚は自分達が天皇に近い立場にあるということを自らの権威としている。「切り札は天皇の権威、ご威光」で、「下々のこれ以上の詮索は不敬である頭が高い」とする(91頁)。尾崎行雄の以下の言葉は現代にも妥当する。

「彼らは常に口を開けば直に忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく唱えておりますが、その為すところ見れば、常に玉座の蔭に隠れて、政敵を狙撃するがごとき挙動を執って居るのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。」

このような天皇制への批判的視点は林田力も出演した真相JAPAN×目覚めるラジオのDVD『ジャーナリスト講座?すべてを疑え!』でも指摘されている。

さらに『失われたミカドの秘紋』では中華人民共和国が天皇制で利益を得ているという嫌中右翼が目を白黒させそうな話も登場する。中国は南京大虐殺や靖国神社参拝では日本を非難するが、天皇制という根本問題では沈黙する。それは中国政府にとって天皇制は利益だからとする。現実に天安門事件での西側世界の非難がうやむやになった契機が天皇訪中であった。

天皇制の下で天皇の権威に隠れて官僚が甘い汁を吸っている限り、日本は中国の脅威ではない。逆に日本が共和制になり、国益を考える政治家が登場する方が脅威とする。右翼には国益重視を口にするが、国益を害しているものは何か見直す必要がある。


『憤怒の王国』韓国社会の貧困や苦しみと怒り


文永南著、林蓮訳『憤怒の王国』(第三書館、1994年)は韓国のベストセラー小説である。朝鮮王朝の国王の末裔が亡国の恨みと怒りを胸に90年代に天皇・明仁を狙撃する。韓国人の天皇、そして日本に向けられた怒りを描く力作である。

韓国でテレビドラマ化されたが、天皇を狙撃するシーンに対して日本政府が放送自粛を要求するという外交問題になった作品である。そのためにセンセーショナルな反日作品と受け止められがちであるが、実態は全く異なる。

『憤怒の王国』では日本の植民地支配に端を発する韓国社会の貧困や苦しみを丁寧に描いている。帝国主義支配の象徴である天皇に怒りが向かうことが日本人でも納得できる。日本政府にとって自国の象徴が狙撃されるシーンは面白くないが、過去の植民地支配を踏まえれば日本政府の自粛要求は一方的であり、自国の立場にのみ固執したものである。

憤怒の王国はセンセーショナルな作品ではなく、むしろ序盤や中盤はストーリーの方向性が見えずにもどかしいくらいである。さらに辛辣な批判の矛先は韓国社会にも向けられている。これは歴史を歪曲してまでも自民族を美化しなければ民族的自尊心が保てない日本のネット右翼とは対照的である。

深い含蓄のある作品をセンセーショナルに反日作品と脊髄反射する傾向は金辰明『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』に対する反応とも共通する。日本社会の未成熟さを示すものである。(林田力)




『魔法の代償』ヴァルデマールを舞台としたファンタジー


マーセデス・ラッキー『魔法の代償』は架空の王国ヴァルデマールを舞台としたファンタジーである。原題は『Magic's Price』。ヴァルデマール国を中心とした壮大な物語「ヴァルデマール年代記」の一冊で、伝説的な「魔法使者」ヴァニエルの生涯を描く「最後の魔法使者」三部作の完結編である。ヴァルデマールは中世ヨーロッパのような社会であるが、特別な素質を持った人々が魔法や超自然的な能力を使える世界である。

ヴァルデマールの国王ランディルは原因不明の病に侵されていた。あらゆる治療に成果はなく、若き詩人ステフェンが国王の苦しみを和らげるために連れてこられた。ステフェンの歌声によって国王の苦しみが薄れる。

そしてヴァニエルとステフェンは互いに惹かれあう。上巻は二人のじれったい恋の駆け引きに多くの紙数が割かれている。最後を除いて魔法を駆使した緊迫するバトル要素は乏しい。ヴァルデマール国の日常が綴られているが、その内容には現代社会にも通じるものがある。

第一に過労死である。ステフェンは類い希なる能力のために治療者達の研究材料になるが、治療者達に自分の能力を示し続けて精力を消耗してしまう。優れた能力者でも有限という点でリアリティがある。消耗したステフェンを救ったものは友人メドレンのアドバイスであった。

治療者の依頼を嫌味たっぷりに断るステフェンの演技が魅力的である(155頁)。頑張ることを美徳とする特殊日本的精神論とは対照的である。日本には過労死という翻訳不可能な現象が起きている(林田力「過労死概念の変遷」PJニュース2011年3月3日)。メドレンのように助言する友人とステフェンのように断る勇気が過労死防止になる。

第二に職業差別的発想の克服である。物語世界では資格を持った魔法使いを「魔法使者」、それ以外の能力者を「使者」と呼ぶ。魔法使者の方が単なる使者よりも格上というイメージが抱かれている。実際は魔法使者と使者は能力の種類の相違による区別であり、ある分野では魔法使者よりも使者が優れている。現代社会でも単なる役割の相違を上下にランク付けする発想がある。この固定観念を改めようとするヴァニエルの戦いは現代にも通じるものである。

第三に差別的発想の克服である。ヴァニエルには「共に歩むもの」としてイファンデスと呼ばれる馬の姿をした超自然的存在がいる。外見は馬そのものであるため、知らない人からは知性を持った存在として扱われない。

知っているステフェンでもイファンデスが見かけ通りの存在でないことを自分に言い聞かせなければならなかった。ところが、ヴァニエルの母のトリーサは貴婦人の客人に対するように自然にイファンデスに話しかけた。これを見てステフェンは愕然とする(302頁)。

現代社会にも外見による差別はある。差別はしてはいけないと思うあまり、不自然になることもある。少なくともステファンの境地は心がけているが、トリーサの境地は容易ではない。

上巻のラストで穏やかだった日常が急展開する。ヴァニエルの最後について意味深長な暗示も登場した。魔法使者の最後を語ると思われる下巻に注目である。

『魔法の代償』上巻のラストでヴァニエルは、あまりにあっけなく敵の攻撃を受けてしまった。下巻では攻撃が偶発的なものではなく、陰謀の存在が仄めかされる。同時に敵対勢力の卑劣さも浮き彫りになる。それはヴァニエルの台詞で表現されている。

「ぼくの敵はぼくと面と向かいあおうとせずに、他人を通じてぼくを攻撃してくる」(66頁)

これは東急不動産だまし売り裁判で悪質な不動産業者と闘った経験のある林田力にも思い当たる内容である(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。ヴァニエルは物語世界の中でも圧倒的に強力な魔法使いである。そのような存在と対等に戦える敵キャラクターを安易に登場させるならば物語の世界観を破壊する。敵が卑怯者であることは、ある意味で必然的である。

そして卑怯者である代償として、この敵キャラクターは、読者の印象に残らないまま退場する。バトルものでは敵ながらカッコいいという魅力的なキャラクターを登場させ、主人公を圧倒するシーンを用意する例が多い。これに対して『魔法の代償』では卑怯者には見せ場すら与えないという徹底ぶりである。反対に戦闘能力では足手まといになるステフェンも物語の中ではヴァニエルに同行する存在意義が与えられている。

下巻でも現代社会に通じる含蓄は健在である。魔法使者のサヴィルはテレポーテーションの効果のある門の魔法で体力を消耗してしまう。そのために人間が快適に座ったままで旅ができる技術の進歩を夢想する。これは現代文明の鉄道や飛行機そのものである。サヴィルは、そのような旅は「見知らぬ人々の力量を信じてわが身を委ねることになる」と考える(20頁)。高度に分業が確立した現代文明への皮肉にもなる。

魔法の代償では刊行済みのヴァルデマール年代記で言及されていた様々なエピソードや人物について語られる。それが作品世界を豊かで一貫性あるものにしている。作者が作品世界を大切にしていることが分かる。(林田力)


『それでも企業不祥事が起こる理由』『組織の思考が止まるとき』


コンプライアンスをテーマとした書籍『それでも企業不祥事が起こる理由』『組織の思考が止まるとき』は日本社会に蔓延する形式的な法令遵守精神を批判する点で共通する。

國廣正『それでも企業不祥事が起こる理由』(日本経済新聞出版社、2010年)は弁護士による企業不祥事をテーマとした書籍である。「法律は守っている」と考えている企業でも企業不祥事が続発する理由を明らかにする。ここにはコンプライアンスに対する誤解がある。コンプライアンスは「法令遵守」と訳されがちであるが、これが躓きの石である。著者はコンプライアンスを企業に対する社会的要請を正確に把握し、これに応じて行動することと位置づける。

郷原信郎『組織の思考が止まるとき 「法令遵守」から「ルールの創造」へ』(毎日新聞社、2011年2月26日)は日本の組織のクライシス(危機)の現場を検証した書籍である。扱う事例は検察の証拠改竄事件やトヨタのプリウスリコール問題、原子力発電所の点検漏れなど幅広い。ここでも単に法令の遵守に終始することなく、社会からの要請に応えることこそがコンプライアンスの本旨と主張する。

これは重要な指摘である。法の網の目をくぐる悪徳業者はコンプライアンスに反する企業である。たとえばマンション販売業者が不利益な事実を隠して新築マンションを販売したとする。悪徳不動産業者ならば「嘘はついていない」と開き直るだろう(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、13頁)。しかし、不動産という一生に一度あるかないかの大きな買い物をする消費者からの要請を完全に無視している。

そして形式的に法を守りさえすればいいという形式的コンプライアンス精神は犯罪者の思考であり、実際には往々にして法律に違反している。何故ならば消費者の権利を保護するなどの法の目的を無視しているからである。東急不動産だまし売り裁判でも東急リバブル・東急不動産は宅地建物取引業法の重要事項説明義務を免れたつもりになっていたが、消費者契約法違反(不利益事実不告知)で敗訴した。

残念なことに法令を遵守しさえすればいいという誤った形式的なコンプライアンス精神は企業だけの問題ではない。行政にも根強い。行政には法令通りにやっていることを根拠に国民からの疑問の声を封殺する姿勢がある。

たとえば除染による放射性物質の拡散の問題を指摘した市民団体・市民が求め創るマニフェストの会の公開質問状に対し、古川道郎・川俣町長は以下のように答えた。

「除染後の放射性物質の収集については、環境省が発行している『除染関係ガイドライン』および福島県が発行している『除染業務に係る技術指針』に基づき収集します。また、その保管については、前述の『除染関係ガイドライン』に従い川俣町の地勢・地形に適した仮置き場を設置します」(林田力「古川道郎・川俣町長が除染についての公開質問状に回答」PJニュース2012年3月5日)

除染の危険性に対する疑問には答えず、環境省や福島県の基準に従っているから問題ないという姿勢である。この種の姿勢は究極的には「お上が決めたものであるから、臣民は黙って従え」という姿勢につながる。この種の姿勢は新種の公害被害に無力である。「法令がないから被害が出ても仕方がない」という姿勢では憲法が生存権などの人権を保障している意味がない。

その中で二子玉川ライズ住民訴訟を和解的解決で終結した保坂展人・世田谷区長の姿勢は注目に値する。二子玉川では再開発による住環境破壊が大きな問題になっているが、保坂区長は「再開発区域周辺の環境影響に対しましては、区としても環境に十分留意して、法令に基づく環境影響評価の手続きに則った適切な対応はもとより、きめ細やかな対応を事業者に求めてまいります」と陳述した。

ここでは「法令に基づく環境影響評価の手続きに則った適切な対応はもとより」と法令以上の「きめ細やかな対応」を求めることを宣言する(林田力「二子玉川再開発住民訴訟終結で公害行政から一歩踏み出した保坂世田谷区政」PJニュース2012年3月19日)。法令遵守はもとより、それ以上の対応を追及することが実質的なコンプライアンスになる。


『ミラー衛星衝突』上巻、身体的ハンディのある主人公


ロイス・マクマスター・ビジョルド著、小木曽絢子訳『ミラー衛星衝突』はSF作品である。マイルズ・ヴォルコシガンを主人公にしたスペースオペラの一作品である。バラヤー帝国の植民地となった惑星コマールでミラー衛星に貨物船が衝突し、七個の衛星のうち三つを破壊した。事故かテロか、テロであるとしたら目的は何か。真相を調査するために皇帝直属聴聞卿が派遣される。

人類が地球以外の惑星に居住し、恒星間の旅行ができるほどの技術のある世界であるが、テクノロジーは完璧ではない。それがSF作品でありながら、物語を人間的にしている。惑星コマールの大気は人間の生存に適しておらず、住民はドームの中で生活している。酸素を放出する植物を増やすなど、人間が生存できる環境にするための地球化事業が数世紀前から進められているが、数世紀後になっても完了するか分からないという途方もない事業である。

ミラー衛星は太陽光を補い、惑星に光と熱を与えるために建造されたものである。これは数世紀前に建造されたものであり、再建は容易ではない。万里の長城やピラミッド、ローマの水道橋など古代のテクノロジーを連想させる。僅か数十年のスパンでスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す現代日本の建築の貧しさを実感する。

物語の舞台となる社会は皇帝が支配する帝国である。ヴォルと呼ばれる貴族階級には男尊女卑や遺伝的疾患への差別・偏見という前近代的思想が根強い。物語のヒーローのマイルズ・ヴェルコガシンは名門貴族の跡取り息子ではあるが、身体的なハンディキャップを抱えている。周期的に発作が起きるという不治の症状も抱えている。一般的なヒーロー像とは異なるユニークな設定である。

この作品では視点人物となっているエカテリン・ヴォルソワソンは「妻は夫に忠誠を尽くす」という封建的な道徳観念に縛られて苦しんでいる。現代の進歩的な女性ならば一笑に付したくなる悩みである。しかし、上巻のラストでは自分の意思で決断する。周囲の人物の助言を受けてではなく、自分で考え抜いて決断するところに近代人の自我の誕生と重ね合わせることができる。

上巻ではミラー衛星衝突事件の真相は一向に解明されないが、下巻に向けて陰謀が顔を見せ始める。コマール人の反乱が仄めかされるが、物語の善悪と読者の価値観にギャップがある。バラヤー人の帝国がコマールを侵略し、征服した。コマールの降伏後にも非武装のコマール人が虐殺されるという蛮行が繰り広げられた。それ故に反乱側に感情移入したくなるが、主人公側が帝国となっている。下巻の展開に注目である。



上巻のラストで陰謀の存在が明らかになるものの、下巻に入ってもアクションやミステリー色以上に生活臭さが濃厚である。マイルズのエカテリンへの恋情がメインである。ミステリーやアクションと恋愛が同時進行する小説は多い。危機に陥った二人が互いに愛情を抱くという展開が定番である。

しかし、『ミラー衛星衝突』の二人は下巻の中盤までは陰謀への危機感を共有していない。陰謀と恋物語は全く別次元の話であり、陰謀への緊張感を削ぐものになっている。しかも、二人の関係には具体的な進展はない。マイルズの心の中の思いが大半でロマンスからは程遠い。ヒロインがアクションを担当し、ヒーローの見せ場が説得交渉となっている点で女流作家らしい政治的な正しさがある。

生活臭さは恋愛だけではない。故郷の惑星から持ってきて壊された鉢植えに対してマイルズは感傷的になる(81頁)。それはSF作品である必然性がないほど、普遍性のある心理描写である。SFであっても未来技術を描くことが目的ではなく、小説は人間を描くものであると再認識させられた。

『ミラー衛星衝突』は洋書の翻訳作品である。現在の国境や民族とは別次元を舞台としたSF作品であっても、作者の頭の中で作られた作品である以上、作者が生活する分化とは無縁ではない。日本人にとっては異文化体験が可能である。

『ミラー衛星衝突』に登場する欧米文化としてファーストネームを短縮してニックネームで呼ぶ風習がある。たとえば、エカテリンとエティエンヌの夫婦は互いをカット、ティエンと呼び合っている。その息子ニコライはニッキと呼ばれる。

一般にニックネームで呼ぶことは親しみを込めたものと解説されるが、その距離感が非ネイティブには難しい。親しくない人間が勝手に名前を短縮して呼べば侮蔑になる。本人は「親しみを込める意図であった」と言い訳することは無意味である。分かりやすい例を挙げれば日本人を意味するジャパニーズJapaneseをジャップに短縮すれば蔑称である。

『ミラー衛星衝突』では夫が妻を短縮した愛称で呼ぶことについて、妻に好意を寄せる主人公が妻を大切にしていない現れと受け止める。相手を愛しているならば相手の名前を正確に発声し、その語感を味わうべきという発想である。欧米諸国におけるニックネームの奥深さを実感した。(林田力)


『圓さん、天下を回る』ショッピングセンターによる買い物難民


升本九八『圓さん、天下を回る』は、お金に触れると、その使われ方が分かるという超能力(エコパー)を持った女性・宇倍圓(まどか)を主人公とした娯楽経済小説である。「ゴールデン・エレファント賞」第1回審査員特別賞を受賞した。

舞台は現代に近い近未来の日本である。経済は疲弊し、膨大な国債によって日本政府はデフォルト寸前である。街には失業者があふれ、暴動に近いデモも頻発している。主人公も企業買収でリストラされて無職という格差社会の犠牲者である。政府は国民の生活を守るためではなく、デフォルトを避けるために国民に隠れて陰謀を企んでいる。まさに悲観的であるが、リアリティのある未来予測になっている。

本書は軽い気持ちで読める小説であるが、登場人物の会話や思考を通して経済理論が展開される。その点で『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』や『女子大生会計士の事件簿』と似たような味わいがある。しかし、これらの書籍の魅力は難しい理論を分かりやすく解説することであった。

これに対して『圓さん、天下を回る』の魅力は現代の金融資本主義の矛盾に対する解決策を提示しようとしているところにある。利子による搾取と支配、それに対抗する価値として自由貨幣(時間の経過とともに減価する貨幣)という大きな問題を扱う。その一方でショッピングセンター進出による地域商店街の荒廃というローカルな話題もある。

地元商店街の荒廃は以下のように多くの書籍で言及される話題である。「ランチタイムなのに、半分の店のシャッターが下りている。開いている残りの半分のうち、そのまた半分はコンビニだったりファミレスだったりして、昔からの商店はほとんど見ない。これも時代の流れなのか。日本中の地方都市が、同じ顔つきになって老いさらばえているのだと思うと、持っていき場のない怒りに駆られる。」(海堂尊『夢見る黄金地球儀』東京創元社、167頁)

『圓さん、天下を回る』では一歩進めて買い物難民という深刻な問題を投げかける。ショッピングセンター出店の問題は第一次的には大企業と自営業者の利害対立であるが、地元商店街が潰れることにより、高齢者や低所得者を中心に買い物難民が生み出される。

しかも、効率的な企業が非効率な企業を淘汰することで市場が発展するというような新自由主義的な楽観論は該当しない。ショッピングセンターは商店街を潰した後で採算が合わなければ無責任にも撤退し、後には何の店舗もない不毛の地と買い物難民だけが残るという展開が待っている(150頁)。

こここからは住民反対運動が起きている再開発・二子玉川ライズを想起した。再開発によってショッピングセンターやショッピングモールができたが、周辺住民が買い物したい店がないことが問題になっている。これまで反対運動は再開発が経済的に成り立たず、再開発推進企業にとっても重荷になる危険性を指摘してきた(林田力『二子玉川ライズ反対運動』マイブックル、160頁)。しかし、「儲けている奴は吸い上げるだけ吸い上げたら撤退する」(199頁)という指摘から深刻さを実感する。

『圓さん、天下を回る』は脇役も個性的である。「自分の再就職がうまくいかない原因が、秘密結社の陰謀ではないかと本気で思うようになった」(186頁)という活動家は現実の陰謀論者の心理を表している。

特に準主役とも言うべき天才小学生の天才小学生・神山厘太郎は魅力的である。合理的な経済人であった厘太郎は次第に感情を重視するようになっていく。自由放任の推奨者と位置付けられるアダム・スミスに弱者保護の倫理を見出し、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」から格差が固定化する格差社会を批判する(250頁)。

圧巻は「理由なくアイスを買って帰りたいと思う家がなければ、真に経済は動かない」との台詞である(290頁)。主人公とのエピソードに基づく発言であるが、分譲マンション購入の住宅ローンで破綻して自殺した両親を持つ厘太郎の生い立ちと重ねると深みが増す。住まいは人権であり、生活の基礎である。その分野が資本主義の利潤追求に走っていることが問題と実感した。(林田力)


『ネットと愛国』ネット右翼の矛先は正しいか


安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)は在特会(在日特権を許さない会)のルポタージュである。在特会のメンバーに取材し、在特会に参加した動機や在特会の何に魅せられたのかを明らかにする。

『ネットと愛国』では在特会のメンバーを黒塗りの街宣車で騒ぎ立てる従来型の右翼と区別する。「大人しい、ごく普通の、イマドキの若者」を中心とする新しい形の右翼運動と位置付ける。

若年層中心という視点は正しいものの、「大人しい、ごく普通の、イマドキの若者」という形容については同意できない人もいるだろう。在特会の暴力的な抗議行動による被害者が存在する。その活動は日教組などの左派系団体の集会を妨害する伝統的な右翼と変わらない。

人種差別主義者が家庭では良き父親、コミュニティでは良き隣人である例は別に珍しくない。普通そうに見えることは評価尺度として重要ではない。『ネットと愛国』も普通の若者であることを積極的に評価するのではなく、そこから日本社会の闇の深さを浮き彫りにする。

若年層が右傾化した原因として、格差拡大など日本社会の矛盾がある。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど矛盾を背負わされた若年層が社会に疑問を抱き、政治意識を高めることは当然である。

しかし、その怒りを在日コリアンや労働組合・左派市民運動に向けることが正しいかは疑問である。日本社会の矛盾は少数派の反日売国勢力が社会を歪めているために生まれたものだろうか。むしろ体制側が矛盾を構造的に作り出しているのではないだろうか。

私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。それ故に虐げられた人々の社会への怒りは大いに共感できる。

一方で東急不動産だまし売り裁判では怒りの矛先を正しい相手に向けることの難しさも実感した。マンション住民同士の対立、管理会社に抱き込められた管理組合役員、地上げブローカーの暗躍など、だまし売り被害者を消耗させ、結果的に東急不動産への責任追及を鈍らせかねない出来事にも遭遇した。

ネット右翼と呼ばれる人々も社会の矛盾によって傷つけられた自尊心を民族的自尊心で穴埋めすることが正しい解決策であるか、それこそが矛盾を作り出す体制の思う壺ではないか、考える必要があるだろう。




『銀河英雄伝説外伝5 黄金の翼』ラインハルトの原点


田中芳樹『銀河英雄伝説外伝5 黄金の翼』はスペースオペラ『銀河英雄伝説』(銀英伝)の外伝となる短編集である。銀河系宇宙を舞台に、銀河帝国と自由惑星同盟の間で繰り広げられる英雄達の群像劇を壮大なスケールで描く。

「ダゴン星域会戦記」は銀河帝国と自由惑星同盟とがはじめて接触し、長きにわたる抗争の幕開けとなった戦いを描く。自由惑星同盟の古き良き時代を飾った英雄達が活躍する。他の短編「白銀の谷」「黄金の翼」「朝の夢、夜の歌」「汚名」はラインハルトと親友キルヒアイスの少年期の物語である。腐敗した貴族制度を一掃し、アンネローゼを皇帝から取り戻すという二人の原点が描かれる。

表題作「黄金の翼」は第五次イゼルローン攻防戦を描く。十六歳の若さで駆逐艦の艦長となったラインハルトはイゼルローンに配属される。軍隊内ではイジメが横行するが、それを返り討ちにするラインハルトとキルヒアイスが清々しい。現実は自衛隊のイジメ自殺のように救いがないが、それ故にこそフィクションとして爽快感がある。

後に大艦隊を指揮するラインハルトも「黄金の翼」では駆逐艦一隻を指揮するだけであるが、そこでも非凡さを発揮する。兵士としても戦術家としても戦略家としても有能である。「戦艦を撃墜してみろ」と挑発する憲兵に対し、駆逐艦で戦艦を撃墜できるわけがないと前線の将兵の立場から嘲笑する。そこには「挑戦してもいないのに無理というな」的な愚かなガンバリズムの出てくる余地はない。(林田力)


『小説 平清盛』前向きな清盛像


高橋直樹『小説 平清盛』(潮出版社、2011年)は日本初の武家政権を打ち立てた平清盛の半生を描く歴史小説である。平清盛は、保元・平治の乱での目覚ましい勲功により、太政大臣という最高の位に昇った。同時に一族の多くの者たちも高位高官に就き、栄華を誇った。しかし、その栄華も長くは続かず、「驕る平家は久しからず」となった。

平家滅亡という結果から平家は失敗者として分析されることが多い。これに対して『小説 平清盛』では最善の選択をした人物として清盛を描いている。そのために主人公として清々しい。一般に平氏は公家化して弱体化したと位置付けられる。本書では平治の乱で勝者になった清盛が武士の限界を悟り、積極的に平家の公卿化を推進する。また、平氏政権末期の汚点とされることもある南都焼き討ちも、清盛の反乱鎮圧への強い決意の現れと描く。

『小説 平清盛』は脇役達も魅力的である。『平家物語』では良識派に描かれた長男の平重盛は武士の存在意義を主張する人物となっている。殿下乗合事件での藤原基房の従者への乱暴は重盛が主導したものと描かれた。これは恥辱を与えられたことへの復讐という武家の習わしを優先させ、公家化する平家にあって武士としての存在理由を主張するものであった。

「平家に非ずんば人にあらず」の言葉で知られ、おごる平家の代表格と見られる清盛の義弟・平忠時は縁の下の力持ち的な参謀と描かれる。源氏の棟梁・源義朝は前半のライバルである。父子や兄弟間の骨肉の争いを特徴づける。後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝は兄弟への冷酷さで有名である。それは頼朝個人の性格というよりも源氏の伝統であることが分かる。(林田力)




『いまから、君が社長をしなさい。』本当の優良企業


鳥原隆志『いまから、君が社長をしなさい。』(大和書房)は、具体的な企業の社長になったと想定して課題を解決するインバスケットというゲームを行うビジネス書である。社長の仕事というものは一般にはなじみなく、社長に縁のない多くの人にとって具体的に考えにくいものである。それ故にインバスケットは有効な体験になる。

社長の仕事となるとビジネス戦略の立案というような大きな仕事を思い浮かべるが、『いまから、君が社長をしなさい。』で最初に登場した案件は、社長が信号無視していたという告発めいた書き込みである。これによって社長が細かなところにも注意しなければならない存在であると気付かされる。

危機管理についての案件もある。異物混入が放置されていたとの問題である。実際にも食品の回収騒ぎは多い。雪印食中毒事件のように対応の遅れが致命傷になった事案もある。

インバスケットでは専務からは回収すると費用が大きくなるために、クレームが発生した時点で個別に対応すればいいとの提案がなされた。既に複数の顧客から異物混入のクレームを受けている段階で、このような提案がなされることに呆れた。悪い例として提示されたものであるが、企業の常識は市民の常識から乖離していることを再認識した。

本書では個性の異なる四人の登場人物が回答に取り組む。その中の大友という人物は「従業員は社長に従え」という古い考えの持ち主で、ダメ回答を連発する役回りである。しかし、異物混入の案件では「以前に分かっていたことをいまになって報告するのか」と激怒し、「広告を打ってでも全て回収しろ」と指示する。他の回答者が主力商品の回収に及び腰の中で思い切った支持である。この一点では大友に魅力を感じた。多面的に人間を評価することの大切さを再確認した。

この問題について、「本当の優良企業は、テレビCMなどで良いイメージを上塗りしている企業ではなく、このような不祥事やトラブルが発生したときに適切かつ迅速に対応できる企業なのです」とまとめられている(134頁)。このCMと対比した説明は的を射ている。

林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた。だまし売りの発覚後の東急の対応も不誠実であったため、裁判で売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。

その当時、東急は自社の誠実さをアピールするCMを流しており、その虚飾ぶりに怒りを強めた記憶がある。CM内容は東急リバブルの実態を糊塗するものであった。一生に一度あるかないかの買い物で騙し売りされた被害者感情を逆なでした。CMでは以下の三種類を流している。

教えてくれた編「物件のいいところを教えてくれた。悪いところも教えてくれた。買おうと決めることができた」

希望の暮らし編「不動産屋さんに希望の沿線じゃなく、希望の暮らし方を聞かれたのは初めてだ」

もう一度編「気に入って決めようとしたら、『雨の日にもう一度みてから決めてください』と言われた」

東急リバブルの実態が広まりつつある現状を恐れ、過度に信頼を強調する宣伝広告に必死になっていることがうかがえる。消費者が誤解を招くことがないようにするため、東急リバブルの実態を正しく反映したコピーに変更すべきである。真実は「物件のいいところだけを教えられた。悪いところはとぼけてごまかされた。買おうと決めさせようと必死だった」ではないか。それ故に本書のまとめは納得できる。


『欲情の作法』男女の差異を強調


渡辺淳一『欲情の作法』は『失楽園』など恋愛小説で名高い著者による実践的な恋愛の入門書である。冒頭から「男とは」「女とは」と性別ステレオタイプな見解が目白押しである。本書の男性論女性論は生物学的な差異を出発点にしているものの、ジェンダーに否定的な立場からは受け入れがたい面もある。

人間には十人十色の個性がある。それ故に「男とは」「女とは」と個性を無視してステレオタイプな見解を当てはめることは正しくない。一方で人間を個人としてではなく、集団として社会学的に分析する場合、グルーピングしてグループに属性を付すことは有効である。ここが人文科学と社会科学のアプローチの差異である。

問題はグルーピングが適切かという点である。男性と女性の分類では人類を二分割しただけである。血液型占いよりも大ざっぱな分類である。一方で恋愛において男と女は重要なアクターであり、男性論女性論も一定の意味がある。

但し、著者は恋愛小説で多くの読者を感動させてきた作家である。不倫のような反倫理的な恋愛も感動的に描いてきた。それが感動的である理由は登場人物の個性が表出された言動だからである。「男は浮気する生き物」とまとめられると感動が色あせてしまう。そこは医者でもある著者であり、人間に対する覚めた視点も同居している。

この種の二面性は林田力にも思い当たる。林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した経緯を『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社)にまとめた。当然のことながら、「不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りした東急不動産はけしからん」という思いがあった。一方で問題物件を売り逃げして利益を上げる悪徳不動産業者の行動原理を理解するという覚めた気持ちもあり、文章をまとめることに苦労した。

本書はタイトル『欲情の作法』からしてセンセーショナルであるが、含蓄ある社会批評も存在する。たとえば「『美しい』というのは、かつて安倍元総理が唱えた『美しい国』という言葉が無意味であったように、あまり個性的とはいいかねます」とある(62頁)。林田力も東急グループの標語「美しい時代へ」の無意味さを実感しているため、納得できる内容である。

本書はステレオタイプな男性論女性論になっているが、現実社会では若年層が草食男子になっていると指摘されることがある。そのような傾向に対する高齢世代の著者なりの問題提起と読むこともできる。もっとも、本書は「最近の若い者は」的な説教臭さとは無縁である。読了後に読者が元気になるような書き方になっている。説得の話運びの巧みさを実感した。(林田力)


『幻夢の時計』夢の国での冒険活劇


本書(ブライアン・ラムレイ著、夏来健次『幻夢の時計』東京創元社、2011年)はタイタス・クロウ・サーガの一作である。オカルト探偵のタイタス・クロウと盟友アンリ・ド・マリニーが夢の国を舞台に冒険を繰り広げるファンタジー小説である。

もともとクロウは現実社会のオカルト事件に取り組む探偵であった。それがシリーズを経ることで次第に邪神と戦う冒険活劇に進化していった。卑近な例を挙げると日常のドタバタを描く少年漫画が連載長期化により、バトル中心になっていくようなものである。

一方で少年漫画が往々にして人間社会を滅ぼす悪と戦うという形で風呂敷を広げ過ぎて破綻する傾向にある。これに対して『幻夢の時計』の構造はシンプルである。ド・マリニーは囚われた友クロウを救うために夢の国に向かう。クロウは連れ去られたティアニアを救うために怪物と戦う。戦う動機は明確であり、人類全体を救うというような変な気負いはない。

『幻夢の時計』は創元推理文庫に所収されているが、ミステリーの要素は乏しい。敵と味方は明確に線引きされている。真の敵は意外な人物というようなサプライズよりも、悪と戦う分かりやすさが色濃い。クロウは推理力を駆使して謎を解明する探偵ではなく、戦士である。それでも青さのあるド・マリニーとの対比では老練である。

『幻夢の時計』の特徴は夢の国の想像力豊かな設定である。それは一朝一夕に形成されたものではない。その土台は怪奇小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説世界から生まれたクトゥルー神話である。中盤の「グラント・エンタビーの述懐」は同じ著者の短編「ダイラス=リーンの災厄」と同一の出来事を扱っている。この舞台となった夢の国の港湾都市ダイラス=リーンはラヴクラフト『未知なるカダスを夢に求めて』に登場する。

人気作家は多作であることが多いが、それは過去の作品を放り投げて次々と新たな作品を生産していくことではない。過去の作品の中に新たな創作の芽がある。過去の作品を大切にすることが表現者として成功の道であることを示している。(林田力)




『とうほく妖怪図鑑』見開きで妖怪伝承を紹介


本書(山口敏太郎『とうほく妖怪図鑑』無明舎出版、2003年)は、東北の妖怪や伝承を地域別に紹介した書籍である。一つのテーマを見開き2頁で紹介しており、読みやすい。妖怪の出現が伝承された場所を紹介するため、観光案内にもなる。「戦争に行った鹿島さん」(16頁)や「八甲田山の兵士の怨霊伝説」(106頁)のように近代になってからの伝承もあり、妖怪が前近代の遺物ではないことを示している。実際、口裂け女のように現代の都市伝説も存在する。

本書は伝承に社会学的な分析を加えている点も特色である。たとえば「狐が嫁になりすます」怪談は共同体の秩序を見出す異人としての嫁への警戒感が反映されていると指摘する(33頁)。実際、現代でも相続紛争の泥沼化の原因として嫁の口出しが指摘される灰谷健司『相続の「落とし穴」 親の家をどう分ける?』角川SSコミュニケーションズ、2008年、58頁)。妖怪は現代に通じるテーマである。(林田力)


『景福宮の秘密コード』東洋のダ・ヴィンチ・コード


本書(イ・ジョンミョン著、裴淵弘訳『景福宮の秘密コード ハングルに秘められた世宗大王の誓い』上下巻、河出書房新社、2011年)は、朝鮮王朝の宮廷を舞台とした歴史小説である。主人公カン・チュユンは下級の司法役人で、宮城で起きた連続殺人事件を捜査する。事件の背後には保守的な儒学者と実用学派の政争があった。

中国の冊封体制下で平和を保ったイメージの強い朝鮮であるが、北方遊牧民の襲撃や中国との緊張関係など島国の日本にはない苦労が描かれる。巨大な大国と接していながら独自の民族文化を維持する強かさは賞賛に値する(林田力「中国のプレゼンス増大と日本(5) 強いコリア」PJニュース2010年9月30日)。

『景福宮の秘密コード』はダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』を連想させる。陰陽五行説や魔法陣、王宮の建物に隠された寓意が事件の鍵を握る。『ダ・ヴィンチ・コード』の主人公は象徴学の研究者であったが、『景福宮の秘密コード』の主人公は田舎育ちの無学者で、周囲の学者の教えを受けながら知識を得る。五行説などの詳しい知識のない読者層と同じレベルであり、読者と近い目線で謎が明らかになるため、引き込まれる。

下巻では保守派と実用学派の政争が明確化する。日本の江戸時代でも名分を重んじる朱子学と実践を重視する陽明学の対立があった。本書は朝鮮王朝初期で日本では室町時代に相当する。日本の一時代前の話であり、朝鮮文化の先進性を示している。

これまでは保守派も名分を重視する自己の信念に従っているだけで、考え方は異なっても悪とは断定できなかった。しかし、下巻では特権商人との結託が描かれる。一部の商人に特権を与え、キックバックを受けるという関係である。特権商人が不正な利益を得ることは人民の損失や困窮を意味する。この政官財の癒着構造は現代とも共通する。

ここには保守派の醜い実態が描かれている。表向きは立派なことを口にしても、人民を利用して搾取するだけの存在である(林田力「ネット右翼は東京都青少年健全育成条例で目を覚ませ」PJニュース2010年12月20日)。時代や国境を越えても保守の醜さは変わらない。


『ロスト・シンボル』価値観を相対化する主人公


本書(ダン・ブラウン著、越前敏弥訳『ロスト・シンボル 上下巻』角川書店、2010年)はサスペンス小説である。世界的なベストセラーとなった『ダヴィンチ・コード』と同じロバート・ラングドン・シリーズに属する。視点人物が入れ替わり、複数の人物の物語が同時進行で進む点は『ダヴィンチ・コード』などと同じである。

『ロスト・シンボル』の舞台はアメリカ合衆国の首都ワシントンである。米国には近代に登場した歴史の浅い国家というイメージがある。しかし、米国のバックボーンには強い宗教性が存在することが浮き彫りにされる。

主人公のラングドンが偏見に囚われず、価値観を相対化できる人物である点が印象的である。古代の拷問器具である十字架の前で跪き、血と肉の象徴であるパンとぶどう酒を食べるキリスト教徒の信仰も、他の価値観に立てば怪しげなカルトに映ると主張する。

日本社会では自分の考えだけが真実という類の偏狭で幼稚な発想の持ち主に遭遇することもある(林田力「大卒から感じた高卒のギャップ」PJニュース2010年11月23日)。その種のナイーブな思想を嘲笑う好作である。自分達の知っている世界は唯一の世界ではない。他の世界は思っているよりも近くにある。

これまでの冒険は価値観を相対化できるラングドンの柔軟性に負うところが大きかった。ところが、下巻ではラングドンの頑固さが目に付く。フリーメーソンの秘密は伝承に過ぎず、現代社会に影響を与えるものではないと頭から決めてかかっている。その頑固さが物語のテンポを停滞させてしまった。ラングドンは以下の言葉で教えられる存在になっている。

「われわれがまだ暗黒の世界に生きていて、自分では視認も理解もできない神秘の力の存在に見向きもしないだけ、という可能性はないだろうか」(76頁)

これは科学信奉者への痛烈な批判になる。科学信奉者は科学者の公平無私の態度で見るふりをしながらも、実際は似非科学排斥の狂信者であり、その思いに取りつかれ、駆り立てられ、ありもしない危機感に苦しめられているのであった。

米国の首都ワシントンが古代からの知恵を伝えるために設計され、緻密な工夫が施されていることが物語から浮かび上がる。その一つとしてワシントン記念塔よりも高い建物の建設を禁止する法律がある(349頁)。これによって古の神秘を伝える景観が守られている。国分寺崖線と多摩川に囲まれた緑豊かな空間に超高層ビルを建設する二子玉川ライズなど超高層ビルを乱立させる東京の貧困さとは対照的である(林田力『二子玉川ライズ反対運動』マイブックル、2010年)。


『日本列島放棄』日本を放棄する主体性


新井克昌『日本列島放棄』は福島第一原発事故を予言した衝撃的な小説である。宮城沖で震度6強、マグ二チュード8.7の巨大地震が発生し、沿岸部には大津波が襲う。原発も被害を受け、主人公・伊沢一哉は原発が漏れ出た放射能で被曝してしまう。これは東日本大震災による原発事故そのものの展開である。

現実の日本社会は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」的な愚かさを発揮し、原発の再稼働が画策されている。これに対して小説では過酷な現実が襲いかかる。東南海や南海でも巨大地震が発生し、浜岡・川内・美浜・敦賀の各原発でも放射能漏れが発生する。しかも、超大型台風によって放射能の汚染は拡散され、北海道と沖縄を除く本州・四国・九州は定住不可の地域になってしまう。

『日本列島放棄』のタイトルからは小松左京『日本沈没』を連想する。日本列島が大災害に見舞われ、日本政府が国民を国外に脱出させる計画を実行する点も同じである。しかし、『日本沈没』と『日本列島放棄』では言葉のイメージは大きく異なる。『日本沈没』は国土が沈没するという不可抗力を表している。物語では一人でも多くの国民を脱出させるために懸命の努力が行われるが、沈没する美しい国土と運命を共にしたいという破滅的なヒロイズムも背景にある。

これに対して『日本列島放棄』には日本列島を放棄するという主体的意思がある。それが放射能によって国土が汚染され、放棄せざるを得ないところまで追いつめられた状態での選択であるとしても、「放棄」をタイトルにすることに一つの意思が表れている。福島の子ども達が線量計を持たされて生活している状況を踏まえるならば、同じような状況に陥ったとしても、現実の日本政府が国民を守るために国土を放棄するか疑問がある。その意味で日本の放棄を意味するタイトルにはパニック小説以上の含蓄がある。

『日本列島放棄』というドラスティックな着想を可能にした背景として国際性を指摘することができる。『日本列島放棄』はバングラデシュにいる主人公の婚約者サーラをはじめ、インターナショナルな視点が濃厚である。これは『日本沈没』は日本列島に根ざした日本人の特殊性を強調する日本人論になっていたことと対照的である。

福島原発周辺地域から避難が進まない要因として、良く言えば郷土愛、悪く言えば共同体的束縛があると指摘される。そうであるならばインターナショナルな視点を広げることが克服の一つの鍵になるであろう。(林田力)


『お菓子の由来物語』


猫井登『お菓子の由来物語』は日本のケーキ店で販売されている菓子の概略を説明した電子書籍である。「お菓子」という抽象度の高い名詞を使用しているが、ターゲットはケーキ菓子らの洋菓子である。「モンブラン」や「チームケーキ」「ティラミス」など有名どころから、「ズッパ・インクルーゼ」「ズコット」などマニアックなものもある。また「ウェディングケーキ」や「クリスマスケーキ」など用途を軸にした紹介もある。

菓子好きは世の中に多いが、その知識が普及しているとは言い難い。ある店では「ショートケーキ」という名前で販売されている菓子が別の店では「フレジエ」になっている。作り手のためのレシピ本は多いが、菓子そのものを説明する本は少ない。あるとしても年代別・地域別で体系化されており、単純に菓子が好きという層を満足させるものではない。このような問題意識から本書は執筆された。

本書は基本的に見開き2頁で一つの菓子を写真付きで紹介しており、分かりやすい。菓子の由来の説明がメインになるが、複数説があるものは複数説を紹介する。著者の考えを押し付けるのではなく、知識の共有を目指している。洋菓子はヨーロッパを由来とするが、日本で普及しているものと異なるものも少なくない。菓子の名前自体が和製英語で、原語とは異なるものもある。日本人の口に合うようにアレンジされ、変わっていった経緯を楽しむこともできる。




『最後の証人』歴史に翻弄された悲劇では済まない社会悪


金聖鍾(キム・ソンジョン)著、祖田律男訳『最後の証人』(論創社、2009年)は韓国のミステリー小説である。著者は韓国ミステリー界の巨匠的存在であるが、『最後の証人』は長編推理小説のデビュー作である。イ・ドゥヨン監督により1980年に映画化された。韓国ミステリー史上、最高傑作との評価もある。

『最後の証人』は1970年代の韓国を舞台に殺人事件の謎を明らかにする物語である。事件の背後には朝鮮戦争中の悲劇が浮かび上がる。醸造場経営者ヤン・ダルスの遺体が発見され、オ・ビョンホ刑事が事件を担当する。

朝鮮戦争の停戦から20年あまりの歳月が流れたあとにも、決して癒えることのない悲劇的な傷痕は残る。その深く巨大な悲劇の根源を直視しようとする小説である。それは絶望を覚えるものであるが、焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことしかできない非歴史的な発想よりも健全である。

警察の見込み捜査の罪深さが印象的である。歴史に翻弄された悲劇では片付けられない社会悪が存在する。警察の人権侵害はプライバシーを害する強引な聞き込みや証拠物の入手など主人公の刑事も例外ではない。これは現代にもつながる日本警察の欠陥であり、日本の植民地支配の負の遺産である。

下巻に入ると展開がスピードアップする。上巻までは展開が遅く、内容の重苦しさをあって退屈に感じた読者も皆無ではないだろうが、我慢して下巻まで読み進めれば報われる。最後の方になると事件は解決に向かうにも関わらず、被害者側の人間の死が相次ぐ。ここまで物語として被害者側の人間を死なせる必要があったのか、やり切れなさを感じるが、ラストを読めば物語としての完成度を実感する。(林田力)


『女教皇ヨハンナ』女性を抑圧したキリスト教の家父長的性格


ドナ・クロス著、阪田由美子訳『女教皇ヨハンナ』はカトリックの歴史から抹殺された男装の女性教皇を主人公とした歴史小説である。カール大帝没後の不安定なフランク王国を舞台に主人公ヨハンナの誕生から物語が始まる。

ヨハンナの知性が素晴らしい。伝統的な神学ではエバはアダムを唆して楽園追放となったため、女は罪深い生き物とされる。これに対してヨハンナは、エバの勧めでリンゴを食べたアダムよりも、自らの好奇心でリンゴを食べたエバに優位性を与える。神学の土俵に乗っかった上で反論している。相手の話を聞かず自分の考えだけが唯一絶対として一方的に押し付ける愚か者の対極に位置する。

タイトルや紹介文から中世ヨーロッパの政治史を期待するが、上巻はヨハンナの少女時代に費やされ、陰謀渦巻くローマ教皇庁での権謀術数は描かれない。僅かにローマを舞台した別の物語が挿入されるが、上巻では本編との関連は謎のままである。

代わりにヨハンナのような知識欲ある女性を抑圧する中世キリスト教社会が強調される。まさに暗黒の中世である。キリスト教の思想が個人の尊厳と両性の平等を損なう家父長制の根拠として利用された実態が描かれる。

但し、キリスト教が本質的に家父長的であるというような現代人感覚での早急な断罪を下してはいない。社会の大勢にはなっていないが、主人公や良心的な学者は不合理を疑う理性も神が人間に与えたものと理性をキリスト教イデオロギーと両立させる。

中世とルネサンスは対照的に位置づけられがちであるが、近年では中世の豊かさが再評価されている。『女教皇ヨハンナ』は中世にルネサンスの思想的萌芽が存在したことを浮き彫りにする。

ようやく下巻でローマが舞台になる。教皇庁は権謀術数渦巻く場所であるが、ヨハンナに上昇志向はない。それが物語を爽やかなものにしている。対立相手も登場する。卑劣な攻撃を繰り返すが、それでも教養ある人物として描かれる。当然のことながら、悪徳不動産業者を描いた『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』とはタイプが異なる。主人公にとっての敵は特定の個人や勢力ではなく、女性を抑圧する社会であった。(林田力)


『武器商人を経営分析する!』東急不動産だまし売り裁判に通じる戦争の陰謀


ヘンリー・オーツ『武器商人を経営分析する!』は近代以降の戦争の歴史を経済的側面から分析した書籍である。本書の主張は明確である。戦争は政治的な利害対立ではなく、戦争で儲けようとする勢力によって起こされると主張する。具体的にはロスチャイルド家が戦争を通して富を蓄積していったとする。

その内容はロスチャイルド陰謀論として流布されている説と同様である。たとえば明治維新を勤王の志士達の自発的な動きではなく、列強の武器商人にプロデュースされたものとする。これはベンジャミン・フルフォード『世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン』にも見られる。しかし、本書には陰謀論的なおどろおどろしさはなく、経済的な視点を前面に出しており、陰謀論に拒否感のある人々でも読みやすい。

一昔の市民運動は政治に関心が偏る傾向があった。労働運動さえ職場の問題を放置して護憲運動や平和運動に精を出していると揶揄されたほどである。しかし、マルクス主義が経済を下部構造と定義したように経済を無視した分析は空論になる。

現実に退潮傾向にある日本の左派が再評価された契機は年越し派遣村など反貧困の運動であった。派遣切りによって住む場所も失うという経済問題に取り組むことで、苦しむ人々の受け皿になれる存在が左派であることを示せた(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8月21日)。

評者自身も社会性を深める契機は経済問題である。東急リバブル・東急不動産から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた裁判であった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。

そこではマンション住民同士の対立、管理会社に抱き込められた管理組合役員、地上げブローカーの暗躍など、だまし売り被害者を消耗させ、結果的に東急不動産への責任追及を鈍らせかねない事象にも遭遇した。それ故に戦争が一部の勢力の金儲けに利用されているとの本書の主張には実感を抱くことができる。

タイトルに武器商人とあるが、武器商人の話にとどまらない。武器商人という言葉は軍産複合体や国際金融資本という言葉よりもイメージしやすく分かりやすいという意味で使われたものである。抗ガン剤や遺伝子組み換え食品の危険性など著者の関心は広い。

さらに住まいの貧困問題にも関心を寄せる。本書は「30年の寿命の住宅を30年のローンを組んで買うことこそ環境破壊と貧困の最大の問題だった」と不動産業の矛盾を突く(142頁)。一昔前の市民運動家にはヒッピー的な意識が強く、住まいの問題が軽視される傾向があった。これは著者が地に足ついた活動家であることを示している。

著者の加入する市民団体「市民が求め創るマニフェストの会」でもゼロゼロ物件被害など現実の経済問題を政策立案の出発点としている。本書は現実の問題から目をそらすためのファンタジーな陰謀論ではなく、地に足ついた運動に位置付けられるものである。

住まいの問題はカダフィ大佐の評価にも登場する。独裁者と糾弾されるリビアのカダフィ大佐であるが、単にアメリカ帝国主義や国際金融資本にとって都合の悪い存在であった。これはオルタナティブな世界では知れ渡っているが、本書では詳しく説明する。たとえば住まいの分野でも「住まいの貧困」に苦しむ日本とは対照的である。

カダフィ大佐のリビアでは「家を持つことが国民の権利」とされ、「新婚夫婦はマイホームを買うために5万ドルを政府から支給される」と紹介する(188頁)。公共セクターが貧困者向けの住宅すら満足に供給せず、ゼロゼロ物件業者などの貧困ビジネスが跋扈する日本とは大違いである。

安易な陰謀論ラべリングを戒めたコラム「『陰謀論』ってなんなのだ」では陰謀論批判者と似非科学批判者を同列に批判する(146頁以下)。似非科学批判者は科学を自己に都合よく解釈して非科学的態度を貫く。陰謀論批判者も知性を自己に都合よく解釈して反知性的な態度を貫く。両者の共通点を浮き彫りにした。

本書の健全な経営観念は著者が経営コンサルタントであったことと無縁ではあるまい。世の中には、一端の活動家を気取っても時間を守れず、遅刻を繰り返すような下劣な人間もいる。しかも、自分の遅刻を相手がフォローすることを当然し、まるで他人の遅刻を尻拭いできる人が尻拭いしない人よりも能力があるかのような倒錯した価値観を抱く輩もいる。この種の連中と著者は一線を画している。

それは本書が金融による信用創造の欺瞞にも矛先を向け、金融資本主義の矛盾を鋭く突いているところにも現れている。経営コンサルタントとして利払いに苦しめられている中小企業を数多く見てきた経験が裏打ちされていると推測する。トラブルとなった顧客に脅迫電話を繰り返して逮捕された東急不動産のコンサルタントとは対照的である(林田力「東急不動産係長がトラブル相手に嫌がらせ電話で逮捕」PJニュース2010年9月6日)。


『坂の上の坂』価値多元主義


藤原和博『坂の上の坂 55歳までにやっておきたい55のこと』(ポプラ社)は50代からの30−40年間を過ごす心構えを説いた書籍である。著者は民間人初の公立中学校長として知られる。

『坂の上の坂』は司馬遼太郎『坂の上の雲』に因む。『坂の上の雲』の舞台となった明治維新直後の日本は、平均寿命が今の約半分であった。これに対して現代は一仕事終えた後にも老後と呼ぶには長い時間が待っている。それを坂の上には坂が待っていると表現する。

副題は『55歳までにやっておきたい55のこと』であるが、それほど奇抜な内容ではない。世の中は一つの考えが唯一絶対という単純な構図ではないという思想がベースにある。唯一絶対の正解の押しつけを否定することから出発する。

これは価値多元主義の思想であるが、至極当たり前のことである。少なくともポストモダニズム以降の大学教育を受けた人々には自明のことである(林田力「大卒から感じた高卒のギャップ」PJニュース2010年11月23日)。

このような自明なことを強調しなければならず、そのような書籍が評価されている状況に戦後日本の歪みがある。焼け野原から経済大国にするような一つの方向に進むことしかできない貧困な状況でも成功と自惚れることができた、おめでたい時代であった。(林田力)


『犠牲のシステム 福島・沖縄』戦後日本の欺瞞を暴く


高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)は誰かを犠牲にして成り立つ戦後日本社会の欺瞞を暴く新書である。著者は東京大学大学院総合文化研究科の教授である。福島第一原発事故で警戒区域となった富岡町などで幼少期を過ごしたという。『逆光のロゴス』『記憶のエチカ』などの著書がある。

『犠牲のシステム』は原子力発電所も沖縄の米軍基地も犠牲のシステムとして位置付ける。「犠牲のシステムでは、在る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない」と指摘する。

本書は米軍基地を抱える沖縄と原発事故を抱える福島から犠牲のシステムを可視化するが、戦後日本のあらゆる場面で存在する。東急不動産(販売代理:東急リバブル)が不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りした東急不動産だまし売り裁判も犠牲のシステムである(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。

東京都世田谷区玉川の再開発・二子玉川ライズに数百億円の税金が投入され、近隣住民が風害や日照被害で苦しむ一方で、東急電鉄・東急不動産らが経済的利益を得る構図も犠牲のシステムである(林田力『二子玉川ライズ反対運動』マイブックル)。

重要な点は「犠牲にする者」と「犠牲にされるもの」は非対称であることである。「犠牲にする者」は一方的に利益を得るだけであり、「犠牲にされるもの」は一方的に犠牲を受けるだけである。東急不動産だまし売り裁判では不利益事実を隠したマンションだまし売りによって東急リバブル東急不動産は利益を得る。東急不動産だまし売り被害者は屑物件を抱える損害のみである。二子玉川ライズでは東急電鉄・東急不動産らが開発利益を得て、住民は環境破壊の被害のみを受ける。

それ故に「経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを『犠牲』にするシステムは正当化できるのか」という問題提起はミスリーディングに陥る危険がある。経済成長や安全保障として定立されるメリットは「犠牲にする者」だけの利益であって、「犠牲にされるもの」を含む共同体全体の利益とは限らない。

米軍基地にしても原発にしても「誰かが犠牲にならなければならない問題」と定義されてしまうと閉塞してしまう。それは普天間基地移転の迷走が象徴する。その時点で犠牲のシステムの罠に陥ってしまう。


海堂尊


『極北クレイマー』開発と福祉はトレードオフ


本書(海堂尊『極北クレイマー』朝日新聞出版、2009年)は桜宮サーガの一作である。舞台は桜宮市ではなく、北海道の極北市であるが、姫宮香織や速水晃一、清川吾郎という過去の作品のキャラクターが顔を出す。

姫宮の口を通して、白鳥圭輔の田口公平評も聞け、「バチスタ」ファンにもたまらない。さらに正体は謎のままだが、『螺鈿迷宮』で行方不明になった人物を髣髴させるキャラクターも登場する。作者が過去の作品を大切にしていることがうかがわれ、微笑ましい。

極北市は財政破綻寸前の北海道の自治体である。市長が独裁者として君臨し、客の来ない観覧車やゲレンデ、ホテルなど無駄な開発に税金が使われている。そして無駄な開発による財政難を理由として市民病院の予算は削られ、外科部長さえも非常勤である。ここでは開発と福祉がトレードオフの関係にある実態が浮かび上がる。

開発に反対する伝統的な論理は自然保護である。この自然保護は良くも悪くも綺麗事である。江戸時代は自然が保護されていたが、それは御用林として領民の自由な利用を禁じていたから成り立った面がある。庶民生活を犠牲にすることで自然が保護されていた。このように自然保護とは厳しい性格がある。開発で豊かになるとの開発推進派の論理が幅を利かせたことは日本人の民度からすれば当然の帰結であった。

しかし、開発は自然を破壊するだけでなく、庶民生活も破壊する。東京都世田谷区の二子玉川ライズが典型である。開発によって古くからの住民は住めない街になってしまう。街づくりではなく、街壊しである(林田力「二子玉川で進む街壊し」マスコミ市民2009年11月号46頁)。

そして開発予算をバラまく自治体は福祉予算を削るという相関関係にある。これは世田谷区長選挙に際し、「新しいせたがやをめざす会」が論じたことである(林田力「反熊本を明確化した新しいせたががやをめざす会=東京・世田谷」PJニュース2011年5月11日)。庶民が自らの生活を守り、豊かにすることを望むならば、開発に反対しなければならない。

『極北クレイマー』では開発と福祉の対立関係を浮き彫りにする。著者は現役の医師として医療への鋭い問題提起には定評があるが、近年の作品では問題意識は社会全般に広がっている。著者は『夢見る黄金地球儀』で医療から離れた。そこでは無個性的な開発で活気を失った地方都市の現実が描かれている。

「初めは海外のブランドショップとか入っていたが、次々と撤退してしまった。その跡に百円ショップとか千円マッサージとかコンビニとか、ジョナーズとかカコスとかのファミレス、要はどこにでもあるような店ばかりが溢れ返ってしまった」(145頁)

「ランチタイムなのに、半分の店のシャッターが下りている。開いている残りの半分のうち、そのまた半分はコンビニだったりファミレスだったりして、昔からの商店はほとんど見ない。これも時代の流れなのか。日本中の地方都市が、同じ顔つきになって老いさらばえているのだと思うと、持っていき場のない怒りに駆られる。」(167頁)

無駄な開発の象徴である観覧車のシルエットを表紙に描く『極北クレイマー』で問題意識を発展させた形である。

但し、医療の窮状を強調する点は現役医師として当然であるが、医者を叩き過ぎれば住民に跳ね返るとの論理には我田引水的な独善の香りも皆無ではない。それは住宅購入促進が日本経済の景気回復に貢献するから住宅ローン減税など政府は不動産業界を優遇すべきという類の業界エゴと重なる(林田力「住宅購入促進は景気回復に役立つか」PJニュース2010年3月15日)。実際、主人公の医師は清掃員と同列に扱われ、不快に感じる。ここには職業差別的なエリート意識がある。

さらにタイトルの『極北クレイマー』もミスリーディングである。クレイマー化した患者や遺族が医療を潰すとのイメージを抱かせるが、本書の遺族は異なる。真相を知りたいだけである。物語では遺族は利用されたような描写になっているが、それならば悪いものはクレイマーではない。そして、真相を知りたいという遺族の思いは真っ当なものであり、その遺族の思いに医療サイドは応えていない。遺族が何らかのアクションを起こすこと自体は正当であり、共感できる。

権利主張した人が周囲から非難されるような状況は日本社会の後進性を物語る。そもそもクレイマーは商業メディアによってマイナスイメージを付されたが、英語では権利を要求・主張する人という意味であり、市民として当然の姿勢である。消費者はクレイマーと呼ばれることを誇りにするくらいでいい(林田力「『モンスタークレーマー対策の実務と法』クレームには誠意を」JanJanBlog 2010年5月9日)。




『ジーン・ワルツ』禁断の告発に衝撃


本書(海堂尊『ジーン・ワルツ』新潮社、2008年)は医療崩壊の最前線である産婦人科医を主人公とした小説である。舞台は桜宮市ではなく東京であるが、『極北クレイマー』での産婦人科医の医師法第21条届出義務違反での逮捕事件を背景にした広い意味での桜宮サーガの一作である。妊娠についての医学的な説明が多く、軽いミステリーを楽しみたい向きにはハードルが高い。しかし、ラストの禁断の告白は衝撃的である。

海堂作品はバチスタ・シリーズの田口公平が典型であるが、巻き込まれ型の主人公が多い。これに対して『ジーン・ワルツ』は主人公が変革を志向する人物であることが異色である。また、主人公が変革のための具体的な第一歩を踏み出している。主人公が社会を変えられたのか、その後の顛末が知りたくなる作品である。

海堂作品は大学生活という豊かな青春の一時期をクローズアップする点も魅力である(林田力「『アリアドネの弾丸』第8話、科学信奉者から人間味を見せた安田顕」2011年9月1日)。『ジーン・ワルツ』では準主役的な清川吾郎は学生時代の剣道の試合を回顧している。この話は『ひかりの剣』で掘り下げられることになる。

海堂作品は医療が中心であるが、医療以外でも鋭い社会批判を展開する。『夢見る黄金地球儀』では、街の個性を喪失する再開発が風刺された。『ジーン・ワルツ』でも低層建築中心の地方都市の青い空と霞ヶ関の灰色の高層ビルを対比させた。

「桜宮の空の青さを思い出す。それから理恵はふたたび、霞が関に林立する灰色の塔について思いを馳せる。」(141頁)

霞が関の住民である官僚への批判が主であるが、無機的な高層ビルでは人間性も失われてしまうことを実感する。(林田力)


『マドンナ・ヴェルデ』新築マンションの危うさにも言及


海堂尊『マドンナ・ヴェルデ』は代理母出産をテーマとした『ジーン・ワルツ』の出来事を代理母の立場から描く小説である。海堂作品では患者を主人公とすることは珍しい。主人公は桜宮市に長年居住した桜宮市民であるため、ショッピングセンターの火災やボンクラボヤなど桜宮市の出来事も言及され、桜宮サーガらしくなっている。

意外なところで別の作品との接点を見せる桜宮サーガの壮大な世界観には圧倒させられる。しかし、著者も最初から全ての設定を考えていた訳ではないだろう。漫画『バクマン。』の「一話完結でない一話完結」のように過去の作品を読み返し、何気ない描写に新たな作品で意味を持たせることもあるだろう。過去の作品を大切にすることが成功の秘訣である。

医療問題をメインテーマとする桜宮サーガであるが、開発優先の街づくりへの批判精神も旺盛である。『夢見る黄金地球儀』では個性のない再開発による地方都市の疲弊を描いた。『極北クレイマー』ではリゾート開発による税金垂れ流しと医療予算削減を相関させる。

そして『マドンナ・ヴェルデ』では新築マンションの耐震強度偽装や手抜き施工に言及する(8頁)。新築マンションの「あやうさ」という表現まである(9頁)。マンション紛争を扱った『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者にとってニヤリとさせられる内容である。

産婦人科医の置かれている厳しい状況への問題意識は『極北クレイマー』と共通する。市民が出産を安全なものと勘違いしていることが非難される。これは正当であるが、少子化対策から国が出産のリスクを周知させていない傾向があるのではないか。市民の意識を批判し、医者の立場に理解を求めるだけでは解決しない問題である。

印象に残った登場人物の台詞は「仕事を引き受ける時、できるかどうか考えてから決めるでしょ。できない仕事はできない、と答えることはいけないことじゃない」である(163頁)。日本では頑張ってチャレンジすることを評価し、無理と即答した人を「挑戦してもいないのに無理と言うな」と非難するガンバリズムが蔓延している(林田力「『家政婦のミタ』『専業主婦探偵』ガンバリズム否定の労働者像」リアルライブ2011年12月27日)。時代遅れの精神論の払拭を支持する。




エンタメ


アニメ『AKB0048』にみるAKB48の反メジャー性


AKB48を題材にしたテレビアニメ『AKB0048』の主要登場人物の声優が3月2日に発表された。現在のAKB48メンバーの襲名者である11代目板野友美役に植田佳奈、5代目高橋みなみ役に白石涼子、8代目小嶋陽菜役に能登麻美子が起用される。アニメは4月29日に放送開始予定である。

『AKB0048』(エーケービー・ゼロゼロフォーティエイト)は人気アイドルグループAKB48の派生作品であるが、単なるアイドルの人気便乗作品ではない。近未来の宇宙を舞台とするSF作品である。芸能活動が非合法化された世界で、危険を顧みずに違法を覚悟で公演し、ファンに夢と希望を届けるアイドルAKB0048の活躍を描く。

AKB48は今や押しも押されもせぬトップアイドルである。マスメディアの作出するブームに乗っかり、握手権などのシステムはAKB商法と批判・揶揄され、商業主義の権化のように見られている(林田力「AKB48プロジェクト義援金にAKB商法への期待高まる」PJニュース2011年3月18日)。

http://www.pjnews.net/news/794/20110317_4

福島第一原発事故後は脱原発ソング『ダッ!ダッ!脱・原発の歌』を発表して社会的発言を深めるアイドルグループ・制服向上委員会と対比する形で、体制寄りのメジャーな存在としてAKB48が槍玉に挙げられることもある。

しかし、そのようなAKB48理解は一面的である。もともとAKB48は秋葉原というローカル劇場で公演を繰り返していたグループである。マスメディアに露出して売るという商業主義的路線の対極に位置する。そのようなAKB48の反メジャー的な精神を『AKB0048』は設定で巧みに昇華させている。

当然のことながら、『AKB0048』にはAKB48とは異なる設定がある。記事で注目された相違設定の一つに襲名制がある。前田敦子や大島優子のような現在の人気メンバーの名前が歌舞伎役者の名跡のように襲名されている。冒頭の11代目板野友美や8代目小嶋陽菜などである。

AKB48はモーニング娘。と同じくメンバーが入れ替わるユニットと認識されているが、初期メンバーが全員卒業しているモーニング娘。とは異なり、未だ代替わりをしていない。神7に代表される初期メンバーが現在でも人気の中心である。芸能プロダクション的には個人に依存せずに売れる仕組みを作りたいと考えているだろうが、AKB48は個人の才能に依存している。襲名制という考え方はAKB48の人気持続の方向性のヒントになり得る。


『genesis』メタルの枠内で収まらない味わい


『genesis』は嬢メタルバンドとして話題のLIGHT BRINGERのデビュー・アルバムである。シングル曲「noah」などを収録する。メロディーにはポップス色が強く、メタルバンドに抵抗感がある人でも聴きやすい。嬢メタル・シーンを牽引する存在であるが、メタルの枠内で収まらない味わいがある。

作詞はボーカルのFukiが担当する。Fukiは作詞について「学生時代に学んだ小論文の書き方に近い」とインタビューで答えている(浅野智哉「Fuki (LIGHT BRINGER)が語る“ロッカー”として歌い続ける覚悟」クイック・ジャパン第100号、172頁)。意外なところで学校の勉強が役になっている。単に自分ができないから学校教育や学歴を否定するヤンキーや大学中退者とは比較にならない奥深さがある。

同じインタビューでFukiは「酔って暴れて物を壊したりとか、絶対ない」と通俗的なメタルロッカーのイメージと自己を差別化している(173頁)。本当は恥ずかしい属性であるヤンキー風であることをセールスポイントにするような芸能人もいる中で、Fukiの真面目さは注目に値する。(林田力)


ガンダム


『ガンダム 0083 ジオンの残光』連邦の卑劣


『機動戦士ガンダム 0083 ジオンの残光』はOVA『機動戦士ガンダム スターダストメモリー』の劇場版である。キャラクターの絵が劇画チックで固い印象を受ける。ヒロインのニナ・パープルトンがナレーションを担当している点もOVAの筋書きを知っている身には「何だかな」となる。

それでも『ジオンの残光』との副題が『0083』の主題を見事に表している。一年戦争から第二次ネオジオン戦争まで、ジオンは一貫して敵対勢力であった。『機動戦士Zガンダム』では主人公はエゥーゴ(反地球連邦組織)である。

『機動戦士Zガンダム』では一年戦争の好敵手であるアムロ・レイとシャア・アズナブルの共闘も描かれ、一年戦争で解決できなかった地球連邦のスペースノイド支配にメスを入れることが期待された。しかし、結局は地球連邦内でのエゥーゴとティターンズの勢力争いに終始し、エゥーゴは連邦と同化する。そもそも反地球連邦組織と称しながらもエゥーゴのMSはジムの流れをくむもので、連邦のエリート部隊の筈のティターンズのMSがジオン軍的なモノアイ型と倒錯している。

『ガンダム』シリーズの地球連邦対ジオンという構図は正義対悪を意味しない。むしろ、主人公の属する地球連邦の方が抑圧者である。ジオンが連邦の支配から独立を求めることは自然な感情である。『ガンダム』シリーズには主人公勢力と敵勢力が正義対悪に当てはまらないという価値観のギャップが存在する。

『ジオンの残光』も連邦が主人公サイドという枠組みを継承するが、ジオンを英雄的に描き、連邦を卑劣で腐敗した存在とする。連邦の卑劣と腐敗を直視することで、『ガンダム』シリーズの抱えていたフラストレーションを吹き飛ばす効果がある。(林田力)


『ミラーズ・リポート』連邦の非人間性


『機動戦士ガンダム 第08MS小隊 ミラーズ・リポート』はOVA『第08MS小隊』のダイジェスト版的な劇場版である。『第08MS小隊』は一年戦争を舞台に、シロー・アマダを隊長とするモビルスーツ部隊第08MS小隊の活躍を描く。軍人のシローが敵軍ジオン兵のアイナ・サハリンと交流する中で、人命の尊さや戦争の虚しさに目覚めていく。

『ミラーズ・リポート』は情報部のアリス・ミラー少佐によるシロー・アマダの調査という形式を採用する。それによってシローの人を殺したくないという思想がクローズアップされる。また、情報部の査問という形式により、連邦という硬直化した組織の非人間性も強調される。

ガンダムは戦争の物語であるが、悪の敵勢力を滅ぼして万々歳という単純な作品ではない。主人公には反戦思想的なものさえ存在する。戦乱の時代を描くNHK大河ドラマでも主人公は平和主義者に描かれることが少なくない(林田力「『江〜姫たちの戦国〜』第15回、戦が嫌いな戦国時代劇」リアルライブ2011年4月25日)。平和憲法を抱く日本の平和主義はエンタメにも根を下ろしている。


『機動戦士ガンダムUC』連邦の腐敗


『機動戦士ガンダムUC』は第二次ネオジオン抗争後の宇宙世紀が舞台である。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年になる。ネオジオンの残党が抵抗を続けているが、テロリスト扱いである。大国同士の戦争はないものの、テロとの戦争を抱える現代に近似する。

宇宙世紀のガンダムシリーズに共通するが、UCの世界でも地球連邦は腐敗している。連邦上層部はネオジオンを人民の不満をそらす矛先として利用していると仄めかされている。これもアルカイダや911事件に対する陰謀論と重なる。

UCの敵勢力は地球連邦と真っ向から対決するジオン公国やネオジオンではなく、テロリスト扱いのネオジオン残党という点で弱小である。しかし、それを補ってあまりある魅力がUCにある。ラプラスの箱という宇宙世紀成立当初の謎が物語のバックボーンとなっているためである。地球連邦は成立当初から欺瞞を抱えていた。歴史的なスパンがあることで物語が重厚になる。

連邦の腐敗は一年戦争から一貫しているが、アムロ・レイは連邦の欺瞞を認識しつつも、結果的に連邦の歯車として行動している。ここに特殊日本的集団主義の支配する当時の日本という社会状況が反映されている。その後、日本社会にも個人主義が芽生えるようになってガンダムの主人公も変わった。

1990年に制作『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』の主人公コウ・ウラキは地球連邦軍の正規兵であるが、連邦の卑劣さに苦悶する。1996年から制作された『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』の主人公シロー・アマダも地球連邦軍の正規兵であるが、敵兵と心を通わせ、軍を抜ける。

反体制志向はアナザーガンダムでは一層顕著である。『機動戦士ガンダムSEED』では主人公キラ・ヤマトらは交戦中の二国の何れにも与せず、第三勢力になる。『機動戦士ガンダム00』では主人公らは最初から何れの国家にも属さない。

UCの主人公バナージ・リンクスは、最初は成り行き上、連邦軍に巻き込まれる。これは往年のガンダムシリーズと同じであるが、それに甘んじずにネオジオンと行動を共にする。腐った連邦の歯車で終わらない現代的な主人公である。敵を撃てないと情けない絶叫をする主人公は戦場ではあり得ないが、物語としては人間味があって好感が持てる。

ガンダム世界では連邦の腐敗と反比例するように、ジオン軍人は魅力的に描かれている。0083ではジオン軍人の武士道的な美学を描いたが、UCでは追い詰められたジオン残党の悲しさを描いている。(林田力)


茶道


茶道と禅宗


茶道と禅宗は関係が深い。以下のような言葉がある。

千利休「茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり」(「南方禄」)

山上宗二(利休の高弟)「茶の湯は禅宗より出でたるに依って僧の行を専らにする也。珠光、紹鴎も皆な禅宗也」(「山上宗二記」)

千宗旦「茶禅同一味」

「茶事は禅道を宗とする事」(「禅茶録」)

武野紹鴎の遺偈には「料知す、茶味、禅味と同じことを」とある。

現代でも『主客一如 禅と茶 無からの発想』(近藤道生、尾関宗園、尾関紹保著、金融財政事情研究会、1995年)という書籍が出版されている。著者の一人・尾関宗園は大徳寺大仙院の住職である。

茶会では禅僧の墨蹟がよく掛けられる。「南方録」に「掛物ほど第一の道具はなし、客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とあるとおりである。

上記文言の和訳は以下の通りである。「道具の中では掛け物が第一であります。客も亭主も、ともどもに茶の湯の道を究めることによって、精神の高みに到達しなければなりません。掛け物はその指標となるものです。それには墨蹟がもっとも適切であります。まず、その語句の心を知ること、次にその筆者である求道者、または禅僧の徳を敬うのです。」(戸田勝久訳『南方録』教育社、1981年、108頁)

以下の解説がされている。

「其ノ掲グル所ハ修養ニ資クル語類ニシテ、静坐瞑想ニ耽ルベキ草庵ニハ至要ノ者ナレバ、一心得道ノ者ト云ヘルナリ。」(柴山不言『喫茶南方録註解 上巻』茶と美舎、1972年、163頁)

「客も亭主も、その墨蹟の文句によって心を統一し、席の情調を保ち、茶の湯の精神を浄化するものであるからで、これが本当の点茶の醍醐味である。」(中村直勝『茶道聖典 南坊録』浪速社、1968年、115頁)

禅宗では仏像や仏画の代わりに自ら師とする人の書蹟を拝することから墨蹟が尊重され、茶の湯の世界でも倣っている。村田珠光が大徳寺の一休宗純に参禅し、印可の証明として授けられた墨蹟を、茶席に掛けたのが由来とされる。このように禅僧との関係性を抜きにして墨蹟を論じることはできない。

禅寺の中でも茶道は大徳寺と関係が深い。京都の臨済宗の寺院には寺の特徴から名づけられた愛称がある。妙心寺「そろばん面」、相国寺「声明づら」、東福寺「伽藍づら」、建仁寺「学問づら」、妙心寺「算盤づら」、大徳寺「茶づら」と呼ばれる(筒井紘一『茶人と名器』(主婦の友社、1989年)94頁)。


『釜と炉・風炉 扱いと心得』茶道具の写真撮影の参考


淡交社編集局『釜と炉・風炉 扱いと心得』(淡交社、2007年)は茶釜などを説明した書籍である。茶道具を種類別に全6冊にまとめた『茶道具百科』の第2巻である。釜、風炉、炉、五徳、炉縁を解説する。オールカラーで写真をふんだんに使用しており、分かりやすい。「今までにないアングルの写真を採り入れ、細部が見やすくなりました」と記載されている通り、茶道具の写真撮影の参考にもなる。

茶釜は茶道具の中でも特に重要性が高いものである。茶会を催すことを「釜を懸ける」、年の初めの茶会を「初釜」というように釜は茶会の代名詞にもなっている。井伊直弼『茶湯一会集』には「釜は一室の主人公に比し、道具の数に入らずと古来いひ伝え、此釜一口にて一会の位も定まる」と記載する。(林田力)


『茶人と名器』茶人と茶道具を紹介


筒井紘一『茶人と名器(茶の湯案内シリーズ)』(主婦の友社、1989年)は高名な茶人と名器と呼ばれる茶道具を紹介した書籍である。取り上げる人物は村田珠光から近代の益田鈍翁(益田孝)に至るまで幅広い。

名器の作者にも触れている。たとえば宮崎寒雉は金沢で活躍する一流の釜師であり鑑定家でもある。宮崎寒雉は、加賀藩主前田家の御用釜師として代々寒雉を名乗り当代に至る。加賀藩の鋳物師であったが、前田家に出仕していた裏千家四代家元の仙叟宗室に注目され、特色ある釜を作るようになった(167頁)。

千利休の茶道の流派は表千家・裏千家・武者小路千家に分かれる。表千家三代・元伯宗旦の三男・江岑宗左が不審菴表千家となり、宗旦の隠居所を四男・仙叟宗室が継ぎ今日庵裏千家となり、さらに次男・一翁宗守が官休庵武者小路千家を称する。

この三千家の分立によって千家茶道は安定的な発展を遂げることになる。宗旦の代では乞食宗旦と言われながらも武家に出仕しなかった。権力者の気まぐれで滅ぼされた千利休の轍を踏まないためである。三千家に分かれた宗旦の子どもの代になると宗左が紀州徳川家に出仕したように大名家の茶道となっていった。

日本では「たわけ」の由来を「田分け」とするように分裂を弱体化とみる幼稚な見解もあるが、三千家の分立が発展の要因である。このお陰で明治維新の文明開化の荒波にも生き残ることができた。一家のみで統一を保っていたならば家元の権威は競争相手がいないために高くなるが、硬直化して廃れたかもしれない。どこかで途絶えた可能性もある。

「たわけは田分け」自体も迷言である。鎌倉時代の所領(田畑)の分割相続を「たわけ」として止めた結果が南北朝の騒乱であった。南北朝の騒乱が長引いた原因は皇国史観に見られるような天皇家への忠誠心では決してない。分割相続から排除された側が別の天皇を錦の御旗として利用したためである。「田分け」をしなければ相続紛争が激化するだけである。(林田力)


『茶道をめぐる歴史散歩』茶室は結界


井上辰雄『茶道をめぐる歴史散歩』(遊子館、2009年)は日本史の研究者による茶道をめぐるエッセーである。見開き2頁で一つのテーマを語っており、読みやすい。茶道は室町時代以降の文化という印象が強いが、古代史の研究者らしく古代中国から説明を始めている。

当然のことながら茶道に対する含蓄のある言葉も多い。以下の文章は高価な茶道具がオールマイティではないという、茶道具の奥深さを示している。

「一つひとつの茶器が茶の湯の趣向にぴったりとあてはまり、しかもそれぞれが、有機的に生かされていなければならない」(58頁)

また、茶室という空間の特殊性を指摘する。「茶室には、自ら理想とする自然の景を茶庭に構成し、そのなかに我が身は包摂されることを願う」(47頁)

躙り口については「二尺二寸ぐらいの狭い出入口を、身をかがめてくぐる緊張感は、わたしたちの心をわななかすといってよい」(174頁)と語る。

さらに一休宗純の歌「有漏路(うろじ)より  無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」を引用した上で、露地を「有漏路より無漏路に入る結界」と説明する(177頁)。

この茶室理解は妥当である。侘び茶の大成者・千利休は茶室を現世における清浄無垢な仏土を実現する場と位置付けた。その清浄なる空間に入るに際しては心を入れ替えることが求められる。浮世の雑念を捨てて茶室に入るための仕掛けが露地(茶室に付随する庭園)である。

茶室は最小の空間に豊かな広がりを与える世界に誇る日本の伝統建築である。茶室が豊かな広がりを有する理由は、露地とつながっている点に求められる。つまり、茶の湯の空間は、茶室だけでなく、外界(露地)と一体に仕組まれている。茶道も桂離宮などと同じく庭屋一如の精神を継承している。

「或る対象は、それが置かれるべき場所に置かれることによって、はじめてその真価を発揮する。花は花瓶に生けられ、花瓶は床の間に置かれ、床の間は茶室の中にあり、茶室は風雅な庭園の一隅にしつらえられている」(尾高朝雄『自由論』ロゴス社、2006年、45頁)。

利休が露地に高い精神性を付与していたことは以下の言葉が示している。

「露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなどちらすらん」

「露地は草庵寂寞の境をすべたる名なり、法華譬論品に長者の諸子三界の火宅を出て露地に坐すると説き、また露地の白きと云ひ、白露地共いへり。一身清浄の無一物底也。」(「南方録」)

心理学者も露地の心理効果を以下のように説明する。

「露地とは、この浮世の外にある地上の天国、いや極楽の超ミニ版への超ミニ参道で、進行につれて刻々と清浄感や鎮静効果が深まる」(安西二郎『新版 茶道の心理学』淡交社、1995年、33頁)。

現代では茶室を独立の建物として構えることは稀で、住宅内の一室を茶室とするケースも多い。その場合でも茶室の隣でザワザワ、ガヤガヤと話し声が聞こえるような場所では茶室の静寂さはなくなってしまう。露地が無理としても、茶室を聖域とする工夫が求められる(林田力「茶室における露地の効用」PJニュース2010年10月4日)。


IT


Apple(アップル)に人権軽視批判


Apple(アップル)は労働者の人権を軽視して巨額の利益を上げていると報道された(CHARLES DUHIGG and DAVID BARBOZA, Apple's iPad and the Human Costs for Workers in China, New York Times, January 25, 2012.)。宣伝広告で作られた企業イメージと実体の乖離を浮き彫りにしたNew York Times記事は大きな反響を呼んでいる。

中国にあるApple製品の工場の労働環境は劣悪で、事故が絶えない。長時間の残業は当たり前で、週7日労働もある。未成年の労働者も確認された。作業員の健康・安全には無配慮である。ある工場ではiPhoneのスクリーンを洗浄するために有毒な化学物質を使うように作業員が命じられ、137名が健康被害に遭った。その有害物質は作業効率を高めるために使用されており、安全よりも利益という企業体質を物語る。。

iPadの工場ではアルミニウムの粉塵による爆発事故が複数件発生し、死傷者を出した。成都の工場では4名が死亡し、77名が負傷した。その後にも上海のiPad工場で同じ原因の爆破事故が発生しており、教訓を活かせていない。爆発事故はiPadのケースを研磨する作業で発生した。工場は換気が悪く、アルミの削り屑が工場内に広がり、火花で着火で爆発した。

中国でiPadやiPhoneなどのApple社製品を受託生産するFoxconn(フォックスコン)は広東省深セン市にある工場で10人以上の従業員が相次いで飛び降り自殺を図る「連続自殺騒動」が起こり、過酷な労務環境が報道された。New York Times紙の記事ではAppleがFoxconnを支え、成長させた原動力とした上で、Appleの行動は是認できないものと指摘する。

Appleの問題として元アップル役員はApple独特の秘密主義を説明する。サプライヤーはAppleとの契約について一切他言してはならないとされる。この閉鎖性によって労働環境の改善が進まないと批判されている。多数の権利擁護団体やメディアの要求によって、Appleは初めて156のサプライヤーのリストを公開したが、孫請け会社については、依然として情報は不明なままである(佐藤ゆき「過酷な労働環境でアップル製品はつくられている / 長時間労働、絶えない爆発事故、週7日労働も」ロケットニュース24 2012年1月31日)。

独立系労働監視団体である公正労働協会はアップルの製品は労働者の犠牲の下に生産されていると指摘する。安賃金で劣悪な労働環境で働く犠牲の上にAppleは成り立っていることになる。この問題は日本でも報道され、「Appleは世界最大最悪のブラック企業」との声も出た。

国際情勢解説者の田中宇氏は別の面からAppleの体質を指摘する。ガーディアン紙の記事を引用して、iPhoneによるプライバシー侵害の危険性も指摘する。iPhone利用者はブラウザで何を見たか、どのようなアプリをダウンロードしてどのように使用しているか、外出時にどこに行ったかなどの情報が随時Appleに送信される。情報を送信させない設定もあるが、その設定でAppleが情報を採取していないと確信できる根拠はない(iPhones and Android phones building vast databases for Google and Apple, guardian, 22 April 2011.)。

しかも収集した情報を米国の諜報活動に利用させている可能性を推測する。「スティーブ・ジョブズが死んだ後、世界的な英雄に祭り上げられたプロパガンダ的な急上昇を見ると、アップルも諜報機関に入り込ませてあげる見返りとして、企業イメージと株価の向上を得ることにしたのかもしれないと感じる。」(田中宇「米ネット著作権法の阻止とメディアの主役交代」2012年1月25日)

故スティーブ・ジョブズ氏に関する米連邦捜査局(FBI)の調査報告書が、情報公開法の請求に基づいて公開された。ジョブズ氏のマイナス評価も多く、神格化されつつあるジョブズ氏の実態を知る上で有益な資料である。ジョブズ氏がLSDなど薬物の利用者であったことも証言された。これはジョブズ氏自身も認めていた内容で新味はないが、改めて裏付けられた形である。

以下は資料に記載されたジョブズ氏の評価である。ジョブズ氏は現実歪曲フィールドを作り出せる人間で、信頼できない。正直ではない。ジョブズ氏は目的を達成するために現実や真実を曲げる傾向がある。高慢で人を見下すところがある(「『ジョブズ氏は信頼できない』FBI、身元調査報告書を公開」WIRED 2012.2.10)。

アップル製品には消費者から不満の声もある。iPhone 4では電波感度の低下が話題になった。「iPhone」のロック解除に使われる4桁のパスコードは僅か数分で解読可能であるとスウェーデンのセキュリティ企業Micro Systemationは報告する。

見た目の形状がiPad2とほとんど変わらない新型iPadに対しては「新味に乏しい」「革新的ではない」といった、失望の声が上がる。割高なiPad2を選ばない消費者も増えている(「独走アップルの死角」日経ビジネス 2012年3月19日号10頁)。『iOS』は画面が固まってしまう、レスポンスが遅いという不満も抱えている(「『iOS 5.1』の残念なところ10件」WIRED.jp)。また、アップルは電子書籍の価格を共謀してつり上げていた疑いがあるとして米司法省が提訴の意向を示している(「アップルなどが電子書籍価格つり上げか、米当局が提訴へ」ロイター2012年3月8日)。

Appleは消費者向けビジネスで成立している企業である。「他の大企業とは違い、Appleに対してわれわれ消費者は絶大な影響力を持っている」(「汚れた金か?―ニューヨーク・タイムズのApple記事を考える」TechCrunch Japan 2012年1月27日)。Apple製品を購入するか否かは消費者の意識が問われる問題である。


スマホは従来型の携帯電話よりも満足度が低い


スマートフォン(スマホ)の満足度は従来型の携帯電話よりも低い。新しいものや高機能が良いとは限らず、流行に踊らされないことが重要である。

携帯電話端末の顧客満足度調査はJ.D.パワー アジア・パシフィック(東京都港区)が2012年2月21日に発表した。調査は2012年12月時点のものである。性能、操作性、スタイル・外観、機能の4項目で顧客満足指標を設定し、全国の6000人を対象に実施した。

基本的な通話機能の使いやすさやボタンの押しやすさといった点で従来型の携帯電話の評価が高かった。携帯電話本来の機能である電話という点でスマホは使いにくい。メールを打つ場合も従来型の携帯電話の方が速くできる。また、スマホはバッテリー性能の評価が低かった。電池の切れた携帯電話ほど無駄なものはない。バッテリーの消耗が速いということはエコにも反する。

スマホはウィルス感染という危険も伴う。スマホをターゲットにしたウィルスやマルウエアが急増している。新種の大半がスマホ向との報告もある。ユーザー情報を不正に収集する「トロイの木馬」型が目立ち、短期間で機能が急速に進化している。ウィルス感染はアプリ配布でも注意する必要がある。公式マーケットも安全とは限らない。


グリーGREEを摘発か


ソーシャル・ゲームのグリーGREEに摘発の可能性が報道された。ある政府関係者によればグリーの摘発に向けた検討が始まった模様で、「4-5月が山場だ」という(「当局がグリーに重大な関心 正念場迎えるソーシャルゲーム」ダイヤモンド・オンライン2012年3月26日)。大和証券キャピタル・マーケッツは「行政指導がなされるリスク度合いが増している」などとしてグリーの投資判断を1から3へと2段階引き下げた。消費者庁がGREEの提供する「コンプリートガチャ(コンプガチャ)」に対し、景品表示法に抵触する可能性があるとして、業界への周知を検討していることも報じられた。

モバゲーがソーシャルゲームのビジネスモデルを批判されながらもプロ野球球団のオーナーとなった一方で、GREEには当局が摘発すると報道されるなど明暗が分かれた。まるでプロ野球に名乗りを上げたライブドアと楽天を髣髴させるような明暗である。そこにはユーザーを無視するGREEの体質が見え隠れする。

GREEでは運営に批判的なユーザーのコメントを削除し、退会処分を連発した。それに古参ユーザーは一層猛反発するという悪循環に陥る。「良識的なユーザー」「初期の頃から支えてくれたユーザー」などのユーザーが離れてしまった(「グリーは一体どこから道を間違え始めたのかという知られざる歴史まとめ」GIGAZINE 2012年3月26日)。

ソーシャル・ゲームの詐欺性が問題になっている。ソーシャルゲームは不透明でレアなアイテムによって射幸心を煽り、消費者から搾取すると批判されている。SNSではお馴染みとなったゲーム招待状。そのカラクリを紹介する。

ゲームのプレーヤーがSNS上の友達に招待状を送る理由は様々である。最初に思いつく理由は、純粋に素晴らしいゲームだから他人に勧めるケースである。しかし、これは実際に送られる招待状のうちの僅かである。

次にソーシャルゲームで一緒にプレイする仲間になって欲しい場合である。たとえば以下のような招待状がある。

「チームの皆で闘うと燃えるゲームだから、あなたと一緒のチームでプレイできたらうれしい」

「まだ始めたばかりで仲間がいなくて寂しい」

これも純粋に一緒にプレイしたいという理由からならば、気心の知れた仲間内での招待となり、実際に送られる招待状のうちの少数である。

最も多い理由は招待状を送ることでプレーヤーに何らかのメリットが生じるケースである。多くのゲームでは招待状の送付や招待された友達のゲーム登録によって、ポイントの加算や希少アイテムの取得などの特典を付している。これによってゲーム運営企業は広告宣伝によらずにプレーヤーを増加できる仕組みである。

招待状の送付に特典を付す場合、招待状が乱発される傾向にある。最初から招待目的でSNS上の友達を募集するプレーヤーも存在するほどである。ゲーム運営企業にとってゲームの知名度を上げたい場合には有効であるが、プレーヤー増加の費用対効果は薄い。中には「招待メールを送るだけでコインがもらえる」として、「スルーでお願いしますm(_ _)m」「登録も全く必要ないです」「完全無視でお願いします」「ご迷惑掛けて本当にごめん」と記載する招待状もある。

この種の招待状が大量に送付されてもゲーム運営企業のメリットにならない。そのため、招待状を受けた友達の加入で特典を付与するようにする。このようにした方がプレーヤーも受け取った友達が登録したくなるような招待状を書くことになる。

多くの招待状では「面白いゲームがあるんだけど…」「楽しめるゲームを見つけたんだけど…」と優れたゲームであることをアピールする。ゲームが面白いことは当然であるが、遊び方が単純で手軽に楽しめることがアピールポイントである。

ファミコンの時代と比べるとテレビゲームの世界は大きく進歩したが、逆に精緻になり過ぎてゲームの世界に習熟するハードルが高くなり、気楽に遊べなくなった面もある。SNSのゲームの隆盛には、その間隙を突いた面がある。それ故に招待状も「サクサク進めるから時間がなくても面白いよ」となる。

招待特典目当てに招待状が送付されることは多くのSNSユーザーも認識していることである。それ故に招待状では「どうしても欲しいキャラが、招待受けてくれると加入できるんだよ。だめかな」「僕を助けると思ってお願いします」と正直に招待特典目当てであると記載されることが多い。

また、招待特典は招待者だけでなく、招待を受けて登録した友達にも付与されるケースがある。そのために招待状には「このメールから登録すると、2000コイン相当のアイテムがもらえます。やってみて」と招待を受けた側のメリットも記されることもある。

中には以下のようにゲーム登録だけ(プレイしなくてもいい)を依頼する招待状もある。

「招待アイテムももらえるので、登録してもらえるだけでも助かります」

「ゲームはして頂かなくてけっこうですので、どうか『ゲーム開始』をワンクリックだけご協力お願いいたします」

さらに「登録してくれたら、もちろん自身の未登録ゲームなら協力させていただきます」と相互に登録しあう提案もなされている。

ゲーム運営企業にとってプレーヤー数の増加は直近の目標であるが、基本プレイ無料・アイテム課金のゲームでは非アクティブなプレーヤーを大量に抱えてもデータ領域を圧迫するだけである。そこで招待特典のハードルを上げるゲームもある。友達が登録した上で一定のレベルやステージに到達することで特典が付与される仕組みになる。

この場合は、以下のような招待状になる。

「チュートリアル終了までよろしくお願いします」

「今ならレベルアップしてくれるだけでアイテムが貰えるみたいだから、ちょっと頑張ってレベル10まであげて欲しいかも」

「特典が欲しいので、マリオネット作成までやってくれると助かります」(林田力)


オンラインゲームを支えるグリッドとクラウド


オンラインゲーム運営企業が直面する課題は高トラフィックの処理である。多数のプレーヤーの集まる人気ゲームはアクセスが集中し、レスポンスが悪化する。一般にゲームはウェブサイト以上に速いレスポンスが求められる。ウェブサイトの画面表示では数秒を待つことは許容できても、ゲームで数秒待たされることは厳しい。特にアクション系のゲームのレスポンスの遅れは致命的である。

しかし、一時的な人気のために高性能のマシンを用意するならば収益面で破綻する。特にゲームは土日などピーク時と、そうでない時の差が激しい。ピーク時に対応した高スペックなマシンは用意することは非効率である。

この課題は有料会員制からアイテム課金制という近時の傾向によって重要性が増している。オンラインゲームの世界は有料の会員だけ利用できる仕組みから、プレイは無料として、プレーヤーの参入ハードルを下げ、アイテムで課金することで収益を上げるビジネスモデルに変化している。この結果、大量の無料プレーヤーを抱えることになり、これまで以上の処理能力が求められる。

一方でアイテム課金制は平均客単価や立ち上げ時の収入を低下させ、収益面で苦しくなり、より効率的なマシン投資が必要になる。そこで立ち上げ時のコストを抑制し、利用状況に応じてフレキシブルに設備を拡大・縮小できるシステムが理想的である。

そこで期待された技術がグリッド・コンピューティングである。これはネットワークに接続した複数のコンピュータを一台のコンピュータのように利用する技術である。ネットワークを通じて遊んでいるコンピュータの計算能力を有効利用する仕組みである。タンパク質を解析して新薬開発に貢献するプロジェクトや、宇宙からの電波信号を解析して地球外知的生命体を探索するプロジェクトは広く一般の人々のパソコンも参加した。

これをゲームにも応用する。ゲーム運営企業内の複数マシンをグリッド化し、ゲームの売れ行きに従ってグリッド・サーバを増減させる。人気マシンには多くのリソースを割り当て、人気が衰退すればリソースを減少させる。利用されなくなったマシンは新規ゲームで利用する。

早くも2003年には米国Butterfly.net社とIBM社がオンラインゲーム用グリッド・コンピューティング環境「Butterfly Grid」をプレイステーション2用ゲーム開発者向けに提供した。これはマシンの性能を監視し、特定のゲームにアクセスが集中した場合は、余裕のあるマシンを自動的に割り当てる機能を実装している。

このグリッド・コンピューティングは革新的な技術であるが、オンラインゲームでは社内にプールしたマシンに限定される。新薬発見や宇宙人探索とは異なり、商用ゲームのために自己のパソコンの余剰能力を提供することは考えられない。また、オンラインゲームでは不正アクセスや不正操作(チート)などの問題も起こり得る。社外のマシンを使った分散処理にはセキュリティ上の危険がある。

そこでクラウド・コンピューティングの登場である。これはシステムの利用企業がシステム構成を意識することなく、ネットワーク上に存在するプロバイダのサービスとして利用できる仕組みである。必要なリソース分を契約できるクラウドは、スモール・スタートで立ち上げ、突発的なプレーヤー増大の可能性のあるゲームに向いている。

一方でクラウドにも注意点がある。クラウドでは実際のマシンはインターネットの雲(クラウド)の中に隠れ、利用者が実際のマシンを意識せずに利用できる点がメリットである。しかし、マシンがゲームのプレーヤーの住む場所の近くにある場合と、地球の裏側にある場合では回線を通したレスポンスに差が生じる。雲の中にあるマシンを意識しないで済む点がクラウドの意義であるが、ある程度は意識する必要がある。

クラウドではサービス品質(マシン停止など)やセキュリティが問題になるが、ゲームでの見方は分かれている。現実にプレイステーションネットワークの個人情報流出事件は大問題になっており、品質やセキュリティを重視する見解が一般的である。

一方で顧客情報は除いて、ゲームは社会インフラを支えるシステムよりは重要度が低く、低価格かつベストエフォート的なサービスで良いとする見解もある。ゲームにアクセスできないなどの問題が起きても基本的にはアイテムで補償するため、運営企業の懐は他の業態に比べれば痛みにくいという計算もある。


オンラインゲームを支えるデータ管理


コンピュータ・ネットワークの普及・発展と軌を一にして広まったオンラインゲームであるが、その独自性からゲーム運営企業には他のシステムと異なる工夫が求められる。ここではゲーム特有のデータ管理手法を紹介する。

オンラインゲームの課題は大量アクセスの迅速な処理であるが、同じく大量アクセスを処理しなければならないポータルサイトと比べると大きな相違がある。それはゲームではメモリ上の処理の割合が高いことである。

ウェブサイトでは別のページにアクセスする度にウェブページの読み込み処理が発生する。これに対してゲームでは開始時にプレーヤーのデータをデータベースからロードし、そのデータをゲーム中は使い回す形が一般的である。但し、最近主流のソーシャルゲームではプレーヤーの関係が重要になり、他のプレーヤーのデータを読み込む場合も多くなる。仲間になる、相手にプレゼントを贈る、相手の農園に虫を入れるなどである。

プレーヤーはゲーム中にアイテム購入やレベルアップなどで状態が更新される。この場合もデータは更新された形でメモリに持ち続けている。更新されたデータは最終的にはデータベースに保存されるが、更新時にデータをデータベースに逐一保存するか、まとめてゲーム終了時に保存するかは作り方である。メモリ上の情報は障害時には消えてしまうために更新の度に小まめに保存する仕組みの方が安全である。

それ故にゲームではデータの書き込み処理は一定程度発生するが、留意点はメモリ上の処理に比べてデータベースへの入出力処理は圧倒的に遅いことである。データを保存してからゲームを進める仕組みにしたならば、保存処理がボトルネックになり、プレーヤーを満足させるレスポンスが得られなくなる。この対策として書き込み処理を非同期にして、書き込みの結果を待たずにゲームを進める実装にする例がある。

また、書き込み処理を速くするようにデータの持ち方も工夫する。データベースの性能が低い時代は、そもそもデータベースを利用せずにバイナリファイルに保存するケースがあった。また、データベースを使用する場合でもバイナリデータとして、BLOB (Binary Large Object)項目に格納することもあった。その後はデータベースの性能向上に伴い、通常のデータベースの使われ方も増えてきた。

今後はKVSやオンメモリ・データベースの利用が注目される。KVS (Key-Value Store)はデータとデータを識別するキーをペアにして保管するデータ管理システムである。伝統的なデータベースに比べるとシンプルであるが、プレーヤーのデータはプレーヤーに紐付けられて使用するものと決まっているゲームと親和性がある。

オンメモリ・データベース(インメモリ・データベース)はデータを半導体メモリに保存することで、処理速度を飛躍的に向上するデータベースである。オンメモリ・データベースでは、データをハードディスクドライブに保存する従来型データベースで発生していたディスク入出力が不要になる。

オンメモリ・データベースはパフォーマンス面では従来型データベースを圧倒するが、データの永続性の点で従来型データベースを代替するには至っていない。それでもメモリ処理の割合が高いオンラインゲームには適している。