毛利輝元と萩城

林田力

毛利輝元は、戦国時代から安土桃山時代から江戸時代前期の大名である。輝元は、1553年2月4日(天文22年1月22日)に生まれる。幼名は幸鶴丸。毛利元就の嫡孫であり、毛利隆元の長男である。祖父の毛利元就は敵を調略して内部崩壊させることを得意とした武将であった。毛利氏は、鎌倉幕府草創の名臣である大江広元の四男季光を祖とする一族である。

輝元は、父の急死によって家督を相続した。織田信長と対立したが、備中高松城で羽柴秀吉と講和を結び、本能寺の変後は秀吉に属す。豊臣政権下では五大老の一人になる。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立されたが、精彩に欠けた。本気で家康と対決するよりも場当たり的に兵を送って手薄そうな所を攻めている凡将との評価がある。関が原の敗戦で120万石から長門国・周防国2国(防長二州)36万石に減封された。本拠地だった広島(安芸国)は福島正則が新領主になった。

輝元は出家剃髪して宗瑞(そうずい)と称し、家督を長男秀就(ひでなり)に譲った。長州藩の初代藩主は秀就であるが、藩祖は輝元である。輝元は1625年(寛永2年)6月2日に没した。

毛利輝元

萩城

萩城(山口県萩市堀内)は山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城である。毛利輝元が1604年(慶長9年)に長州藩の本拠として指月山麓に築城した。ここからは萩城には指月城の別名がある。輝元は防府か山口に府城を置きたいと考えていたが、徳川幕府の意向で山陰側の萩が本拠となった。築城中には石垣の築造に使う石の盗難事件「五郎太石事件」も発生した。

指月山(しづきやま)は標高143メートル。山林はシイノキ・タブノキ・クロガネモチ・カゴノキ・イスノキ・クスノキが混生する。過去には戦国時代に津和野城主・吉見氏が指月山に出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。

萩城は松本川と橋本川のデルタ地帯に築かれている。デルタの根元を横断し外堀とし、その内が城域となり、外が城下町であった。萩城は本丸、二の丸、 三の丸、詰丸から構成される。外堀の内に三の丸、中堀の内が二の丸、内堀の内に本丸が設けられた。指月山頂には詰丸を配した。本丸には5層5階の天守閣があった。萩城は日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つである。

1874年(明治7年)に解体され、現在は萩城跡指月公園になっている。国の史跡に指定されている。天守閣跡、花江茶亭、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などがある。二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)がある。毛利輝元像もある。公園内のミドリヨシノは山口県の天然記念物に指定されている。春は花見スポットになる。夜桜ライトアップも行われる。

萩市は現在でも江戸時代に形成された町割や街路、武家屋敷や町家などが多く連続して存在している。萩の夏みかん集団栽培は明治維新後の失業武士の救済事業として明治9年頃から始まった。2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のゆかりの地である。

萩城
萩城2

山口大神宮初詣

山口大神宮の初詣。2014年1月1日撮影。
山口大神宮は、山口県山口市滝町にある神社である。伊勢神宮を分霊した神社である。室町時代の守護大名・大内義興が、永正17年(1520年)に伊勢から神霊を勧請して創建した。西のお伊勢さまと呼ばれる。遠くて伊勢まで行くことができない西国の人々がお参りに来て賑わった。山口自体も大内氏が京に憧れて造営し、西の京と呼ばれた街である。境内には多賀神社もある。

武田神社

武田神社(山梨県甲府市古府中町)は戦国時代きっての名将・武田信玄(1521-1573)を祭神とする。躑躅ヶ崎館の跡地に建てられており、境内には当時からの堀、土塁、石垣、古井戸等が残り、武田一族の遺香を現在まで伝える。近隣の石水寺要害城が武田信玄生誕の地である。



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