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市民運動はtwitterやSNSの積極的活用を

独裁政権を倒したチュニジア革命(ジャスミン革命)やエジプト革命ではツイッターやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が威力を発揮した。これは日本の市民運動にとって参考になる。
大まかに言って日本の市民運動はウェブサイトやメールが普及し、ブログを開始したというレベルである。デジタルデバイドのある日本において、これは大きな前進である。しかし、運動の拡大にはブログはもとより、ツイッターやSNSの積極的活用に進むことが望まれる。
静的なウェブサイトもツイッターのような相対的に新しいサービスも、ブラウザ経由で情報をアクセスする点で同じである。それ故に既にウェブサイトを開設しているのだから、新たにツイッターなどを開設する必要はないとの考えは一理ある。
また、情報の保存の点でも静的なウェブサイトは有効である。基本的にブログやツイッター、SNSはサービス提供者のサイト上で更新する。そのためにサービス提供者に削除されたら、情報発信者には何も残らない。
これに対し、静的なウェブサイトは自己のパソコンで作成したHTMLなどのファイルをFTPでアップロードする形である。このため、サービス提供者に削除されたとしても、別のウェブサイト提供サービスと契約して、自己のパソコン内に保存していたHTMLファイルなどをアップロードすれば、URLは別になるが、同一内容のウェブサイトを復活できる。
この点は権力や大企業の妨害を考慮する必要がある市民運動にとって重要である。このため、いくらツイッターなどの新しいサービスが発達しても、特定のサービスに依存することは危険である。依然として静的なウェブサイトをネットの情報発信の基本とすべきである。本記事では市民運動に新たなサービスの活用を推奨するが、静的ウェブサイトにからの置換を求めるものではない。静的ウェブサイトに加えて新たなサービスの活用を推奨する。
新たなサービスの活用を推奨する大きな理由は、ウェブとツイッターなどでは情報の発信力が異なるためである。ウェブサイトは基本的にURLを入力した人か検索エンジンの検索結果から流れた人しか見ない。URLを知っている人は直接交流がある人である。検索エンジンからの訪問者も、関連するキーワードを入力した人であり、問題意識を元々有していた人である。
マンション建設反対運動に反対運動そのものへの関心はないマンション購入検討者が関心を抱くというようなことはあり、それを積極的に呼び込むように工夫することは正当である(林田力「マンション建設反対運動の団体名の一考察」PJニュース2010年12月11日)。しかし、同時に限界があることも理解する必要がある。
http://www.pjnews.net/news/794/20101210_5/
ウェブサイトが世界中からアクセスできるということは事実であり、安価に世界中に情報発信できることはネットの革命的な利点である。しかし、世界中からアクセスできるということと、世界中の人がアクセスするということは異なる。多くの人に知ってもらう点では依然として既存メディアの影響力は大きい。ネットを過小評価することは誤りだが、過大評価も誤りである。
読み手が積極的にアクセスしなければならない静的ウェブサイトと異なり、新しいサービスはプッシュ型の情報配信の仕組みがあり、情報を伝播させやすい。ブログはPingやトラックバックという機能によって、記事の更新を他のサーバに伝えることができる。
ツイッターやSNSにはフォローや友達という仕組みがある。自分のページを開くとフォロー先や友達の新着情報が見られる仕組みである。この仕組みはブログでも可能だが、読み手側がRSSリーダーに登録する必要がり、ツイッターやSNSほど手軽ではない。この点が字数制限のある点でブログよりも機能が劣るツイッターがメディアとして注目される一因である。
フォロワー(フォローする人)や友達は少しの努力で増やすことができる。自分がフォローすればフォローを返してくれる人も多い。SNSでは友達を募集するコミュニティーが存在し、そこで友達を募集でき、友達募集者を見つけることもできる。フォロワーや友達を増やすことで静的ウェブサイト以上の情報発信力を得ることができる。
市民運動はツイッターを積極的に活用すべきであるが、市民運動家にはツイッターに否定的な感情も少なくない。この点について以下では考察する。
短い言葉を気軽に呟ける点がツイッターの人気の背景である。これに対して市民運動の抱えるテーマは複雑である。誠実に情報発信しようとすればするほど字数制限の壁にぶつかる。市民運動ではないが、大阪市の平松邦夫市長の反応が典型的である。大阪府の橋下徹知事がツイッター上での政策論争を呼びかけたが、平松市長は「字数が少なく議論に不向き」と拒否した。
ツイッターの字数制限は、複雑な問題を述べる上で短すぎることは厳然とした事実である。正確に説明するためには、相当程度の文章にならざるを得ない。
ネット上の口コミを商品購入の参考にする消費者は少なくないが、ツイッターによって手軽に感想を呟け、それが簡単に伝播するようになった。それは必ずしも悪いこととは断言できないが、心から揺さぶられるようなモノに出会った時の感想はツイッターでは書けない。字数制限のために手軽なモノの感想が多くなる。賢い消費者にはツイッターの感想とブログの感想を区別するリテラシーが必要である。
市民運動が抱えるような問題も字数制限のあるツイッターで書き込めるものではない。思い付きを垂れ流すような情報発信があふれる中で、それらとは一線を画したいという市民運動家の思いも正当である。
しかし、ツイッターを利用することはツイッターで完結させることを意味しない。極端な使い方をすればタイトルとリンクだけを呟き、自己のウェブサイトやブログ記事に誘導するだけでいい。あくまでツイッターは道具である。完璧を求めて全否定するならば市民運動にとって大きな損失である。
ブログによっては記事を投稿すれば自動的にツイッターにタイトルとリンクを呟いてくれるサービスもある。また、電子メールで記事を投稿できるブログもある。電子メールが使えるだけの人でも、最初に仕組みを構築できればブログやツイッターも可能になる。
市民運動家には短い言葉を呟くツイッター的情報発信に過剰な拒否感も存在する。この生理的な拒否反応には二つの背景がある。
第一にマルクス主義の翻訳文の影響である。学生運動出身者など日本の伝統的な市民運動家の多くはマルクス主義の洗礼を受けている。マルクス主義の邦訳文献の多くは長文で難解である。それに慣れ過ぎて、そのような文章表現が普通になっている市民運動家も少なくない。これは市民と市民運動が乖離する要因である。
この点で科学的社会主義の担い手を自認する日本共産党が機関紙・赤旗を「です・ます調」で統一していることは興味深い。新聞が「です・ます調」になっていることには違和感があるが、左翼に蔓延する難解なドイツ語翻訳調からの克服という点では意義がある。市民運動も難しい内容を難しく説明して仲間内で悦に入る自己満足は克服しなければならない。字数制限のあるツイッターの活用は、効果的な情報発信の訓練になる。
第二に小泉純一郎的なワンフレーズ・ポリティックスへの嫌悪である。小泉元首相は、「構造改革なくして景気回復なし」など短くて分かりやすい言葉で国民の支持を集めた。これは衆愚政治・ポピュリズムとして左派的な市民運動家の多数が反発した。正確な説明に欠けるツイッターの呟きが大きな反響を呼ぶことにも、ワンフレーズ・ポリティックスと同じ匂いを嗅ぎ取り、拒否感を示す。
日本には様々な保守反動勢力が存在するが、市民運動にとって当面の最大の敵は新自由主義・構造改革派である。新自由主義者は自らを改革者と位置づけるが、市民運動にとっては改悪であり、最大の反動勢力である。それ故に市民運動家が小泉構造改革を憎むことは正しい。田中角栄流金権政治の申し子である小沢一郎に期待することも、反構造改革の観点では合理性がある(林田力「尖閣弱腰外交が管直人を救う可能性」PJニュース2010年9月29日)。
http://www.pjnews.net/news/794/20100928_16
しかし、小泉構造改革を憎むあまり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の論法で、ワンフレーズ・ポリティクスという小泉元首相の手法までも否定することは不合理である。在特会などの行動する保守は街頭デモなど左派市民運動の手法を取り入れて成長した。市民運動も敵の効果的な手法を取り入れるべきである。
そもそもワンフレーズ・ポリティクス自体は左派にとって敵の手法ではない。憲法九条擁護や反原発など市民運動こそワンフレーズ・ポリティクスに親和性がある。1989年の参議院選挙で社会党が大躍進したが、それは消費税反対というワンフレーズ・ポリティクスの成果である。2009年の民主党政権誕生も「政権交代」や「コンクリートから人へ」という分かりやすいキャッチフレーズが原動力であった。
小泉元首相の手法としてワンフレーズ・ポリティクスを否定するのではなく、自分達の手法として奪い返すくらいの意識が望まれる。
市民運動はSNSの積極的活用も望まれる。国際的にはフェイスブックが有名で、チュニジア革命などでも活躍した。今後は日本でもフェイスブックがシェアを伸ばす可能性が高いが、現時点ではミクシィ、グリー、モバゲータウンの国産サービスが御三家である。このうち、グリーやモバゲータウンは積極的な宣伝広告が示すようにゲームをキラーコンテンツとし、未成年のユーザーが多い。そのために市民運動の情報発信ツールとして向いているSNSを一つ選ぶことになったら、国内向けはミクシィが最も適している。
SNSの特徴として足跡という機能がある。これは誰が自分のページを閲覧したかを教えてくれる機能である。少なからぬユーザーは足跡を定期的に確認し、足跡を付けたユーザーを訪問する。つまり、多くのユーザーに足跡を付けることが自分のページの宣伝になる。
但し、この性質を悪用して自動的に足跡を付けるソフトウェアも販売されており、システム側でも不自然な連続足跡を規制するというイタチゴッコが続けられている。
現実にミクシィ上での足跡による過剰宣伝が問題になった有名人に平沢勝栄衆議院議員と元刑事で作家の北芝健氏がいる。共にアカウントを他者に悪用されたと主張している。
平沢議員は2008年8月25日付のブログ記事「早急に対策。」で、ネットに詳しい人にミクシィの開設を依頼したが、議員の把握していない動きが出たために各方面に連絡し対策をとると表明した。その後、8月29日にミクシィのアカウントは削除され、当該ブログ記事も削除された。
北芝氏も2009年8月15日付のブログ記事「まだ梅雨が明けないのかな」で、勝手にミクシィのアカウントを開設した人物が、そのアカウントを他者の誹謗中傷やナンパの道具に悪用したために非承認としたと述べている。
このような問題があるものの市民運動が適切にSNSを活用すれば運動を広げることができる。
市民運動には住民運動のようにローカルな問題に取り組む活動も多い。そのような団体にとっては世界中に発信できるインターネットは必ずしも魅力に感じないかもしれない。それよりも街頭でビラ配りをした方が効果的との考えも出てくる。
しかし、そのような団体こそSNSは向いている。ソーシャル・ネットワークにはコミュニティーという同一のテーマで集まる機能がある。そこには江東区や世田谷区など地域のコミュニティーもある。地域のコミュニティーのメンバーの大半は住民であり、後は勤務先があるなど地域に関係・関心があるユーザーである。コミュニティーで呼びかければピンポイントで特定地域を対象とした情報発信が可能になる。

2ちゃんねる型掲示板「megabbs」の先駆性と限界

インターネット掲示板「2ちゃんねる」は良くも悪くも様々な話題を提供してきた。一方でミクシィやツイッターなどの新しいプラットフォームの台頭により、存在感は一頃より薄れつつある。

既に閉鎖してしまった掲示板サイト「megabbs」(メガビ)は、2ちゃんねる型(スレッドフロート型)掲示板の特徴を示していて興味深い。メガビは弐ch編者が運営する掲示板サイトであったが、「管理負担増」「管理不足による無法化」を理由に2008年11月4日、突然閉鎖された。

私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。その経験から東急リバブル・東急不動産の問題を追及しているが、メガビは両社批判の震源地でもあった。

現在でも「2ちゃんねる」などのインターネット上では両社に対する批判が多い。それらは消費者に不利益をもたらす販売手法への批判や景観を破壊する高層マンション建設に反対する言説である。この状況はビジネス誌が「炎上」と報道するほどであった(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

週刊ダイヤモンドの記事によると、「2ちゃんねる」で両社を批判するスレッドが急増した契機は、2005年2月の東急不動産への提訴とする。これは隣地建て替えなどの不利益事実を告げなかったとして、東京都江東区のマンション購入者(=林田)が売買代金の返還を求めた裁判である。これをきっかけに「自分も、このような目に遭った」と批判的な書き込みで炎上したという。

しかし、これに先立つ2004年末頃からメガビで両社を批判する書き込みが急増していたことはあまり知られていない。メガビは社会問題からアダルトまで様々な板(掲示板のカテゴリー)を有する掲示板群であるが、ほとんどの板に両社を批判するスレッドが立てられた。しかも、スレッドは立てられて終わりではなく、スレッドには両社を批判するレスが付けられ、いつも上位スレッドに上がるほどの盛況振りであった。

中でも土木作業員板では同じ東急グループに属する東急建設が八王子の公団欠陥マンション(ベルコリーヌ南大沢)を施工したことを批判するスレッドが閉鎖時点でPart4になるほどシリーズ化した。メガビでは1スレッドに書けるレスの最大数は2000である。そこに至ると新たにPart2のスレッドを立てて議論を進めることになる。しかしメガビは利用者数が少ないため、最大レス数を使い切ることは少なかった。ここからは東急建設批判スレッドの人気振りがうかがえる。

一方でメガビ全体を見ると、東急への批判で燃え上がった時期は短かった。土木作業員板の東急建設批判スレッドは例外的存在であった。ほとんどの板に存在するとまで一時は言われた東急批判スレッドも順次消滅していった。ここには利用者の絶対数が少ないメガビの限界がある。

メガビ内での沈静化と反比例するように、東急リバブル・東急不動産への批判は2ちゃんねるやブログなど、よりメジャーな世界に浸透していった。そこには週刊ダイヤモンド記事が指摘する売買代金返還訴訟というきっかけがあった。また、2005年11月に発覚した姉歯秀次元建築士らによる耐震強度偽装事件によって不動産問題への関心が高まったことも追い風となった。そしてビジネス誌に取り上げられるまで広がっていくことになる。

「2ちゃんねる」などに先駆けてメガビで両社への批判が活発化したものはメガビの先駆性を示すものとして高く評価できる。世の中を動かすうねりは、最初は誰も知らないようなところから発生するものである。

一方で利用者数の少ないメガビではメガビストと呼ばれる常連ユーザーの存在感が相対的に高い。そのため、東急建設批判スレッドのように常連ユーザーのマニアックな嗜好にマッチしたものは生き残ったものの、それ以外の大半は一過性のものとなってしまった。ここには良くも悪くも常連ユーザー中心の閉じたコミュニティの特徴がある。東急批判の面でも足跡を残した一つのインターネットのプラットフォームが消滅したことには複雑な気持ちである。

アマゾンで1円中古本が消滅か

大手ネット書店・アマゾンの1円本が配送料変更で消滅の危機にある。アマゾンには新品・中古品を問わず、手持ちの商品を出品できるマーケットプレイスという仕組みがある。アマゾンから直接新品を購入しなければ気が済まないという方以外ならば、マーケットプレイスを利用して安く購入することも可能である。
このマーケットプレイスでは僅か1円で販売されている書籍なども少なくない。価格は1円であるが、1円払えば書籍が得られる訳ではない。購入者は送料を別に支払う必要がある。これまで配送料は1冊当たり340円と固定されていた。そのため、価格1円の書籍購入に要する費用は341円である。実際の送料はメール便などを利用すれば340円以下に抑えられる。この送料の差額で利益を出すことが1円出品本のビジネスモデルである。
ところが、アマゾンでは2010年8月24日から配送料を変更すると発表した。出品者に計上される配送料を250円に引き下げる。配送料引き下げによって、購入者の総支払い額も下がるため、低単価商品の需要拡大が期待できるとする。
この変更によって、配送料の差額で稼ぐ出品者は価格設定の見直しが必要になり、1円本が大幅に減少すると見込まれる。消費者にとっては配送料の引き下げは大歓迎である。一方で出品者が利益を上げられなければマーケットプレイスが回らないことも事実である。配送料よりも本の価格で利益を出す方がビジネスとしては自然である。それが消費者にとっても分かりやすい。
その意味で今回の変更は好ましい傾向と捉えられるが、出品者のビジネスモデルに大きなインパクトを与える可能性があることも事実である。アマゾンでは今回の変更の施行期間を8月24日から6か月間とするが、今後変更または中止される場合があるとしている。影響を慎重に見極めようとしているものと思われる。

ツイッターで酔っ払いに絡まれたダルビッシュ

プロ野球のダルビッシュ有選手が2010年7月27日にツイッター上で酔っ払いに絡まれた。発端は松茸を食べたとのダルビッシュ選手の呟きである。
「松茸なう。ついでに初なうです。」
「めっちゃ食いました。でもたまには贅沢もいいかな。にしても食いすぎた」
これに対し、「後楽園球場のすぐ側で育ったオヤジ」と自己紹介する河原三郎と名乗るユーザーが以下の返信をした。
「たまには?この不況で贅沢できない人は多いです。皆のあこがれのあなたは口に気をつけなければ。いまだにONといわれているのはその点でしょう。どうでもいいか。。。君は(笑)」
ダルビッシュ選手は以下の反論で応じた。
「他人と比較しても良い事はほとんどない。こんな事書く時間があるなら自分が成長するための時間に使って欲しい。」
このやり取りがネットユーザーの間で話題になった。ダルビッシュ選手の反論を見事な切り返しと賞賛する意見が多数であった。
最終的に河原氏は以下の呟きを残して、自らの呟きを削除した。
「ありゃま。エアコン故障で寝られないから酒飲んで酔っ払ってやらかしたらしい。
皆に迷惑かかると悪いからツイッター自粛だな。
今までTL汚してゴメンなさい。では機会があったらまた(笑)」
これは典型的な酔っ払いの反応である。酒のせいにして反省しない。「皆に迷惑かかると悪いから」ことを問題とする発想も、罪ではなく恥の意識しかない醜い日本の中高年男性的である。
このような酔っ払いに絡まれたダルビッシュ選手こそ災難である。現実空間ならば酒飲みとは付き合わない、酒場に近付かないなどの回避策がある。しかし、ネットでは避けようがない。ダルビッシュ選手の切り返しは上手であったが、相手が酔っ払いであると分かれば真面目に切り返すこと自体が馬鹿らしく思えてくる。

「2ちゃんねる」で軽装富士登山オフ

インターネット掲示板「2ちゃんねる」で2010年7月22日に軽装で富士登山オフの呼びかけがなされた。「2ちゃんねる」は様々なテーマに分かれた掲示板(板)の集合体で、オフ会の呼びかけを行うための板もある。
軽装富士登山オフのスレッドでは「上着はTシャツ、荷物はコンビニ袋一つまで、おやつは三百円までです」と記している。富士山では山開き直後の7月2日にスニーカー、Tシャツなどの普段着で登山したパチンコ店員の男性が救助されたばかりである。これは衝動的かつ無計画な登山としてマスメディアでは強く批判された。
登山には念入りな準備が必要である。無計画な登山は自殺行為である。救助には莫大な労力と費用を要し、多数に迷惑を及ぼす。埼玉県の防災ヘリコプターが7月25日に墜落した事件に見られるように、救助作業は作業者にとっても危険と隣り合わせである。
当該スレッドでも、立てられた当初は「公序良俗に反する」と批判された。そのまま注目されずに数日が経過したが、7月31日から参加希望の書き込みが寄せられ、どこまで本気か分からないところがある。
軽装富士登山オフは「2ちゃんねる」的なネタとしては楽しめる内容である。パチンコ店員の遭難についてのスレッドでも大半が店員の衝動的な登山を嘲笑していたが、一部には異なる視点を提示する書き込みがなされた。以下のような書き込みである。
「数年後、長袖のカッターシャツにジーパン、スニーカーの軽装でチョモランマを制覇した日本人が世界から称賛される事となる訳だが…」
登山に対する新しいスタイルを持ち込んだのかも?
『もっと気楽に富士登山』
『どこ行くの?ちょっとそこ(チョモランマ)まで』
5年後本屋に彼の自伝が出ているかも」
マスメディアが垂れ流す画一的な論調とは異なる発想に出会えることが「2ちゃんねる」の醍醐味である。軽装富士登山オフもネタとして楽しむことが正解だろう。

林田力『東急不動産だまし売り裁判』PJニュース、オーマイニュース

市民メディアにコメント欄は不必要

市民メディアにとってコメント欄は躓きの石になる。コメント欄の荒れはJANJANでもオーマイニュースでもツカサネット新聞でも問題となった。かつてオーマイニュースに寄せられた以下のコメントが象徴する。
「オーマイニュースは、右翼的な人や嫌韓的な人々が声高に叫んで感情を煽り、他人の記事・コメントにヒステリックにケチをつける」
コメント欄の管理が編集部の負担になり、コメント欄があるために記事投稿しないと明言する市民記者も出るなどコメント欄が市民メディアの妨げとなる事態も発生した。一方で双方向性が市民メディアのメリットであるとして、自由なコメント欄を擁護する反論もある。休刊したJANJANの代替サイトとして登場したJanJanBlogでもコメント欄の設置の是非が話題になった。
本記事では3つの観点から市民メディアにとってコメント欄が必須ではないことを明らかにする。
第1に市民メディアの本質論との関係である。コメント欄による双方向性は市民メディアの本質的な特徴ではない。市民メディアの意義は情報の受け手に徹していた市民が発信者の立場になったことである。多くの市民メディアではコメント欄を設けていたが、付随的なものに過ぎない。
市民メディアが社会的に可能になった背景にはインターネットの発達・普及による情報発信・伝播コストの低下がある。一方、情報の受け手が送り手にダイレクトにレスポンスを返せるようになったことも、やはりインターネットの発達・普及が背景にある。
故に市民メディアと双方向性は混同されがちであるが、これらは別個のものである。コメント欄の存在しない市民メディアも十分に成り立つ。反対にマスメディアが自社サイトで自社記事にコメント欄を付すことも可能である。
コメント欄の設置有無はウェブサイトのポリシーであって、市民メディアであるか否かとは関係ない。コメント欄をどうするかは「市民メディアは、かくあるべし」というような形で演繹されるものではなく、その種の主張は議論を混乱させるだけである。
第2に反論権との関係である。反論権を保障するためにコメント欄が必要とする見解があるが、反論権は反論記事掲載で担保できる。市民メディアは市民が記者として記事を発信できる媒体であり、記事掲載の敷居が低い。ある記事が掲載されたとして、当該記事に不満を持つ人が反論記事を掲載することも可能である。反論権の保障という観点では理想的な媒体である。
これに対し、編集部の記事採否の恣意性を主張して自由なコメント欄の必要性を説く見解が問題になる。しかし、仮に編集部が偏向していて信用できないならば自由なコメント欄設置を期待することは筋違いである。そこまで決定的に対立しているならば、媒体内で反論権を担保すべきというような議論自体が成り立たない。
市民メディアは多様な意見を掲載するプラットフォームであるべきであり、記事採否に思想的な偏向があることは好ましくない。記事掲載の敷居を低くし、特定記事への反論記事も広く掲載すべきである。これはコメント欄がなくても実現できることであり、コメント欄の必要性は導き出せない。
具体的な記事に対する批判コメントは書けるが、独立した記事までは書けないという人がいるかもしれない。しかし、そのような意見を記事掲載サイトで拾わなければならない必然性は存在しない。記事あってのコメントであり、記事が主でコメントが従である。
第3にページビューとの関係である。通常、記事は一回読めば十分である。一方、コメント欄で活発に議論が展開されればコメントを読むために何度も記事をリロードする。このため、コメント欄はページビュー増加に大いに貢献する。
しかし、ページビューは一つの指標であって、サイト運営の目標ではない。記事掲載サイトならばコメント欄の白熱した議論ではなく、記事で勝負したいという思いがある筈である。そもそも議論ならば掲示板サイトには及ばない。
また、反論がある場合はコメントではなく、反論記事を投稿してもらった方がサイトにとってはメイン・コンテンツを増加させることになる。結論として、自由なコメント欄が記事掲載サイトに有益とは一概に判断できない。
以上のとおり、コメント欄設置は市民メディアにとって必須ではない。あくまで記事が主で、コメントは従である。コメントで自由な議論がなされることの意義を否定するつもりはないが、コメント欄の強制は筋違いである。コメント欄が必須なものではないことを明らかにするだけでも、コメント欄が負担になっている人の気持ちを楽にできるのではないかと考える。

市民メディアはコメント欄否定の先にある

市民メディア・PJニュースは2010年7月に記事提供先のライブドアニュースのコメント欄を過去掲載分も含めて廃止した。PJニュース本体のサイトにはコメント欄がないため、これで記事に対してコメントを投稿できなくなったことになる。
コメント欄廃止に対して8月に入り、市民記者(パブリック・ジャーナリスト)から賛否のオピニオン記事が寄せられた。
賛成意見「自分の経験をいえば、コメント欄を埋める書き込みの大半は批判や意見の類などではなかった。よくいえば「感情的な反対意見」、平たくいえば「誹謗中傷」そのものだった。」(平藤清刀「コメント欄は読者が鬱憤を晴らす場でしかなかった」PJニュース2010年8月4日)
反対意見「ジャーナリズムではなく、アカデミズムだと思って、答案を提出して、採点を受けていく。そこにこそ、PJ記事を書く意味があるのではないだろうか。」(星野隆夫「2ちゃんねるは書き手よりも、読み手の能力に驚嘆する」PJニュース2010年8月6日)
コメント欄の荒れについては以前から課題とされていたものである。私も5月の時点で市民記者としてコメント欄不要の立場からオピニオン記事を発表した(林田力「市民メディアにコメント欄は不必要」PJニュース2010年5月14日)。
これは市民メディアにとっても共通の課題であった。オーマイニュースでは市民記者登録せずにコメント投稿だけ可能なオピニオン会員を廃止し、コメント投稿者のハードルを上げた。それでもコメント投稿しかしない市民記者(コメ専記者)が現れるなど問題は残り、オーマイライフへのリニューアル時にコメント欄を廃止した。
また、JANJAN及び代替のJanJanBlogでは記者が記事投稿時にコメント欄設置を選択できるようにした。これはコメント欄の設置を望む記者と嫌う記者の両者を満足できる点で優れた解決策である。しかし、コメント欄の荒れでサイトの品位が損なわれ、広告掲載など運営面にも影響が生じるという問題には無力である。これを踏まえればデフォルトを不設置とした点は賢明である。
このようにコメント欄否定が市民メディアの共通の流れである。PJニュースのコメント欄廃止も、この流れの延長線上にあるが、記事提供先のライブドアニュースのコメント欄を廃止したところが徹底している。
ライブドアニュースのコメント欄は荒らしや炎上にも十分考慮されたものであった。投稿にはライブドアのアカウントが必要である。投稿されたコメントは記事本文のページには表示されず、表示するためにはワンクリックしなければならない。これによって低レベルのコメントが殺到しても、記事やサイトの質を損なわない。市民記者本人にとっても記事本文とコメント欄が別になるため、悪意あるコメントによって自分の記事が汚されるというコメント欄への拒否感は低減する。
しかも、記事一覧にコメント数が表示されるため、議論になっている記事を読みたいというユーザーの要望も満たす。コメント数が多い記事は注目記事として目立つ場所に表示されるため、悪意あるユーザーのコメントでも自分の記事を宣伝してくれることになる。
このように配慮されたコメント欄でも市民メディアの理念に照らせば廃止することに意義はある。コメント欄廃止議論が激烈になる理由は、コメント欄存続論者の主張にも三分以上の理があるためである。情報の送り手と受け手が分断されたマスコミュニケーション状況において、ダイレクトにコメントを投稿できるという双方向性の意義は非常に大きい。しかし、その双方向性とは圧倒的な存在感のある記事に対する有象無象のコメントに過ぎず、送り手と受け手は依然として非対称なままである。
これに対して市民メディアは受け手の立場を押し付けられた市民を送り手に引き上げる試みである。コメント欄レベルの双方向性で甘んじていたならば、市民メディアの理念は達成できない。コメント欄での無責任な言論で悦に入るのではなく、主張があるならば記事を書く。それが市民記者に求められることである。

オーマイニュース炎上史

市民記者の勘違い

市民メディア・PJニュースは2010年7月に記事提供先のライブドアニュースのコメント欄を廃止した。これを受けてPJニュース上では賛否両論の記事が掲載された。
オーマイニュース、ツカサネット新聞、JANJANの活動停止に見られるように市民メディアの基盤は磐石ではない。それ故に市民記者が市民メディアの在り方に関心を持つことは重要なことである。私自身もコメント欄について管見を表明した。

林田力「市民メディアにコメント欄は不必要」PJニュース2010年5月14日
林田力「市民メディアはコメント欄否定の先にある」PJニュース2010年8月10日

一方でステークホルダーによる市民メディア論には彼ら自身を不幸にする落とし穴もある。本記事ではオーマイニュースの失敗事例を紹介する。私はオーマイニュース及びリニューアルしたオーマイライフで多くの記事を書いてきた。その歴史と最終的な閉鎖は市民参加型メディアにおける市民記者の参加とは何かを考えさせられるものである。
多くの論者は閉鎖に至った要因としてネットユーザーの声を無視したオーマイニュース編集部の問題を挙げる。これに対して私は市民記者側にも編集者や経営者の立場を尊重しなかったという反省点があると考える。
少なからぬ市民記者が編集部の対応に不満を有していたことは事実である。しかし、私は東急リバブル・東急不動産という顧客無視の企業による最低な対応を経験しているために甘くなっているのかもしれないが、編集部の体質が酷評されるほどのものとは感じなかった。
実際、他の市民メディアと比較すると、オーマイニュースほど市民記者の声に耳を傾ける姿勢を有していたメディアは存在しなかった。オーマイニュースでは市民記者から選ぶ市民記者編集委員やSNS機能内での編集部ホットラインなど他の市民メディアには類例のないユニークな制度を設けていた。
それにもかかわらず、市民記者側には編集部が市民記者の声を無視しているとの不満が渦巻いていた。ここに大きな不幸がある。市民メディアが市民記者に期待することは、記者として記事を執筆することである。ところがオーマイニュースでは、なまじっか市民記者の声に耳を傾ける姿勢をとったばかりに編集者や経営者の視点で編集部に物申す記者が現れた。市民編集者や市民経営者を求めていない編集部は、編集者または経営者感覚での提言や主張に応える義務も必然性も感じていない。それが市民記者側の不満を増大させるという悪循環を繰り返した。
オーマイニュースは2008年9月にオーマイライフに大幅リニューアルした。このリニューアルに際して、SNS機能や記事へのコメント欄、ソーシャルブックマークのリンクボタンが廃止された。Web 2.0の特徴である双方向的な要素を切り捨てることで、市民参加型メディアと銘打ちながらも、オーマイライフは市民記者に期待する参加を記事の投稿のみと徹底した。これによって編集部が望まない内容の「参加」によって市民記者側が不満を募らせる悪循環を絶とうとしたものと推測する。
オーマイニュースは韓国発の媒体ということでルサンチマンの鬱積したネット右翼の悪意に晒された。一方で編集部に意見した市民記者の少なからずはオーマイニュースを良くしたいという善意が出発点であった。しかし、その言動が結果として市民メディアを良くする方向とは反対の方向に働いたことは悲劇である。
市民記者にとって市民メディアの閉鎖は記事発表の場が一つ消滅することを意味する。それ故に記者は市民メディアの不満をあげつらうのではなく、市民メディアを育てる方向にエネルギーを注ぎたい。市民メディアは市民記者の記事が主役であるが、市民記者だけでは成り立たない。編集者や経営者の立場をリスペクトすることが市民記者に求められる。

オピニオン会員廃止

オーマイニュース編集部がネットユーザーの声に耳を傾けないとラベリングされた契機は2006年のオピニオン会員廃止騒動である。この騒動もステークホルダーにとって不幸な出来事であった。ここではコンサルティングが適切になされたのか疑問が生じる。
オピニオン会員とは市民記者登録をせずにコメントだけを投稿できるユーザーである。当時のオーマイニュースでは匿名性の高いオピニオン会員の無責任なコメントで、市民記者が萎縮し、記事投稿を敬遠するという課題を抱えていた。そのためにオーマイニュース編集部はオピニオン会員の廃止を決定した。
ところが、佐々木俊尚氏が外部のメディアで記事「平野日出木さん、本当にそれでいいんですか?」を発表したために騒動が広がった。佐々木氏はオーマイニュースが対価を払って助言を求めたコンサルタントであったが、当該記事でオピニオン会員廃止の内幕を明らかにし、編集部の決定を批判した。これに対し、後日、市民記者のインタビューに応じた平野日出木編集長(当時)は「プロとしての職業倫理」を持ち出して反論した。
この平野編集長の反論はコンサルタントの守秘義務違反という形で解釈された。コンサルタントがコンサルティングの過程で得た情報を基にジャーナリストとして記事を発表することは不当である、という発想である。確かに、この解釈は誤りではない。しかし私は、それが全てではないと考える。
守秘義務違反は重大な問題であるが、コンサルタントへの反論としては不十分である。コンサルタントは守秘義務違反を犯したとしても、オーマイニュース編集部の姿勢を具体的に批判した。守秘義務違反を突くだけでは批判に正面から答えず、逃げたと受け止められてしまう可能性がある。
実際、多くのユーザーの関心はオピニオン会員廃止の経緯であって、コンサルティング契約の債務不履行ではない。平野編集長の反論を守秘義務違反としか解釈しなければ「守秘義務違反は分かったから、。コンサルタントの批判内容についてはどうなのか」という疑問が残ってしまう。世の中には内部告発のように守秘義務よりも優先されるものもある。
コンサルタントは特定の業務について指導・助言をする専門家である。クライアントは何らかの課題を解決するためにコンサルタントに助言を求める。コンサルタントの使命は顧客の問題の解決につながる有益な助言を提供することである。
オーマイニュースの問題は「匿名性の高いオピニオン会員の無責任なコメントにより、市民記者が記事投稿を萎縮する」ことであった。この問題を理解することがコンサルタントの最初の仕事になる。顧客の問題を正確に理解しなければ、適切な解決法を提示することはできないからである。
これが本件のコンサルティングで行われていたかが疑問である。インターネット空間では無責任な言説が溢れていることは驚くことではない。従って罵詈雑言を浴びたぐらいで萎縮する方がネット・リテラシーに欠けるという見解は一つの見識である。しかし、市民記者が無責任なコメントで萎縮していたことは事実であり、この問題に対する解決にはならない。
無責任なノイズに耐えられないならば市民記者になる資格はないと切り捨てることは一つの考えである。しかし、それは「多くの市民記者に記事を投稿して欲しい」というオーマイニュースの姿勢に反する。そもそもオピニオン会員のために市民記者を切り捨てるという結論は市民記者の投稿記事によって成り立つ市民メディアにとって本末転倒である。
コンサルティング業務はコンサルタントの理想を実現するための実験場ではない。顧客あってのコンサルティングであり、顧客の課題を解決することがゴールである。匿名性の高いコメントも取り込むことがCGM (Consumer Generated Media)のあるべき姿かもしれない。しかし、それはオーマイニュースの課題ではなかった。従ってオーマイニュースがコンサルタントの考えるCGMの理想像に逆行する判断を下したからといって、それを批判することは筋違いである。
平野編集長が持ち出した「プロとしての職業倫理」には、上記の内容が込められていると解釈する。クライアントの課題を無視し、自己の理想を押し付けることはコンサルタントの職業倫理に反すると主張したかったのではないか。
私はマンションの売買契約をめぐって東急不動産と裁判闘争をした経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。最初に私が苦労した問題は、マンションだまし売りを理解してくれる弁護士を見つけることであった。人の話を聞かずに本質から外れた解決策を押し付けようとする弁護士もいた。だから上述のようなコンサルタントへの不満には大いに共感できる。
本件コンサルティングはコンサルタントがクライアントのベクトルを理解しなかったことによる失敗例である。コンサルタントは豊富な専門知識があるためにコンサルティングを委嘱されるが、知識の優位性故に独善に陥る危険がある。顧客第一主義を磨きたいプロフェッショナルにとって、この失敗事例は有効な戒めになる。

光市母子殺害事件

コメント欄の炎上が繰り返されたオーマイニュースの中でも、大きな話題となった記事は昿野洋一記者の「元少年と同じようなことをした私の体験」である。この記事は光市母子殺害事件に関するものであった。
自身の少年時代の体験談から、光市母子殺害事件も元少年が性欲に支配されて理性的に行動できなくなった結果ではないかと指摘する。そして「日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる」として、「国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか」と主張する。
非常に衝撃的な内容である。記事には性犯罪被害者の痛みも被害者・遺族に対する同情・共感の姿勢は皆無である。性のはけ口という視点しかなく、女性の尊厳を踏みにじるものと言ってよい。よって本記事に対し、批判コメントが殺到したことは当然であった。市民記者の健全性を示すものと評価できる。批判コメントが多数寄せられることで、媒体としてのバランスが保たれたとの考えも成り立つ。
一方で当時のコメント欄には集団ヒステリーにも近い状態が感じられた。まるで「社会の敵を批判しないものは全て敵だ」と言わんばかりの状況であった。清潔観念、潔癖症的な意向を持つこと自体を問題視するつもりはない。しかし、それを他人に押し付ける、そぐわないものを批判ではなくて否定・抹殺しようとするのは全体主義的であり、恐ろしいことである。
しかも、その清潔観念・潔癖症的な意向というものが自己の中にある信念から出ているとは言い難い点が大きな問題である。当該記事が掲載されることによる世間の反発を恐れている点には、常に他人の目を気にする特殊日本的な集団主義が存在する。
これはRuth BenedictのThe Chrysanthemum and the Sword; patterns of Japanese Cultureが当てはまる。本書において著者は欧米を罪の文化、日本を恥の文化と位置付けた。罪の文化が善悪の絶対の基準を内面に持つのに対し、恥の文化は内面に確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動が律されているとする。
当該記事の批判者は批判コメントを投稿した動機として犯罪を憎む気持ち、生命を重んじる心があると主張する。犯罪を憎む気持ちや生命を重んじる心があることは結構である。しかし、その犯罪を憎む気持ち、生命を重んじる心が自己の内面の価値観として存在しているものなのか、疑問なしとしない。
むしろ、多くの人が持っている気持ちだから、ということで、それらの気持ちに基づき批判しているだけでないのか、と感じられる批判コメントが散見された。恥の文化とは内面の価値観を捻じ曲げてまで同調したものでは必ずしもない。世間の価値観が内面の価値観そのものになっているような状態であり、それ故に無自覚的であり、恐ろしい。
本記事のコメント欄では編集部の記事採否の恣意性も批判された。当時、編集部は「死刑の是非を考える」というテーマを組み、光市事件についての記事を募集していた。テーマのタイトルから推測できるように編集部には死刑を不当とする価値判断があるのではないかと指摘された。そして光市事件判決について死刑を当然とする記事を低く評価し、そうでない記事を高く評価しているのではないか、との疑念が提示された。
これに対し、編集部は「できる限り多くの記事を掲載する」方針であると明言している。投稿記事と編集部の採否結果を確認していないために、実際の編集部に上記傾向があるかについて管見を申し上げることはできない。
仮に実際に光市事件判決に否定的な記事を高く評価するという傾向があったとしても、「恥の文化」の観点から説明することは可能である。光市事件判決に肯定的な記事は自己の内面からの声というよりも世間の価値基準に同調したという要素が強く、「どこかで見た意見」であって、独自の思考の跡が感じられにくいとして低く評価された可能性がある。
炎上コメント中で特に気になった点は記事の削除を求めるコメントが目に付いたことである。これに対し、平野編集長は掲載理由を回答したコメント中で本記事を「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれないと読者に内省を促す、"グレー体験者"ならではのオリジナリティのある体験談」と位置付ける。その上で「光市事件判決直後、さまざまな投稿が寄せられるなかで、事件を他人事として論評するだけではなく、自分の問題として考え、議論する一助になると判断」したとする。
コメント欄に寄せられた市民記者の反応は記事を否定するものばかりであった。それ故に「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれない」と「自分の問題として考え、議論する」ことになったとは言い難い。この点では編集長の意図は通じなかった。
一方で読者が本記事から「自分は元少年や昿野記者とは違う、元少年や昿野記者は向こう側の存在だ」と結論付けたならば、自己の正常性や元少年や昿野記者の異質性を認識したことになる。自分の問題として考えようとした上で、自分ならば絶対にやらないと結論付けたことになり、その限りで本記事は「自分の問題として考え、議論する一助」になった。この意味では意図した方向とは異なるとしても掲載の狙いは達成できたことになる。
光市母子殺害事件が話題になった理由は犯罪の異常性・残酷性だけではない。刑事訴訟手続きについても大きな問題を投げかけた。犯罪被害者・遺族の権利が蔑ろにされているのではないか、被告人の罪を軽くするためならば如何なる弁護活動も許されるのかという点が議論された。
本記事は、それらの問題について全く触れていない。記事中で昿野記者は判決言渡し日の広島高裁に大勢の人がいるのを見て、事件について「新聞やインターネットで調べた」と書いている。ここから昿野記者は光市事件について、それほど詳しくないのではないか推測できる。被害者の遺族である本村洋氏の苦闘について知らずに記事を書いた可能性もある。この点も私が本記事、さらには記者のスタンスに共感できない理由の一つである。
私は硬直的な司法制度と戦い続けた本村洋氏を尊敬する。私自身、民事訴訟であるが、マンションの売買契約をめぐって東急不動産と裁判闘争をした経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。
引渡しが終わった不動産取引では契約の白紙撤回が認められることは難しいと指摘されたが、泣き寝入りしなかった。消費者契約法に基づく契約取消しを貫き通し、売買代金の全額返還を勝ち取ることができた。新たな先例に踏み出させることの大変さを実感しているため、本村氏の活動には感服する。
そのような視点の欠片もない本記事は私の関心を満たすものではない。しかし、これは記事のスコープの問題である。私にとって興味深い記事ではないということを意味するにとどまり、本記事が掲載する意義を有するかという点は別問題である。
本記事に意義があるとすれば、特異な犯罪を行った者の心理を明らかにする手がかりを提供する点にある。いかなる動機で犯罪が行われたのかを知ろうとすることには意義がある。少なくとも誰かが、そのような関心を抱くことを他人に否定する資格はない。
刑事事件としての光市事件では死刑という量刑が妥当であるかという点が最大の論点であった。犯罪結果の重大性に対する応報として刑罰を考えるならば具体的な動機が何であれ、死刑という結果に影響を及ぼすものではないという主張はもっともである。
しかし、本記事は量刑の妥当性を問題視しておらず、そのような視点から本記事を批判することにはあまり意味がない。但し本記事は「死刑の是非を考える」という特集からリンクされており、その限りで上述の批判は妥当する。
私自身を含む多くの人にとって光市事件の関心事は量刑や、被害者遺族の人権、弁護活動の妥当性であった。従って、それらに触れていない本記事は多くの人の関心を満たすものではない。元少年が意図して殺害したか否かが問題であって、どのような心理状態でいたのかという点に関心を持つ人は少数と思われる。しかし、だからといって本記事に掲載する意義が存在しないことにはならない。
内容的にも人間の行動を性欲面から説明しようとする記者の試みは格別並外れたものではない。ジークムント・フロイトは人間が無意識の世界にある性の衝動(リビドー)に支配されていると主張した。本記事には批判できる点が多々あるものの、記事を掲載すべきか削除すべきかの判断は別である。
市民記者が本記事を削除すべきとコメントする最大の理由は、本記事が掲載されることで媒体(オーマイニュース)への評価が損なわれるのではないか、という点にあると思われる。変な記事が掲載されることで、媒体自体が問題記事と同様のスタンスをとっていると受け止められる懸念である。その結果、同じ媒体に掲載された他の記事についても色眼鏡で見られ、市民記者の自尊心をも貶めるのではないかとの問題意識である。
市民メディアは多数の市民記者によって成り立つ媒体である。既存メディアの従業員記者と比べるならば、市民記者間の目的意識も価値観もバラバラであることを想定している。
特にオーマイニュースは「○○も、××も、みんなで作るニュースサイト」を標榜している。○○や××には「老い」「若き」、「喫煙者」「嫌煙家」、「頭脳派」「肉体派」など対照的な言葉が入る。市民メディアの中でも市民記者間の価値観の多様性を尊重し、多様な価値観に基づいた記事を掲載するプラットフォームであることを意識している。
故に市民メディアに、ある市民記者にとって「とても受け入れがたい」と思われる変な記事が掲載されることは市民記者にとって想定の範囲内の出来事の筈である。優れた記事があれば、変な記事もある。玉石混交が市民メディアの醍醐味である。
だから変な記事が掲載されたとしても、憤慨することも掲載した編集部を責めることも妥当ではない。「記事の見解が怪しからん」からといって、「削除しろ」「このような記事を掲載した編集部は謝罪しろ」と要求することは筋違いである。
市民メディアという存在自体が社会的に認知されているとは言い難い状況では、変な記事が掲載されることで媒体自体の評価が貶められてしまう可能性は否定できない。それに対しては、玉石混交の記事を発表するプラットフォームとしての市民メディアの意義を認知させていくことが正しい対応法である。社会多数派に迎合する記事のみを掲載することが市民メディア編集部の見識ではない。それを市民記者が求めることは市民メディアの自殺行為である。

映画『靖国 YASUKUNI』

市民メディアにおけるコメント欄の誤った方向性が典型的に現れた記事が塩川慶子記者の「「反靖国」というより、むしろ……」であった。本記事のコメント欄の展開は他の市民記者の記事にコメントを寄せる立場として考えさせるものであった。
本記事は表現の自由との関係で話題になった映画『靖国 YASUKUNI』のレビューである。『靖国』は「反日的」として抗議を受けており、右翼団体などの暴力的な妨害活動を恐れて上映中止を決定した映画館も出た作品である(林田力「『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害(上)」PJニュース2010年6月21日)。
ちなみに上述の「反日的」とは反日的と主張する側の感覚に合わせて使用したもので、管見を反映したものではない。私自身は、日本の軍国主義や侵略戦争を批判し、戦争犯罪を明らかにすることが反日とは考えていない。軍国主義や侵略戦争はアジア人民のみならず、日本の民衆をも犠牲にするものと考えるためである。そのために括弧つきで「反日的」と表現した。
塩川記者は映画を観た感想として「とても反靖国の映画とは思えませんでした」と述べる。そして「素材を提供するから、これをたたき台として、よく考えてください」という種類の映画だと指摘した。
一般に右翼団体が抗議した映画となると、それだけで「反日的」な内容であると思い込んでしまいがちである。その意味で塩川記者の感想はユニークである。思い込み、先入観で判断してしまうことの危険を気付かせてくれる。
本記事のコメント欄が過熱した。話題になった映画のレビューであり、主張もユニークなため、多くのコメントが寄せられること自体は予想できる。しかし、問題はコメント欄が『靖国』の制作過程の問題に終始する傾向がある点である。
『靖国』批判者は、出演者の刀匠・刈谷直治氏が出演部分の削除を求めているとの報道などを根拠として映画の制作過程に問題があったと指摘する。私としても指摘されている制作過程の問題が『靖国』を語る上で一つの論点になることは否定しない。しかし、この問題が本記事のコメント欄で長々と議論されることに違和感を覚える。
「8割程度は靖国肯定視線でした」とまで書く塩川記者の感想に対しては、異なる受け止め方をする人も少なくない筈である。実際、稲田朋美・衆議院議員は国会議員向け試写会後に「靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と語っていた(「国会議員横ヤリの「靖国」試写会に80人」asahi.com 2008年3月12日)。塩川記者の主張は論争を呼ぶべき内容であるが、コメント欄が記者の問題意識に対応した議論の場となっていないことは残念であった。
コメント欄は、あくまでも記事に付属したものである。特定のテーマについて自由に討論する掲示板とは異なる。本記事の主題は『靖国』の内容が一般に考えられているような靖国神社を弾劾するものではなかったという点にある。『靖国』の制作過程を論評したものではない。その記事に対して制作過程の問題をコメントすること自体が的外れな脱線である。
勿論、中には制作過程の問題が『靖国』を語る上で避けては通れない問題であると考える人もいるだろう。コメント欄による活発な議論を求める立場からは、コメントに書くべき内容を規制することは好ましくない。記事の主題とは離れることを認識した上で、それでも『靖国』の製作過程についてコメントで問題提起すること自体は結構なことである。
しかし記事の主題そっちのけでの論争はコメント欄のあるべき姿から離れている。コメント欄は記事読者の意見交換の場であって、記事の主題とは無関係に映画について思うところを放言する場ではない。
当該記事のコメント欄が過熱した背景は執筆者の塩川記者も論争に参加したためである。記事の主題から離れたものでも相手の問題提起に正面から回答することが塩川記者の誠実さであり、善良さである。しかし、自身の主張する主題を大切にすることも必要であった。コメント欄の展開のために主張されたかったことが曖昧になってしまった。
本記事は映画『靖国』を観て、感想を書いたものである。その感想は靖国神社を否定するものではなかったというものであった。『靖国』の制作過程に問題があったか否かは、上述の感想を書く上で全く関係ないことである。
制作過程に問題があったとしても靖国神社を肯定する内容になることがある。逆に制作過程に問題がなかったとしても靖国神社に否定的な内容になることもある。仮に靖国神社の施設管理権を侵害して撮影したという事実があるならば、そこから制作陣は靖国神社を尊重していないとの推測が成り立つが、映画の内容自体が靖国神社を肯定していたかという判断は別問題である。
つまり、あえて誤解を恐れずに表現すれば、制作過程の問題は記事執筆者にとっては、どうでもいい問題である。記者にとっては真剣に答える必要がない問題であり、まともな回答が出なくて当然である。
コメントを寄せる人にとっては是非ともコメントせずにはいられないという問題意識があるとしても、記者にとっては主題とは関係なく、そのようなコメントされても的外れという問題である。本記事のコメント欄では、その食い違いが、食い違いがあることを明確に認識されないまま展開された点が悲劇であった。
記事に対してコメントするからには、記者の言わんとしていることを理解した上で行いたい。同意と理解は別である。記者の主張に同意する必要はないが、読者ならば理解しようと努める必要はある。対象のテーマについて一家言あるからコメントを寄せる場合が多いとはいえ、記者の主張を理解しないで批判コメントを書くならば、ためにする批判に過ぎない。
本来、記事の主題から脱線したコメントを書くことは、自らの理解力や読解力のなさを曝け出すことを意味し、とても恥ずかしいことである。このような現象に接すると現代文の受験勉強は社会人にとって有益なものと実感する。記者が何を主張しているのかを把握しようと努めることが読者として最低限のマナーである。記事を書いているのも生身の人間であり、個性ある個人として相手をリスペクトする姿勢は忘れないようにしたい。

オーマイライフの成否

市民メディア・オーマイニュースは2008年9月1日に、より生活に密着した情報を発信するオーマイライフ(Oh! MyLife)に大幅リニューアルした。
元々、オーマイニュースは先行するJANJANと比較すると個人的な記事を積極的に掲載してきた。また、ソフトバンクが出資したということで当初からビジネス色も強かった。それ故にオーマイライフへのリニューアルは方向性としては、それほど意外ではない。
オーマイライフはリニューアルから約半年後に廃刊となり、結果論では失敗と結論付けられる。しかし、成功の可能性がなかった訳ではない。成功をもたらす鍵は記事が記事を呼ぶ好循環であった。
オーマイニュースでは、市民記者から運営方法に対する注文が多かった。そして編集部が市民記者の要望に応じないと批判された。まるで市民記者の自治により運営することが求められているかのようであった。市民メディアは市民が記者となって記事を発信できる媒体であるが、それは市民記者の自治によって運営する媒体であることに直結しない。この点の自覚が薄いために市民記者に不満とストレスが残る結果となってしまった。
市民メディアが市民記者の自治サイトではないという事実は、市民記者が媒体に対して完全に無力であることも意味しない。市民記者が市民記者たりうるのは記事を書くからである。これまで掲載されていなかった類の記事が掲載される。これが市民メディアに対する市民記者の力である。
もちろん、全ての記事が掲載されるわけではない。地道な積み重ねが市民メディアを形成していく。記事を書き続けることによって、他の記者も参考にする一つのスタイルが形成される。編集部にストレートな提言を出し、受け入れられなかったから絶望するということは少し急ぎすぎているように感じられる。
私はオーマイニュースでマンガのレビューを書いてきた。書評記事があるならばマンガのレビューもあってよいという発想からであった。加えて、マスメディアの報道をニュースと捉える傾向への違和感もあった。身近な見聞を出発点とする市民メディアの意義を文字通りに解釈したためである。
その後、渡辺亮記者が『リングにかけろ2』のレビュー記事を発表するなど、他の記者もマンガレビューを書くようになった。渡辺記者によるとマンガをレビューした拙記事を読まれた渡辺記者が「自分でも書いてみよう」と思われたことが執筆の動機という。読者が記者になる市民メディアならではの展開である。
オーマイライフでは消費者の商品・サービス体験レポートがメインになる。私はオーマイニュースの頃から自分が購入した商品の報告記事を書いていた。そのためにオーマイライフの試験的記事と誤解されることもあった。
しかし、拙記事からオーマイライフ的な記事を選択するならば、純粋な商品紹介記事よりもポイントサービスについて述べた「イトーヨーカドーの商売上手」を挙げたい。これはサービスそのものの説明よりもサービスを体験して発見したことを前面に出している。コメント欄では「自分は○○している」と自分に置き換えたコメントが寄せられた。
商品・サービスの体験談で終始するのではなく、体験による気付きを含める。それが共感や異論を呼び、新たなコメントや記事が生まれ、サイトが盛り上がる。このような好循環がオーマイライフに必要であった。
オーマイライフでは誰もが関心を持ち、何気なく読んでしまう所謂「ニュース」では勝負しないという、あえて厳しい選択を行った。読者である他の市民記者の心を動かすような記事が集まるか。これがオーマイライフの成功要因の一つであった。
残念ながらリニューアル発表時点で多くの市民記者がリニューアルに失望し、去っていった。それはオーマイライフに投稿する市民記者数の激減が示している。リニューアルの時点で記事が記事を呼ぶ好循環を起こすだけの力を失っていた。

オーマイライフの意義

社会経済的には失敗と評されるオーマイライフであるが、市民の自立には遠い後進的な日本社会における市民メディアの一つの方向性であったと評価する。
私が市民記者となった動機は自身が経験した東急リバブル・東急不動産によるマンションだまし売りを多くの人に知ってもらいたかったためである。私が記事に書いた内容は多くの人にとっても意義のあるものだと確信する。とはいえ、個人の経験が出発点になっていることは事実である。「身近な発見や驚き、感動こそがニュースである」というマスメディアとは異なるスタンスが編集部にあったからこそ、記事となった。
市民メディアの意義はマスコミュニケーション状況下で情報の受け手に徹していた市民が記事の発信者となったことにある。市民記者だからこそ書ける記事を掲載することが市民メディアの存在理由になる。その意味で消費者視点の体験報告を中心としたオーマイライフへのリニューアルは市民メディアの方向に沿ったものと評価することも可能である。
ジャーナリズムの公共性や社会性を重視する立場からは、リニューアルは後退に映る。多くの市民記者にとってオーマイニュースはニュースサイトであり、看板からニュースの文字が削除されることは衝撃であった。しかし、ニュースがなくなったとしても市民メディアとしての本質が失われることを意味しない。リニューアルを全否定するよりも、最後に残った市民メディア性を擁護する方が建設的である。
そこでは「人々の興味がマクロからミクロ、そしてパーソナル(my news)へとどんどんシフトしている」という編集部の現状認識が重要である。これは一時的な傾向というよりも、日本の社会的な特性と捉えるべきである。西洋文学を摂取した近代の文学青年は私小説という日本独自の文学形態を生み出した。私小説を小説の社会性を捨て、私という殻に閉じこもる内向きの傾向と批判する立場もある。
しかし、個性を抑圧する自我の未熟な日本社会においては、何よりも先ず「私」を掘り下げることが重要であった。偉大な文豪である夏目漱石でさえもイギリス留学により個人主義の洗礼を受けたものの、日本社会を舞台とした小説で自我のある個人を描いても必ずしも幸せにすることはできなかった。
『坊つちやん』の主人公の言動は痛快だが、最後は教師を失職し、社会的には敗者である。『こゝろ』では先生は自分のエゴに正直に行動したために、友人を自殺に追い込み、希望を実現できたにもかかわらず、罪悪感で鬱々と暮らすことになる。
権利の上に眠るものは保護されず、主張しなければ享受できない。これが近代市民社会である。しかし、『草枕』の冒頭に「意地を通せば窮屈だ」とあるとおり、個性を抑圧する日本社会では自己主張をすれば窮屈になってしまう。
そして絶筆となった『明暗』では「則天去私」の境地を描こうとしたとされる。これを自我にとらわれない一段上の境地と解釈する立場が主流である。そのように解釈するならば結局のところ、個人を否定する特殊日本的村社会との妥協とも読めてしまう。文豪でさえ、そのような状況であった。世代的に漱石よりも後になる作家達が救いがたい日本社会に正面から向き合うのではなく、「私」に特化する私小説を選択したことは首肯できる。
韓国で誕生したオーマイニュースも、日本で展開する以上、日本社会の問題意識に対応した変化は免れない。個性を抑圧し、自我の未熟な日本社会では、社会的なオピニオンは権威的な言説や無根拠でも民族的な自尊心をくすぐる主張に同調しやすい。消費者の実体験に裏打ちされた記事こそが、日本においては市民記者だから書ける記事になり得る。
実際、編集部は体験レポートに「体験を通じて自分は何を学んだのか。体験を通じて自分はどう変化したか」を求めた。編集部は単なる体験談以上の内省を市民記者に求める。他人とは異なる自分独自の体験からの成長を期待している。
これは集団主義的な日本において真の意味で自立した市民を育成する試みになった。日本社会を変革するには小さな一歩であるが、市民メディアの目指す理想に合致した一歩であった。

Web 2.0時代の告発者はインターネットの遊牧民を目指せ

Web 2.0 告発サイト インターネット
Web 2.0時代の告発サイトのあり方を考えてみたい。マスメディアのような情報発信力の乏しい個人にとって、ウェブサイトは告発の有力な手段である。
しかし、東芝クレーマー事件の頃のように告発サイト自体が珍しかった時代とは異なり、現在では個人によるウェブサイト開設が一般化し、告発サイトは星の数ほど存在する。従って、ウェブサイトで告発することが即、多くの人の注目を集めることになるとは言い難い。
しかも残念なことに日本では告発サイトには胡散臭いイメージを抱く向きもある。私自身は悪質な企業を告発することは正義の追求であり、告発サイトはアングラでも後ろめたいものでもないと考える。その意味で告発サイトにネガティブなイメージが付されている現状を肯定はしないが、告発サイトというだけで敬遠するユーザーも存在することは否めない。
現状は告発サイトの開設者にとって好環境とは言えないが、オープン性や外部性、分散性を特徴とするWeb
2.0の台頭は告発者にとって福音となる。告発者の目的は告発内容を広めることである。
インターネット黎明期では自己のウェブサイトを通じて情報を伝達することに重きが置かれた。覚えやすい独自ドメインを取得し、検索エンジンの検索結果の上位に表示されることがアクセスアップの「いろは」であった。しかし、ユーザーを自己のウェブサイトに誘導することは手段であって目的ではない。
そして告発情報はコメントやトラックバック、ソーシャルブックマーク、RSS配信のような形でも伝えることができる。ウェブやブログも一つにこだわる必要はない。様々なサービスを利用することにより、告発サイトの枠組みを越えて複合的に告発情報を伝えることができる。
より人為的な方法によって広めることもできる。これを効果的に利用したのは耐震強度偽装事件に際し、確認検査機関の指定を取り消されたイーホームズの社長であった藤田東吾氏である。藤田氏は「きっこの日記」上に耐震偽装事件に関する告発メッセージを掲載した。例えば2006年10月20日付の「安倍総理殿、国家に巣食う者を弾劾致します」である。
告発メッセージには「転載自由」「どんどん転載して下さい」との文言を付したため、多くのブロガーが自己のブログに転載した。これによって告発内容は瞬く間に広まった。ここではWeb 2.0の要素技術を利用していないが、紛れもなくWeb 2.0的な発想がある。藤田氏は自ら告発サイトを開設することなく、インターネット上で告発情報を広めることに成功した。
告発情報の分散化は告発対象の企業・団体への対抗策としても有効である。企業側としてはホスティングサービス提供企業に圧力をかけてサイトやブログを削除させようとする。また、検索エンジン運営企業に圧力かけて検索結果から表示されないようにする(グーグル八分)。
しかし告発情報が単一のサイトやブログにとどまらず、様々な形で溢れているならば、全てを削除しなければ企業の目的は達成できなくなる。いわば告発者はインターネットという広大な空間でゲリラ戦を展開することができる。
最初から完成度の高い告発サイトを立ち上げようとすると、検討するだけで一歩も進まず、準備段階でエネルギー使い果たしてしまう恐れがある。自分が作るサイトに思い入れを持つことは当然であるが、あくまで目的は告発である。作成した告発サイトに定住するのではなく、それをワン・オブ・ゼムとして多様な手段で積極的に情報発信する、インターネット上の遊牧民を目指すべきである。
本記事がインターネットで告発を試みられる方の参考に資するところがあれば幸甚である。