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林田力『東急不動産だまし売り裁判』映画レビュー

『A.I.』人工知能の愛

『A.I.』は2001年に公開されたSF映画である。A.I.(人工知能)の少年の愛を描く。ロボット社会に向けて考えなくてはならないテーマと思う。もし映画のような人工人間が誕生したらと想像する。自然・動物・人間・人工人間が、皆上手に共存できる社会が望ましい。
主演は天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントである。健気なうるうる目がかわいい。ハーレイはインタビューで以下のように答えている。「クモとか、普通の人が怖がるものが怖いよ。後、見知な物も怖い。何だか説明のつかない物とか、そういうの」。自分で普通の子と違うと見られてるとわかった上での発言だろう。

『フォレスト・ガンプ』感動作にも保守的な視点

『フォレスト・ガンプ【一期一会】』は切なくて悲しいストーリーの力作である。懐かしくて落ち着く映画だった。美しい自然の風景のせいかもしれない。後半、ガンプが走ってアメリカを横断した時の映像は感動的である。撮影監督のドン・バージェスは「あの夕焼けは本当にラッキーだった。地元の人でもあんなに美しい夕焼けは珍しいって言ってたくらいだからね。でも、あれを見たほとんどの人が素晴らしいCG合成ですねって言うのには参ったよ」と語っている。
アメリカの優れたところは自国の痛い記憶を平気でエンターテイメントにしてみせるところである。都合の悪い歴史を歪曲し美化する傾向のある日本とは大違いである。過去を見ずに流し、反省のない国が戦争に負けたことは当然である。
但し、共和党寄りの保守的な発想も目に付いた。ガンプは意図せずに成功していくが、ジェニーは悲惨過ぎて辛くなる。地主の息子であるガンプは古き良きアメリカ・保守層、貧民の娘のジェニーは伝統的価値観の崩壊・革新層を象徴するような悪意も感じられる。その対立を小市民的視点からアメリカ現代史に沿って描き、最終的には伝統的で善意に充ちた世界観に丸く収めるという筋書きは社会の矛盾に目を背けている。

『13 Days』悩める大統領

『13 Days』(13デイズ)はキューバ危機を描いたサスペンス映画である。ケネディ大統領を悩める人間として描いた点が新鮮である。悪く取れば優柔不断。弱腰にも見えるが、優れた政治家とは拙速に行動しないものである。決断力があるとか行動力があると評価される人間は最高指導者として必ずしも適格ではない。家族愛も強調されており、政治といっても土台は日常のささやかな幸福にあると感じた。

実写映画『あしたのジョー』に早くも続編待望論

2月11日に公開された実写映画『あしたのジョー』(曽利文彦監督)の評判が高い。映画の観客からは早くも続編の待望論が出ている。
『あしたのジョー』は高森朝雄(梶原一騎)作、ちばてつや画で『週刊少年マガジン』に連載していたボクシング漫画が原作である。人気漫画の実写化は当たり外れが大きい。特に往年の人気漫画の実写化ということで、原作に思い入れの深いファンの反発も予想されたものの、役作りのために過酷な減量までした矢吹丈役の山下智久や力石徹役の伊勢谷友介の努力が評価されている。再現されたドヤ街の雰囲気も迫力がある。
一方でボクサーとしての役作りは評価するものの、原作の持っていた悪のリアリズムまでは演じ切れていないとの声もあった。ジョーを筆頭に原作の登場人物はエゴイストでワルである。各々が身勝手な論理で動いている。それが物語のリアリティになっていた。
また、映画オリジナルの白木葉子(香里奈)の設定については賛否が分かれた。白木ジムのオーナーである葉子は原作では優等生的な令嬢であるが、映画では屈折したところがある。映画では葉子はドヤ街出身という秘められた過去があり、そのコンプレックスからドヤ街を潰して再開発を進めようとする。
ドヤ街で生活する人々は再開発によって立ち退きを迫られ、生活が破壊される。ここにおいて白木財閥とドヤ街の人々という大企業と庶民の対立軸が明確になる。この構図は現代の再開発や区画整理と同じである。貧困や差別を直視する梶原一騎作品の社会性を現代人にも分かりやすく伝えている。
しかし、再開発の動機を葉子の生い立ちに求めたことで、普遍性がある街づくりの問題が葉子個人の成長物語に矮小化された感がある。成長物語を矮小化とする理由は、葉子がドヤ街を認めるようになったところで、それは自分の中のコンプレックスを克服しただけだからである。再開発によって生活を破壊され、対立の主役となるべきドヤ街の人々は依然として物語の風景でしかない。
原作は持つ者と持たざる者の対立が背景にあり、一貫して持たざる者の側に立っていた。ところが、映画は葉子の物語が加わったために持つ者に感情移入し、その成長を見守るような視点の揺れが生まれてしまった。そのために葉子の独自設定自体が不要との意見も少なくない。
この点は続編を考えれば意味が出てくる。映画ではドヤ街の住人にオリジナル・キャラクターが追加されている。宿屋の女主人・花村マリ(倍賞美津子)である。しかし、大物女優を起用した割には見せ場がなかった。ロードワークを眺め、試合の観客となる程度である。これで終わってしまうならば、役どころが理解できない。続編で葉子とマリの秘められた接点が明かされ、葉子が真の意味でドヤ街と向き合う伏線ではないかと期待する声がある。

『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害

和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米国のドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』(ルイ・シホヨス監督)の上映中止が相次いでいる。『ザ・コーヴ』は第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞など多くの賞を受賞した話題作である。世界中で上映され、大きな反響を呼んでいる。
ところが日本では上映に対して脅迫的な抗議を受けている。これに対し、暴力で上映を中止することは、言論・表現の自由を侵害するとの抗議の声も出されている。この問題は同じく上映の是非が論議された作品『靖国 YASUKUNI』と比較することで本質が浮き彫りになる。
『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)は靖国神社を描いた日中合作のドキュメンタリー映画で、香港国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。『靖国』も一部団体から「反日的」と糾弾され、上映が妨害された点で『ザ・コーヴ』と共通する。
『ザ・コーヴ』と『靖国』への攻撃には共通する特徴がある。本記事では3点指摘する。
第1に右翼団体などにより、映画が「反日的」と糾弾され、「抗議活動」名目での脅迫的妨害が行われた。『靖国』では上映予定の都内の映画館に街宣をかけた右翼団体構成員が逮捕された(「映画「靖国」街宣の右翼団体構成員ら逮捕」産経新聞2008年5月2日)。『ザ・コーヴ』では主権回復を目指す会などが日本配給元であるアンプラグドの加藤武史社長宅に押しかけ、警察が出動する騒ぎになった。
映画の内容が妥当であるか、作品の質が高いかということと、上映の是非は別の問題である。評価が割れ、多くの人が反発する映画でも、それを上映する自由は保障される。それが表現の自由である。特定集団の脅迫的な抗議によって、映画が上映できなくなる状態は表現の自由が脅かされている。これは民主主義の根幹を脅かす国民全てに関わる重大な問題である。
『靖国』は最終的には多くの映画館で上映された。しかし、それを根拠に表現の自由の問題を過小評価することは不当である。結果的に映画が公開された要因は製作側と表現の自由の侵害に対して抗議した人々の努力である。表現の自由の侵害者と非難された側が表現の自由を尊重したからではない。
上映支持派の抗議によって、目立った上映妨害が起きていないならば、それは表現の自由にとって歓迎すべきことであり、表現の自由を擁護するための活動に意義があったことになる。表現の自由を擁護する戦いの勝利であり、抗議の正しさを示すものである。映画の盛況は、表現の自由を侵害してまでアジア人民に未曾有の惨禍をもたらした日本の戦争責任を否定しようとする悪意ある試みが挫折したことを意味する。『靖国』上映騒動が表現の自由の問題であることは変わらない。
『ザ・コーヴ』と『靖国』で多少異なる点は作品そのものへの支持である。『靖国』では作品を肯定的に評価する側と否定する側で激しい対立があった。各々のバックグランドが、肯定派が戦前の日本のあり方を否定的に捉える立場、否定派が戦前との連続性を肯定する立場に大別されることも興味深い。外国人監督作品ながら、日本社会の対立軸に見事にフィットしており、それだけでも『靖国』の秀逸さを示している。
これに対して、日本社会では『ザ・コーヴ』の作品内容やメッセージを積極的に評価する声は強くない。上映中止に抗議する立場も、イルカ漁には賛成という立場も少なくない。この点で『ザ・コーヴ』上映支持の主張は『靖国』以上に表現の自由の問題が純化されたものになる。

第2に制作過程への非難がある。『ザ・コーヴ』は隠し撮りという手法が攻撃された。『靖国』も、出演者の刀匠・刈谷直治氏が真意を説明されずに撮影されたとして、出演部分の削除を求めているとの報道がなされた。この制作過程への非難は、表現の自由という論点をそらすものでしかない。表現の自由との関係で『ザ・コーヴ』や『靖国』を論じる上で、制作過程の問題に触れる必要はない。
問題は映画館が上映を中止したことである。直接の中止理由は上映に抗議する右翼団体などの威嚇的・暴力的妨害を恐れたことである。圧力によって上映が中止された事態を表現の自由の危機と受け止め、抗議の声を上げた。
問題は圧力がかけられたことであって、圧力をかける動機となった理由ではない。圧力の理由は色々考えられる。日本の問題点を直視する映画が許せなかったからかもしれない。『靖国』ならば十五年戦争における日本の侵略性を明らかにすることを恐れたことかもしれない。映画の内容以前に日本、中国、韓国の合作映画で真のアジア友好を目指すというコンセプトが気に入らなかったのかもしれない。それらの理由で抗議したのでは表現の自由の侵害との批判に立ち向かえないから、表向きは制作過程の問題を声高に叫ぶ方針に変更したのかもしれない。
真の理由が何であれ、表現の自由との関係で問題は理由ではない。日本は法治国家であり、自力救済は禁止されている。仮に映画を否定することに正当な理由があったとしても、圧力をかけて上映を中止させることは認められない。当該映画の制作過程に問題があったとしても、それ故に圧力をかけて上映中止に追い込むことは正当化されない。
上映支持派にとっては、映画の制作過程の問題は論点とは無関係な問題である。恣意的な圧力により上映が中止になる事態を問題視しており、圧力の動機に理由があろうとなかろうと問題ではない。自説を正当化するために、当該映画の制作過程に問題がないことを主張する必要さえない。
もし映画批判者が「反日」的表現を抑圧するという、表現の自由を損なうことが目的ではなく、純粋に制作過程の問題について問題提起したいならば表現の自由を損なう手段を採るべきではない。当該映画の制作過程に問題があったと指摘し、当該映画が映画制作のルールを逸脱しており、上映に値する作品ではないと主張することは自由である。それも一つの映画批判になる。
しかし、それは上映を妨害しようとした右翼団体の抗議活動を正当化することにはならない。上映中止を表現の自由の危機と捉えて立ち上がった上映支持派に対する批判にもならない。その点が混同されている限り、『ザ・コーヴ』や『靖国』は表現の自由の問題であり続ける。

第3に政治の動きである。和歌山県太地町は『ザ・コーヴ』が住民の肖像権を侵害し、虚偽の事項を事実のように示しているとして、配給元に上映中止を求めた。
『靖国』でも上映中止の背景には稲田朋美・衆議院議員らによる様々な政治的圧力があったと主張された。上述の出演者・刈谷氏が出演部分の削除を求めたとされる件も、有村治子参議院議員が刈谷氏に電話で削除依頼をするように促したと映画製作側からは主張された。
これら公権力が映画に批判的な態度をとっているという事実は上映の問題が表現の自由の問題であることを示している。公務員による発言は私人の言論活動と同視できない。表現の自由の重要性は以下の理由がある。
(1)表現の自由には傷つきやすく、一度侵害されたならば回復されにくいという脆弱性がある。
(2)表現の自由は優越的地位が認められている。この優越的地位とは憲法が保障する諸々の人権(財産権など)と比較してのものである。真の意味で国民主権を実現するためには自由な議論が不可欠であり、表現の自由は民主主義社会の基盤となるものだからである。
以上より、公権力は国民の表現の自由を最大限尊重しなければならない。その行使にあたっては、表現の自由を損なわないよう、慎重さが求められる。
この点で、『靖国』における稲田議員らの行動は問題であった。稲田議員らは『靖国』公開前に試写を要求し、日本国憲法の禁止する検閲に該当すると批判された。日本国憲法第21条第1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。第2項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と定める。国会議員が権力(国政調査権)を行使して表現の自由を侵害するならば、紛れもなく憲法違反になる。
国会議員が試写を要求すること、出演者またはその妻に出演の意図について直接電話をかけて確認すること自体が通常では行われない尋常ではないことである。大日本帝国のシンボルである靖国神社を批判したのだから、権力者から釈明が求められるのは当然という前提に立つならば、その発想自体が表現の自由を侵害する。
後になって稲田議員らは助成金の使途確認を目的としたもので、上映中止を目的としてはいないと釈明した。この事後的な見え透いた言い訳は、表現の自由の侵害を論じる上で無意味である。もし真に上映中止を狙ったものでないならば、検閲と批判されるような真似はすべきではなかった。
検閲に該当するようなことをしなくても、調査の目的は達成できるにもかかわらず、あえて検閲と批判されるような主張を採ったならば表現の自由の侵害になる。試写会を開く目的は映画館に圧力をかけるのが目的であったとみなされても否定できない。国政調査権の行使ならば表現の自由を侵害が許されるわけではない。ことさら『靖国』を狙い撃ちにするような調査ならば、表現の自由を侵害する意図があったとの批判は免れない。
表現の自由を侵害された側が侵害された側に悪意がなかったと御目出度い解釈することは正義・公平に反する。「選良である我々が観て反日的でないという御墨付きを与えた後で、国民向けに上映することを許してやる」という不遜な態度が見え隠れすると悪意に解釈されても仕方がない。「私たちの勉強会は公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので上映中止は残念」などと他人事のような論評が反発を受けたことも自然である。
『靖国』製作側が稲田議員らの意図を変に物分りよく議員に媚びた解釈をせずに、表現の自由の侵害と抗議の声をあげたことは賢明な姿勢であった。『靖国』製作側が過剰反応し過ぎとの批判もあるが、問題は表現の自由が損なわれるような圧力がかけられたことである。影響力が相対的に小さい一期・二期の国会議員であろうと国政調査権という公権力を振りかざして表現の自由を侵害しようとすることは許されない。
圧力をかけられた側が、大した圧力でないからという理由だけで大騒ぎしてはならないということにはならない。影響力は相対的に小さかったとしても、不当な圧力に対して、耐え忍ぶことが美徳ではない。対立者の小さな過ちを見過ごし、笑って済ませてしまうことは度量の大きさではなく、間抜けさを示すものである。特に加害者でありながら被害者に向かって無反省にも「済んだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのける傾向がある日本人に対しては、過去の過ちを前提とすることは大切である。
過去を水に流して焼け野原から経済大国にしてしまう類の前に進むことしかできない連中のように打たれ強くなることは美点ではなく、愚かしい欠点である。『靖国』騒動で製作側が前に進むことしかできない発想で、生産的な方向にエネルギーを注力するような真似をしなかったことは高く評価できる。『靖国』製作側が対立者からは過剰と批判されるくらいの敏感な反応をしたことは感受性の鋭さを示しており、この上なく正しい選択であった。そこには『ザ・コーヴ』も学べる教訓がある。

『ザ・コーヴ』『靖国』と『プライド』抗議の相違

映画『ザ・コーヴ』が右翼団体などの攻撃により、上映中止を余儀なくされている。この経緯は映画『靖国 YASUKUNI』と共通する(林田力「『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害(上) 」PJニュース2010年6月21日)。
http://news.livedoor.com/article/detail/4839854/
同じく上映が抗議されながら、似て非なる動きに映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)がある。上映妨害問題の本質を理解する上で両者の区別は重要である。そこから『ザ・コーヴ』や『靖国』上映騒動の問題性が明らかになる。
『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相を主役とした作品である。この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。
「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。これはインドネシア独立の戦いを描いた作品であるが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。
これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では上映妨害の動きを批判した。これに『ザ・コーヴ』の上映妨害を批判する層も連なる。これをダブルスタンダード(二重基準)と批判する見解がある。
結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、『靖国』や『ザ・コーヴ』の上映中止の動きに抗議することは一貫性のある行動である。『プライド』批判は、労組や市民団体が中心であった。言論の自由の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して表現の自由を守るために抗議した。
実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の2008年4月1日の声明では以下のように主張する。「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである。」
あくまで抗議は、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。ここでは『靖国』や『ザ・コーヴ』の批判者の批判理由は問題にされていない。『靖国』や『ザ・コーヴ』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは自由である。問題は上映妨害や政治圧力が行われたことである。
そして映画における表現の自由を守るための戦いは『靖国』が最初ではなかった。南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。1998年6月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。1999年10月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。
『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持派の抗議活動が手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではなく、過去の活動の蓄積があるため、手際が良いことは当然である。
歴史歪曲映画に対する抗議と表現の自由の侵害に対する抗議が一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文から明白になる。
「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経てはじめてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています。」
公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』や『ザ・コーヴ』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。

原作の雰囲気に忠実『20世紀少年 第1章』

『20世紀少年 第1章 終わりの始まり』(堤幸彦監督)は浦沢直樹の科学冒険漫画を実写映画化した作品である。原作は単行本『20世紀少年』全22巻、『21世紀少年』上・下巻に渡る大部なものになっている。映画も全3部作の巨編で、その第1章が2008年8月30日に公開された。

本作品のタイトルはロックバンドT-REXの名曲「20th Century Boy」に因む。主人公ケンジ(唐沢寿明)が愛唱していた曲という設定である。この曲は本作品のテーマ曲にもなっている。私が本作品を観た映画館では上映前のBGMにも使われており、雰囲気を出していた。

ケンジはロックバンドを結成していた過去があり、現在でもギターでロックを奏でる。原作でも演奏シーンは多く登場するが、音はマンガでは表現できない。魂を震わせるロックの演奏は映像作品ならではの迫力がある。

漫画原作の映画となると、原作の雰囲気を壊さないかという点も気になるところである。既に絵で表現されている漫画には、小説の映画化とは異なる難しさがある。その点、本作品はキャストが原作のキャラクターに恐ろしいほど似ている。本作品は登場人物が大人になった現代と少年時代の回想が入り混じるが、それぞれの大人と子どもの役者も似ており、違和感なく楽しめる。

漫画原作の実写映画化で反響を呼んだ作品としては『DEATH NOTE』がある。この作品も実写化が難しいキャラクターである探偵Lを松山ケンイチが原作の雰囲気を壊さずに好演した。松山ケンイチの評価は高く、映画オリジナルのスピンオフ作品『L change the WorLd』が公開されるほどであった。

一方で夜神総一郎役の鹿賀丈史が原作のキャラクター以上に渋くてカッコよかったなど、『DEATH NOTE』では映画独自の世界観を形成していた。それに比べると本作品は脇役に至るまで原作キャラクターの雰囲気を出している。

本作品はストーリーも原作にほぼ忠実であるが、原作の分量を映画に合うようにまとめているため、省略された点も少なくない。コミックスでは過去の記憶が断片的に明かされ、一向に展開が進まず、じれったい思いをした記憶がある。それに比べると映画の展開は早い。特にオッチョと「ともだち」の正体に関するエピソードが削られており、映画だけでは理解できないと思われる。

映画の第1章の内容は原作の第1部に重なる。原作と大きく異なる点は、原作が現在進行形で展開したのに対し、映画はオッチョ(豊川悦司)の回想という形をとる。これは第1部の結末を探る上で大きな相違になる。

原作ではケンジ達と「ともだち」のどちらが「血のおおみそか」を制したのかは第2部に入らなければ分からない。これに対し、映画ではオッチョが回想している場所が通常とは異なる場所であるため、ある程度の予想ができてしまう。ここから第2部の主役になる遠藤カンナ(平愛梨)につながることになる。これによって第2部に期待を持たせる終わり方にしている。

『20世紀少年』はカルト教団による世界征服という壮大な物語である。細菌散布や宗教団体が政党を結成して国政を乗っ取るなど社会性のある内容でもある。しかし原作では最後はケンジの少年時代の罪に収斂していく。

人類の存亡がかかったストーリー展開でありながら、最後は主人公の精神的成長で終わらせる物語はテレビアニメの『新世紀エヴァンゲリオン』や岩明均の漫画『寄生獣』にも見られる。このような終わり方は、世界がどうなるのかという点に関心を抱いて作品を見ていた人にとっては肩透かしになる。

一方で日本人は過去を水に流す非歴史的な民族性と批判されている。自らの美しくない過去を直視することこそが現実の日本の大人達に最も欠けていることである。主人公に徹底的に内省させることを作品で実現することこそ、日本社会において作品を発表する意義がある。

回想後にオッチョはケンジを「逃げなかった真のヒーロー」と評する。ケンジの全てを知らないオッチョの体験から導き出した結論としては正しい評価である。しかし原作の結末を踏まえると、この言葉は意味深長である。映画作品が原作と同じ結末を辿るのか、オッチョの評価が伏線になるのか、第2章以降に期待したい。

『20世紀少年<第2章>』全体主義の怖さ

映画『20世紀少年<第2章>最後の希望』(堤幸彦監督)は2009年1月31日に公開された作品である。本作品は浦沢直樹のSFサスペンス漫画『20世紀少年』『21世紀少年』を原作とする実写映画である。映画は3部作になっており、本作品は第2章になる。

第2章はケンジ(唐沢寿明)の姪のカンナ(平愛梨)が主人公的存在である。時は西暦2015年で、第1章では幼児だったカンナも高校生に成長した。2015年の日本は救世主とされた「ともだち」が支配する社会になっている。2000年の「血の大みそか」はケンジ一派のテロと濡れ衣を着せられた状態である。行方不明のケンジに代わり、カンナやヨシツネ(香川照之)、オッチョ(豊川悦司)は「ともだち」の正体に迫る。

第2章も第1章に引き続き、原作の雰囲気に忠実である。ストーリーも原作をなぞっていたが、長編漫画を映画にまとめる関係上、省略されたエピソードも多い。そのため、次第に日常が非日常に侵食されていくという原作の不気味さは弱まっているが、一気に見せる映画の性質上止むを得ない。一方、「ともだち」の正体は原作とは異なり、第2章の最後になっても分からずじまいで、第3章のお楽しみとなっている。この点は原作と異なる内容になる可能性があり、第3作も観なければならないという気にさせられる。

オーディションで大抜擢されたカンナ役の平愛梨をはじめとしてキャストの好演が光った本作品であるが、不気味さを怪演していたのは高須光代(小池栄子)及び彼女の率いる「ともだちランド」スタッフである。高須らは「ともだち」教団の裏仕事を担当するが、悪事をしているという後ろめたさを全く感じさせないハイテンションさが不気味である。

第1章でケンジの経営するコンビニを襲撃した集団は、いかにも洗脳されている狂信者という印象であった。これに対し、高須らは非常に軽い。命令に対して「サンキュー」や「喜んで」と答える。まるでサービス業の接客マニュアルのような応対振りである。それがかえって怖さを感じさせる。

「ともだち」の組織はカルト的な宗教団体である。それが自作自演のテロ事件を起こし、日本を支配することになる。現実にもオウム真理教による地下鉄サリン事件などが起きており、決して荒唐無稽な話ではない。それでもカルト組織は通常の市民生活を送る人々にとっては縁遠い別世界の話である。

ところが、高須らの集団は日本社会に普通に存在するサービス業従事者のような行動規範である。ここには企業組織が容易に全体主義の歯車に転嫁してしまう怖さがある。実際、多くの企業不祥事は企業内部の常識が世間の常識とずれていたために起きている。企業の内部にいると、社会的には悪いことをしているという感覚が磨耗してしまう。

記者も東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずにマンションを購入して裁判で売買代金を取り戻した経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。その時の東急不動産の課長(当時)の論理は「隣地建て替えを説明しても、もし建て替えられなかったならば問題になる」という消費者の利益を無視した身勝手なものであった。消費者の立場を理解しようとしない東急不動産従業員には宇宙人と話しているような不気味さがあった。同じ不気味さが高須らの集団からも感じられた。

カルトという特別な集団だから問題なのではない。普通の企業であっても、間違った方針の下、構成員が思考を停止し、歯車になってしまえばカルトと同じような暴走をする。異常なカルト教団が社会に浸透する恐怖を描いた第1章に対し、第2章ではカルトに限らない全体主義の怖さがある。そして一見するとソフトな全体主義こそ、現代日本において第一に警戒しなければならないものである。その意味で第2章は前作にも増して社会性が深まった作品である。

『20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗』ともだちの悲しみ

映画「20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗」(堤幸彦監督)は2009年8月29日に公開された作品である。浦沢直樹の科学冒険漫画『20世紀少年』『21世紀少年』を実写映画化した3部作の完結編である。原作とは異なる結末が話題になった。

新興宗教の教祖で、自作自演の予言でテロを達成し、世界支配を目論む「ともだち」の不気味さが本作品の魅力である。主人公・ケンジ(唐沢寿明)らの少年時代に「ともだち」の謎を解く鍵がある。この大きな流れは原作と映画で共通するが、映画では「ともだち」の心情を丁寧に掘り下げていた。

「ともだち」は無差別テロを行い、何十億という人々を殺害した。ケンジへの恨みだけでは無差別テロの動機としては不十分である。人類全体への敵意を抱く背景となった「ともだち」の孤独や悲しみ、トラウマが映画では浮き彫りにされた。人類の大半が滅亡した世界の支配者になっても面白くないように思えるが、「ともだち」の心理状況では納得できる。

また、映画ではケンジやオッチョ(豊川悦司)、カンナ(平愛梨)ら特定人の超人的な活躍で全てを解決するのではなく、彼らをきっかけとしつつも大勢の人々の行動が大きな力を持つことを描いている。

作品世界の一般の人々の多くも内心では「ともだち」支配のおかしさを認識している。ユキジ(常盤貴子)が地球防衛軍を説得するシーンが印象的である。地球防衛軍のバイザーを上げて素顔を晒させることで、組織の犬から良心ある個人への転換を象徴する。『20世紀少年』にはカルト的な宗教団体が社会を支配する点で現実社会に警鐘を鳴らす社会派的側面があるが、一般の人々の良心に基づく行動によって社会を変えられるとのメッセージがある。

映画オリジナルのラストの10分は試写会でも放映しないことで注目を集めた。このラスト10分が大作の最終章を見事に締めている。過去を水に流す日本人は自らの美しくない過去を直視することを避ける傾向がある。その結果、フィクションでも悪を倒して大団円とし、終わりよければ全てよしとなってしまう作品が多い。その意味で作品の質を高めたラスト10分であった。

『L change the WorLd』人間Lに注目

『L change the WorLd』は人気漫画を原作とした『DEATH NOTE』のスピンオフ映画で、2008年2月9日から公開された作品である。『DEATH NOTE デスノート the Last name』において新世界の神を目指すキラこと夜神月を追い詰めた天才的な探偵Lを主役にし、Lの最後の23日間を描いた。本作品を一言でまとめるならばLを観たい人のための映画である。

Lは原作のマンガから独特な雰囲気を持つ特異なキャラクターとして設定されていた。世界的な探偵というイメージとは正反対の子どもっぽいキャラクターである。猫背で親指をしゃぶり、甘い物が好き。椅子に座る時も椅子の上に両膝を立てる独特の「L座り」をする。このため、デスノートの実写化が決まった時は、誰がLを演じるのか、原作のイメージを壊さないかに関心が集まった。しかし、松山ケンイチは見事にLを演じ、はまり役と言ってよいほどであった。

この作品は、そのLに焦点を当てている。『DEATH NOTE』本編ではエキセントリックであるものの、人格的には完成された天才的探偵という面が強かったが、この作品では成長する人間としてのLに注目している。23日間の経験で「Lが変わった」「大切なものに気付いた」と言うと、これまでのLの人生を軽視するようにも感じられるが、数日後に死ぬことが分かっている人にとっての人生は、そうでない時と比較して認識も異なるだろう。

この作品では映画本編で繰り広げられた高度な頭脳戦という要素は相対的に薄い。世界的な探偵であるLとの頭脳戦は、相手も余程の個性や特徴がないと成り立たない。Lの好敵手となれる相手は夜神月くらいしか考えられないというところである。

夜神月と比べると今回の敵は個性も特徴も物足りない。まさか敵のレベルに合わせたわけではないだろうが、Lの天才性もあまり発揮できていない。むしろ天才Lならば、もっと効率的に戦えたのではないか、と感じてしまう。

合理的に説明するならば、Lでさえ予測できない子どもの行動に足を引っ張られて敵の暗躍を許してしまったということになろうか。天才の計算どおりに進まないからこそ、この世界は愛すべきものであるし、このような世界だからこそLは「目の前の命を諦めたくない」と発言する。この世界でもっと生きていたいというLの思いが伝わる作品であった。


恋愛に使いたい映画・ドラマの名言

映画やドラマには恋の手本があふれている。そこで本記事では男性が恋愛に使いたい映画やドラマのカッコいい言葉を紹介する。
まずは告白である。普通の人とは一味違った愛の深さを表現したいならば、『さよならをもう一度』の「13の国の言葉で『愛してる』と言える」である。40歳のポーラ(イングリッド・バーグマン)に恋した25歳のフイリップ(アンソニー・パーキンス)の言葉である。本来ならば相手にされないような年上女性へのチャレンジ精神が溢れている。異性として意識させていない相手を振り向かせることができるかも。
粋なシチュエーションを演出したいならば、韓国ドラマ『美男ですね』でカン・シヌ(チョン・ヨンファ)に学びたい。シヌはコ・ミニョ(パク・シネ)を鏡の前に立たせ、「この人が、俺の好きな人だ」と告白した。ストレートに相手に告白するよりも、ひねりがある。
友達から恋人に発展させたいならば、ストレートに「もう友達はやめる」である。韓国ドラマ『ラスト・スキャンダル』で不実の夫に裏切られた初恋の相手ホン・ソニ(チェ・ジンシル)に対するチャン・ドンチョル(チョン・ジュノ)の覚悟である。ジュノのようにカッコよく決められれば文句なしである。
上から目線の俺様キャラを通したいならば、「お前が俺を好きになること、許可してやる」である。韓国ドラマ『美男ですね』でのファン・テギョン(チャン・グンソク)の言葉である。日本リメイク版の『美男ですね』でもテギョンに相当する桂木廉(玉森裕太)が同じセリフを言っている。
カリスマ的なスターの役だから許される発言で、安易な応用は失敗する。テギョンでさえ、最後は「ずっと言ってやるからな、毎日よく聞け。愛している」と告白した。ツンとデレを効果的に使い分けている。
告白された場合の上手な答え方は映画『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』のハン・ソロ(ハリソンフォード)が参考になる。レイア姫(キャリー・フィッシャー)の「愛してるわ」の告白にソロは「知ってるよ」と応じている。
これは原語では「I love you.」と「I know.」で、実に短いやり取りの中に小粋さが込められている。但し、これも上から目線の感覚は否めない。映画では冷凍保存の刑に処せられる直前のやり取りであるために劇的効果があるが、現実では、それなりの男子力が必要である。
恋人とのデートで一緒に食事をする時の決め台詞は何と言っても「君の瞳に乾杯」である。映画『カサブランカ』のリック・ブレイン(ハンフリー・ボガード)の台詞であるが、今や映画以上に知られた言葉になっている。
この「君の瞳に乾杯」は映画史上屈指の名訳である。原語は「Here's looking at you.」である。「Here's」が日本語の「乾杯」に相当し、通常は「Here's luck to you」(君の幸運を願って乾杯)という形で使われる。そのため、直訳すれば「Here's looking at you.」は「君を見ている自分に乾杯」となる。理由を告げずに去ってしまった恋人イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)と再会したリックの想いが反映している。これに対して、日本語訳は相手の瞳の美しさを称えるニュアンスが加わり、恋愛で実用できる言葉になった。
恋愛は駆け引きでもある。相手を軽くあしらいたい時は映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガード演じるリックの渋い会話を見習いたい。「昨夜はどこにいたの?」と聞かれたら、「そんな昔のことは忘れた」と答える。「今夜は会えるの」と聞かれたら、「そんな先のことは分からない」と切り返す。彼女に束縛されて窮屈な思いをしている男性諸君も使いたいものである。
これまで紹介した言葉を実際に使うことには気恥ずかしさもある。そこで最後に気恥ずかしさなしに含蓄のあるプロポーズの言葉を日本のドラマから紹介する。フジテレビの月9ドラマ『幸せになろうよ』のタイトルになった「幸せになろうよ」である。高倉純平(香取慎吾)が柳沢春菜(黒木メイサ)にプロポーズした言葉である。自分が幸せになることでも、相手を幸せにすることでもない。二人で幸せになることを目指すというプロポーズにふさわしい言葉である。