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影山明仁『名作マンガの間取り』間取りからキャラや時代を想像

本書(影山明仁『名作マンガの間取り』ソフトバンク クリエイティブ、2008年)は建築コンサルタントである著者がマンガを中心としたフィクション作品に登場する建物の間取り図を作品中の描写を元に作図したものである。
取り上げる間取りは『ドラえもん』の野比邸や『サザエさん』の磯野邸など住宅がほとんどである。一方で『ナニワ金融道』の帝国金融や『機動警察パトレイバー』の特車二課のように事業所の間取りもある。マンガに登場する間取りを集めただけでも斬新な企画であるが、事業所の間取りが出てくるとは想像できなかった。著者の設計経験とマンガ読書量の豊富さがうかがえる。
実際に作品中の建物の間取りを作図すると、様々な無理や矛盾が生じており、著者の想像で補ったという。設計士から見た突っ込みどころを、ユーモラスにコメントしている。
著者は「あとがき」で家族仲がよく、特に母親の存在が大きい作品の建物は作図しやすかったと感想を述べる(110頁)。人間関係における住環境の重要性を示唆している。これは現実世界の問題であるが、マンガの世界にも適合している点が面白い。
本書で取り上げた作品の中で記者(林田)にとって最も馴染み深い作品は『ドラえもん』である。実際に野比邸の間取り図を見ると部屋数の多さに驚かされた。居候のドラえもんを除外すれば、子ども一人の三人家族であるが、間取りは5DKである。のび太の幼い頃は祖母と同居していた描写もあり、2階の一部屋が祖母の部屋だったと推測される。1階には居間(和室)と洋室(応接室)が別々に存在する点が特徴的である。
気になった点は、のび太の机が南向きの窓に面して置かれている点である。直射日光が当たる南向きの場合、一般に集中力が途切れがちで、落ち着いて勉強しにくい。のび太は、机に向かうと5分で欠伸が出る体質の持ち主であるが、机の向きも一因と思われる。机の向きを変えると少しは勉強好きになるかもしれない。
これに対して『あたしンち』の立花邸では子ども部屋を北側の部屋(窓は東向き)にしている。立花家では両親がユニークなキャラクターであるのに対し、相対的に子ども達は常識人である。キャラクターと間取りの相関が感じられて興味深い。
日本人は農耕民族としての伝統のためか、陽光を最大限に享受できる南向きの人気が高かった。しかし、日照が強い南向きは勉強部屋に向かない上に、急激な室温上昇や壁紙・家具・カーテンの退色などのデメリットがある。反対に北向きの窓ならば年間を通して柔らかく安定した採光が得られる。また、植物は南を向く性質があるため、北向きの窓は緑地への眺望に適している。南向き神話は文字通り神話になっている。
それを端的に示したのは記者が原告となって、マンション売主の東急不動産を訴えた裁判である。この裁判では東京地裁平成18年8月30日判決で北側の窓の日照阻害などを理由に売買契約の取消しが認定された(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。
この判決は不動産売買契約について消費者契約法に基づく取消しを正面から認めた点で先例的価値を有するが、北側の窓からの日照阻害を重要事項と認定した点にも意義がある。日照といえば南向きという図式の崩壊が裁判でも裏付けられたのである。
本書はタイトルに名作マンガとあるように、古い作品が多いが、その中で相対的に新しい作品に『カードキャプターさくら』がある。この作品の木之本邸は一戸建てであるが、階段を南側に配置しており、南からの居室への日照は期待できない。ベランダは西向きに設置している。ここには南向き神話は見られない。時代別に作品を整理して間取りを分析すると、時代の傾向も発見できる。
間取り図からキャラクターの特徴や作品の時代に思いを馳せることができる。本書は様々な点で想像力を刺激させてくれる一冊である。

『全壊判定』マンション購入が怖くなる

本書(鎌田正明『全壊判定』朝日新聞出版、2009年4月30日発行)はマンション問題を題材とした小説である。著者は環境・住宅問題を中心に扱ってきたジャーナリストで、本書がデビュー作になる。
震度5の地震で基礎杭が破断し、全壊と判定された東京都江東区のマンションを舞台に、マンション購入が怖くなるようなマンション問題をリアルに描く。無責任な建設・不動産業者、身勝手なマンション住民、他人事の行政、暴走する管理組合などマンション問題が濃縮されている。
仲介業者は「組合関係は暇なお年寄りがやってくれるので、負担はかかりません」と説明したが、主人公・志月香織は購入早々、管理組合理事長を引き受ける羽目になる(45頁)。口からでまかせの営業トークでマンションが販売される実態を描いている。
また、建設業者の東日建設は地盤が悪いと責任逃れをする(85頁)。それでいながら、マンション住民には建て替えを奨める。ふざけたことに「ご縁のある現場ですから、どこよりも最優先でやらせていただきます」と被害者感情を逆撫でする発言を平然とする(89頁)。売ったら売りっぱなしで責任をとらないどころか、被災住民から再度工事を受注して搾り取ろうとする。
このような業者の責任逃れが許されている点がマンション問題を深刻にしている原因である。本来ならば震度5で全壊になるようなマンションを建てた業者や埋立地の危険性を説明せずに販売した業者に矛先が向かう筈である。しかし、業者は逃げ得で安穏としており、マンション住民同士で建て替え派と補修派に分かれて陰湿な争いが繰り広げられるところが悲劇である。
どのような問題があっても購入者の自己責任で対応しなければならないならば、分譲マンションは資産ではなく、足かせになる。本書が以下のように指摘するとおりである。「賃貸住宅であったら、どれだけ建物が破壊されようと、さっさと別のマンションに引っ越して、新たな生活を始められる。……だが、傷ついたマンションからは、逃れることができない。財産という人質をとられたようなものだ」(126頁)。分譲マンション購入が怖いものであることを実感した。是非とも分譲マンションの購入検討者に一読して欲しい。
本書の中心はマンションの再建をめぐる住民の対立である。エゴ剥き出しの住民は建て替えか補修かで凄惨な対立を繰り広げる。補修と比べてコストが大きくゴミも出るにもかかわらず、建て替えを優先する日本社会の傾向に一石を投じている。
建て替え派にも補修派にも言い分はある。建て替え派にとっては、たとえ補修で直るとしても、一度壊れたマンションに居住することは気持ちのいいものではない。補修案には、欠陥住宅の売主や施工業者が補修で済まそうとすることと同じ安直さが見え隠れする。
これに対し、補修派にも切実な思いがある。建て替えは莫大な費用負担が必要だが、二重ローンを組む余裕がない住民が少なくない。建て替えはマイホームを手放し出て行く住民が出ることを意味する。この補修派の切実な思いに対し、建て替え派は「貧乏人は出て行け」と言わんばかりの態度をとる。これには激しい怒りを覚えた。
実際のところ、建て替え派の中には腹黒い動機の人間も存在した。建設会社の従業員は管理組合の再建委員会に入り、相見積もりもとらずに割高な建て替え計画をまとめてしまう。自分が勤務する建設会社に受注させて利益を上げるためであった。
一方で補修派にも問題がある。意見を同じくする仲間内では饒舌だが、管理組合総会では主体的に話さない。同志だけが集まる集会が続くだけで、主張が広がらない。ここには市民運動や反対運動が陥りやすい弱点が現れている。
マンション再建で噴出する問題を赤裸々に描いた本書であるが、結末はリアリティに欠ける。マンション住民にとって都合の良い他力本願的な展開になっており、マンション再建問題の解決策としては参考にできない。小説としては完結するとしても、現実では期待できず、実際のマンション住民はもっと苦しむ筈である。これは幸運でも舞い込まなければマンションの再建は不可能という現実を見据えたものでもある。その意味で本書の結末はマンション問題の深刻さを浮き彫りにする。
本書で描かれた建て替えか補修かの対立は2005年に発覚した構造計算書耐震強度偽装事件でも見られた。業者も行政も責任を回避し、マンション住民だけが苦労する構図も同じである。この事件は建設・不動産業界の構造的な欠陥に起因し、姉歯秀次元建築士が構造設計した物件以外でも耐震強度不足の物件が続々と明らかになっていった。
ところが不可解なことに2007年頃からマスメディアでは扱いが小さくなり、急速に風化していった。ここには自分達のマンションにも飛び火したら大変との意識から報道を自制したのではないかとの疑問がある。その意味では住宅問題の報道経験のある毎日放送のアナウンサーであった著者がフィクションという形であるが、マンション問題の深刻さを正面から描いた意義は大きい。
最後に公正のために記者のスタンスを説明する。記者は大手不動産会社から不利益事実(隣地建て替え)を隠して新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。本書によって売買契約取り消しという自らの選択の正しさを再認識するとともに、本書以前からマンション購入にネガティブなイメージがあったことを付言する。

不満のない家が理想『省エネ時代の家づくり』

本書(兼坂亮一『省エネ時代の家づくり』けやき出版、2008年)は、一級建築士にしてハウスメーカーの経営者による家づくりの本である。

業者の書籍になるが、宣伝色は少ない。自分の家が欲しいという思いが、著者の出発点となっているためである。著者は安くて良い家を手に入れる方法を見つけるために建築業界に入った(9頁)。そして自らの家を二回も建てた経験を持ち、二度目の家作りで満足できる家を建てられたという。つまり著者には住宅の居住者としての視点も有している。それが業者の書籍でありながら、類書とは異なる性格を本書に与えている。

本書は『省エネ時代の家づくり』のタイトルのとおり、断熱や換気にこだわっている。本書には一般に流布している俗説に真っ向から対立する主張もあり、勉強になる。本記事では2点ほど指摘する。

第一に結露についてである。高温多湿の日本では大抵の結露は許容範囲で済まされがちである。これに対し、著者は「結露はカビを繁殖させ、土台を腐らせるので絶対に防がなければならない。第一、結露が発生する家は不潔だ」と妥協しない(38頁)。そもそも、乾燥する冬にも結露は発生しており、気候風土が原因ではなく人口結露であると喝破する。

結露の発生を避けるためには、家の断熱性を高めて換気をすべきと主張する。記者が東急不動産(販売代理:東急リバブル)から購入したマンションでは冬場に北側の窓に滴がポタポタ落ちるほどの結露が発生した。断熱や通風に問題があったことを示している。マンション購入時に隣地建て替えなどの不利益事実を説明されなかったことが後に判明したため、消費者契約法に基づき、売買契約を取り消したが、正解であった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。

第二に外断熱についてである。一般に欧米で主流の外断熱が内断熱よりも優れているとの外断熱信仰が流布している。これに対し、本書は以下のように地震と断熱工法の関係を説明する。「北欧では地震が起きない国なので、外断熱工法が可能なのだ。日本は地震が多い国なので、コンクリート造に内断熱工法が採用されている」(51頁)。

実際、耐震強度偽装事件で強度不足の物件の多くのデベロッパーであったヒューザーは外断熱をセールスポイントの一つとしていた。また、多くの強度不足の物件を施工した木村建設はドイツの工法を移入することで工期短縮を図ると説明していた。海外の事例を学ぶことは非常に大切なことであるが、単純に「外断熱」「海外で主流」というキーワードに飛びつくだけでは大きな落とし穴に陥ることを示している。

著者は本書において「よい家」を「不満のない家」と定義する。「暑くなく、寒くなく、結露もカビも発生しない家が快適住宅である」とする(121頁)。長年生活していく住宅にではプラスを追い求めるのではなく、マイナスを避けることが重要になる。とかく美点ばかりをアピールしがちなマーケティング手法にも反省を迫るものである。

記者が売買契約を取り消した東急不動産のマンションも都合の良い点ばかりを宣伝し、不都合な事実は説明しなかった。隣地建て替えを抗議しても東急不動産の課長(当時)は「隣地が新築の建物になれば綺麗になってよい」とプラスの面を無理やり探し出して正当化しようとした。不満のない家を目指す著者と、プラス面しか見ようとしない東急不動産では対照的である。どちらが消費者にとって好ましいかは言うまでもない。

本書は「あなたが居住性の高い家に住みたければ、今住んでいる家の不満に気づくことが何よりも大切である」とも説く(96頁)。不満をあげつらうことは減点主義としてネガティブに評価する傾向もあるが、物事のプラス面ばかり見て前向きに進むのでは進歩も改善もない。不満を直視することが家づくりに限らず全ての活動の第一歩になる。

奥菜恵『紅い棘』勝ち組的価値観と戦った女優

本書(奥菜恵『紅い棘』双葉社、2008年)は女優・奥菜恵の自叙伝である。芸能界引退報道や株式会社サイバーエージェントの藤田晋社長との離婚などゴシップとなった出来事にも正面から語。暴露本として扱われる傾向があるが、むしろ真面目に人生観を綴った作品である。
昨今の日本では勝ち組、負け組に二極化させる格差社会論が大流行である。ヒルズ族の藤田氏と女優の著者はセレブ婚と騒がれ、勝ち組を象徴するカップルであった。しかし二人の結婚生活は僅か一年半という短命に終わった。著者は離婚の理由を「幸せの基準、価値観には埋めることのできない溝があった」こととする(112頁)。
二人の価値観には、どのような相違があったのだろうか。著者の価値観は本書に明記されている。「どこにいても何をしていても一緒にいられる喜びをともにわかちあうことや、その気持ちを大切にすることが私にとっての幸せだった」(105頁)。
これに対して、藤田氏の価値観については本人が直接語っているわけではなく、著者の目から見た出来事が語られているのみであるが、そこからは、お金があること、お金で高級なものを消費することにあると推測できる。
例えば著者は藤田氏に対し、「あなたの幸せってお金? 肩書き? 世間体? 高級レストランに行くこと? 外車を乗り回すこと?」と怒りをぶつけている(108頁)。
また、著者は父が誕生日プレゼントとして著者に贈ったジュエリーボックスについて、藤田氏から「どうせお前のお金で買ったんでしょ」と言われて、ショックだったと述懐している(110頁)。
実際の藤田氏がどのような価値観を抱いているかは知る由もないが、少なくとも著者が、藤田氏はお金を幸せの基準としていると感じたことは確かである。特定の個人の価値観についての話であるが、一般に語られるヒルズ族と呼ばれる人々に対するステレオタイプな見方と共通していることは興味深い。
日本は格差社会に入ったと言われるが、ここには上層・上流の人々の文化は見えてこない。高級マンションに住み、高級レストランで食事し、高級な外車に乗ることは、価格が高価になっただけで普通の市民生活の延長線上に過ぎず、独自の文化と呼べるものではない。格差とは経済格差(所得格差、資産格差、消費格差)のみであり、お金さえあれば上流社会に昇れるかのようである。この点には良くも悪くも日本の格差社会の底の浅さが感じられてならない(林田力「『ジャニーズ愛』の感想」JANJAN 2009年11月26日)。
http://www.book.janjan.jp/0911/0911233519/1.php
お金で幸せを含め全てを買おうとする勝ち組的価値観とは対照的に著者は沖縄旅行で会った人々や中学からの友人との交流などを通じて癒され、自分自身の原点に回帰していった。「自分の生きる意味、幸せの基準を完全に失ってしまう前に、もう一度この手に手繰り寄せることができた」と語る(185頁)。人とのつながりを幸福の基準とする著者の価値観は格差社会を生きる多くの人にとっても参考になる。

泣く男は平和の象徴『女の前で号泣する男たち』

本書(富澤豊『女の前で号泣する男たち 事例調査・現代日本ジェンダー考』バジリコ、2008年10月13日)は恋人との別れ話で泣く男について調査・分析した書籍である。恋人の女性に振られて号泣してしまう男性が増えているという問題意識が出発点である。「男はメソメソ泣くものではない」と育てられた著者にとって、別れ話で泣く男の存在は大きな驚きだった(8頁)。「そんな男性がいるのか?」と疑問に思って研究を始めた。

正直なところ、著者よりも若い世代である記者にとっては別れ話で泣く男がいるということは驚く話ではない。普通に受け入れられることである。むしろ泣く男を驚きと感じる人が存在することの方が驚きである。それ故、本書に対しては「最近の若いものは」的な若年世代批判の一種でないかと予想し、それほど期待していなかった。この予想は良い意味で裏切られた。

著者は本業であるマーケティングコンサルタントの知見を活かして泣く男の実態を調査する。その結果、「泣き喚く男がジワジワと増殖している」という事実が明らかになる。その上で著者は泣く男の社会的意義を分析するが、これが秀逸である。そもそも「男はメソメソしてはならない」というのは普遍的な価値観ではなく、「ねじ曲げられた武士道精神に基づく軍国主義による影響」と喝破する(157頁)。

時代を遡れば「平安時代の男たちにとって恋愛で泣く行為は当然のことだった」という(167頁)。現代において泣く男が増えているということは、それだけ現代日本が平和な社会になったことを意味する。最後に著者は以下の主張で本書を締めくくる。「「男が泣けない社会」など二度と作ってはいけない」(203頁)。

著者は当初、「男はメソメソ泣くものではない」という価値観から、泣く男の存在に驚いていた。ここにはジェンダーに囚われた旧世代的価値観が見受けられる。ところが著者は調査・分析を経ることで、泣く男の増加を事実として受け止め、平和な社会の象徴と積極的に評価する。過去の価値観と比較することで、泣く男への評価を180度転換させた。著者の思索の展開には事実を直視し、異なる価値観を理解し評価する柔軟性がある。また、恋愛行動の分析とマーケティングの手法という組み合わせの意外さが面白い。

人間には自らの理解したいものしか理解しようとしない傾向がある。異なる価値観に直面すると、頭ごなしに否定しようとする。この頑迷さは単一民族幻想・一億総中流幻想に取り付かれた日本人には特に強い。その点で著者のような柔軟な姿勢は非常に貴重である。

この著者の姿勢の原点は小学生時代に愛読していた『暮らしの手帖』にあるという(10頁)。『暮らしの手帖』は商品が表示通りの内容であるか実際に測定し、その結果を実名入りで掲載していた。著者は「事実は事実」と冷たく突き放す『暮らしの手帖』に感銘を受けたという。私自身、購入した新築マンションが不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して販売され、売主の東急不動産との裁判でようやく売買代金を取り戻した悔しい経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。それ故に不都合な内容でも事実を大切にする著者の思想には強く共感できる。

現代の日本では戦後民主主義的価値観を否定し、戦前の軍国主義的価値観を無批判に美化する右傾化の危険に晒されている。しかし、戦前の国民は幸せだったのか、長い日本の歴史の中で侵略に明け暮れた戦前こそが異常な時代でなかったかなど検討すべき内容はたくさんある。泣く男を平和の象徴と結論付けたように、客観的なデータと冷静な分析という著者の手法は多くの分野で有益である。

林田力「泣く男は平和の象徴『女の前で号泣する男たち』」JanJanBlog 2010年5月19日
http://www.janjanblog.com/archives/2704

『素人がよく分かる相対性理論の大間違い』の感想

本書は相対性理論が誤りであると主張し、著者が考える理由を分かりやすく説明している。相対性理論は現代物理学の重要な柱の一つであり、それを根本的な誤りと主張する本書は非常に野心的な著作である。
著者は自説を展開するに当たり、批判対象である相対性理論については、訳書ではあるものの提唱者であるアインシュタインの著作に依拠している。また、相対性理論を批判する先行の論稿(窪田登司『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』など)も研究している。著者は物理学者ではなく、美しい夕日を眺めていた際に相対性理論の誤りを直感的に閃いたと説明するが、研究手法はオーソドックスである。
著者の問題意識は多くの人々が自ら考えることなく、アカデミズムに受け入れられた相対性理論を正しいものと無批判に受け止めてしまっている現状にある。そのような現状に一石を投じようとする著者の思いは「巨大なマインドコントロールを解く」というサブタイトルに込められている。
そして相対性理論の正否を自ら考えた上で判断してもらうために、本書では図を多用し、分かりやすい説明を心がけている。タイトルに「素人がよく分かる」とあるとおりである。本書では見開きの2ページで1つのトピックを扱っている。右側のページには文章による説明を行い、左側のページにはマンガチックな図や比較的単純な数式で解説する。
但し理解しやすくするための努力が皮肉なことに、ある意味では本書を分かりにくくしている面もある。相対性理論は一言で説明できるような簡単な内容ではない。それ故に本書も相対性理論を構成する個々の原理(一般相対性原理や等価原理など)毎にトピックを分けて批判する。
各々の主張は図解もあり分かりやすい上、そもそも相対性理論は人間が知覚から認識できる経験則に反している内容も多いため、本書の説明は説得的な面がある。しかし、個々の原理を攻撃しても、相対性理論の全体像からの位置づけは見えにくい。そのため、意地悪な立場からは、著者の批判は枝葉の揚げ足取りに過ぎず、相対性理論の本質への批判になっていないと一蹴される恐れもある。
実際、本書は相対性理論の説明でよく使用されている絵の誤りを指摘するところから始まる。著者の主張が正しいとしても、「相対性理論の説明でよく使用されている絵の誤り」が「相対性理論の誤り」に直結する訳ではない。
相対性理論を批判するならば、最初に相対性理論を体系立てて説明した方が理解しやすい。特に本書は中高生でも理解できることを念頭に書かれたとするが、そもそも中高生をはじめとする一般読者が相対性理論を正確に理解しているとは限らない。読者層を考えるならば相対性理論自体の体系的な説明は必須である。
著者にとって相対性理論は批判すべき誤った理論であり、詳しく紹介する価値はないものかもしれない。しかし、自説を前面に押し出すのではなく、「相対性理論の大間違い」と相対性理論の知名度に寄りかかった論稿にしている以上、本書で批判する相対性理論についての定義を最初に登場させることが望ましい。相対性理論の正確な定義をできてこそ、批判も説得力を有する。
本書の主張は物理学の通説に真っ向から対立するものであり、「疑似科学」「トンデモ本」と嫌悪感を有する人も存在するだろう。しかし「疑似科学」とラベリングして声高に排斥する疑似科学批判者の姿勢こそ科学的な精神から最も乖離している。世の中の疑似科学批判者が疑似科学を誤りとする根拠の中には首肯できるものもあるものの、その攻撃性には強い違和感を覚えている。
仮に疑似科学の主張に誤りがあるとした場合、その誤りを指摘することは正常な言論過程である。しかし、疑似科学批判者が決め付けた「疑似科学」を主張したり紹介したりすることが、社会的・道義的に悪いことであるかのように人格的に非難される筋合いは存在しない。言論空間は疑似科学と決め付けるとことでしか自己の優位を保てない人々のために存在するわけではない。
その意味で著者を「科学的素養がない」「物理学の基礎知識がない」と頭ごなしに決め付けるような人々が存在する限り、本書のような書籍が出版されることには意義がある。著者の活躍を期待したい。

『美しき日本人は死なず』感動的な人間物語

本書(勝谷誠彦『美しき日本人は死なず』アスコム、2009年9月11日発行)は、24時間営業の小児科医やタイでHIV感染孤児施設を運営する女性など感動的な個人の物語10編を収録したノンフィクションである。雑誌「女性自身」に掲載された連載「シリーズ人間」の内容を著者が厳選して書籍化した。

本書のタイトルには「美しき日本人」とあり、表紙は旭日旗を連想させる太陽のデザインである。帯には保守派の論客・櫻井よしこ氏が顔写真入りで登場する。ここからは右寄りの印象を与える。

内容的には右に偏っている訳ではない。たとえば女優の吉永小百合氏はボランティアで原爆や沖縄戦の悲惨さを語り、「非戦非核のメッセージを発信し続けること」を使命と言う(184頁)。むしろ本書で取り上げた活動は右派・左派という政治思想を越えて共感・感動できるものばかりである。それにもかかわらず、左派から抵抗感を持たれるタイトル・装丁としたことが商業的に成功であるかは興味あるところである。

あえてタイトルを『美しき日本人は死なず』とした理由として、著者は「日本人ならでは」の物語と感じたためとする(5頁)。そこには義や志、利他の精神がある。記者は民族を超えた普遍性を有するからこそ美徳になると考えるが、本書に日本人ならではの美徳があるとすれば、どのような悪条件下にあっても目の前の問題を放っておけない性質である。

もっとも、これは目の前の火を消すことだけに熱中し、火事が起きた根本原因を考えない日本人の悪癖でもある。たとえば本書では医療問題が多く取り上げられているが、現代の医療崩壊は個々人の善意と超人的な努力では解決できない構造的な欠陥を抱えている。それを個人の美徳で乗り越えたとするならば問題解決への誤ったメッセージを与えることになる。制度的な問題を個人の頑張りで乗り切ろうとする精神論は特殊日本的精神論と呼べるほど日本社会に根付いている。この意味で本書の物語は良くも悪くも日本的である。

制度の欠陥から目を背けさせる危険はあるものの、本書の物語が美談であることに変わりはない。近年の報道では人間としての最低限の倫理観も失った日本人ばかりが登場する。記者自身も利益優先の不動産会社から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされる被害に遭っている(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。閉塞感漂う日本社会に絶望したくなる状況であるが、日本人も捨てたものではないと思わせる一冊である。

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』2ちゃんねるも格差社会

本書(黒井勇人『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』新潮社、2008年6月27日発売)はインターネット掲示板「2ちゃんねる」のスレッドを書籍化したものである。中卒ニートの主人公「マ男」が母の死をきっかけに一念発起して就職したIT企業での過酷な体験を描いた作品である。出版社がスレッド文学と位置付けているとおり、全編「2ちゃんねる」のスレッドの書き込みを書籍化した形になっている。

「2ちゃんねる」の書籍化という点では『電車男』と同じであるが、趣は異なる。『電車男』では電車男がエルメスとのデートの場所などについて相談するために掲示板を利用した。掲示板のやり取りが、物語を形成する軸になっている。電車男とスレ住人の共同作業によって生まれた物語である。故に『電車男』ではスレッドの書き込みを、そのまま書籍化する意味があった。

これに対し、本書はスレ主であるマ男の体験談が中心である。それ以外の住人の書き込みは体験談に対する感想や突っ込みであり、ストーリー展開を左右するものではない。この点でスレッド文学の形式を採る必然性はない。むしろストーリーが実に面白く作られており、一般の小説形式でも十分に楽しめる水準である。このような作品が「2ちゃんねる」から生まれた点に、匿名掲示板の文化発信力の高まりが感じられる。

本書はタイトルや出版社の紹介文を読む限り、ブラック企業の過酷な労働環境をテーマとしたものと受け取ってしまいがちである。その種の描写が多いのは確かであるが、むしろ本題は主人公の職業人としての成長を描くことにある。

実際のところ、マ男は飲み込みが早く、かなり優秀な人物である。本書が示すように文才もある。高校中退で就業経験なしという設定が嘘臭く思えてしまうほどである。また、ブラック企業といいつつ、かなりスキルの高い同僚もいる。最底辺の職場の苦しみというよりも、ソフトウェア開発現場の実態を誇張しつつも生々しく描いたところが共感を集めたのではないか。

従って格差社会・ワーキングプア・過労死などの問題意識から本書を読むならば肩透かしとなる。ポテンシャルのある人物が厳しい環境に揉まれて成長したという成功物語ではワーキングプアへの応援歌にはならない。

むしろ苛酷な労働環境を生む社会的矛盾から目をそらし、本人の頑張りで克服するという教訓を導き出すならば、悪しき日本的精神論に堕していると批判の対象になる。それは本物のワーキングプアやニートを、ますます絶望に追い込むだけである。

秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大容疑者は匿名掲示板で行った殺人予告に対し、反応がなかったために「無視された」と感じたという。一方で本書のような面白い内容ならばレスがつくし、反響が大きければ書籍化までされる。匿名掲示板は誰でも書き込めるが、皆が同じ匿名者として平等に扱われる訳ではない。

例えば「2ちゃんねる」では企業への告発情報が溢れかえっているが、ほとんどが見向きもされない。一方でマンションの売買代金返還訴訟を契機とした東急リバブル・東急不動産への批判は裁判の枠組みを越えて大きく広がり、ビジネス誌に炎上と紹介されるに至った(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

考えてみれば当たり前であるが、書き込み内容に価値がなければ反響を呼ぶことはない。現実社会から疎外されている人が匿名掲示板だから受け入れられるとは限らない。読み手が価値ある書き込みと、つまらない書き込みを同列には受け取ることはない。それは匿名掲示板でも同じである。むしろ、書き手のブランドが通用しない匿名掲示板だからこそシビアに内容で評価される。

ともに苛酷な職場環境への不満を出発点としつつ、書籍化までされたマ男と、匿名掲示板からも疎外された加藤容疑者の落差は大きい。現実社会から疎外された人が匿名掲示板からも疎外されたということは精神的に大きなショックだったのではないか。「2ちゃんねる」もまた、格差社会の一翼を担っているという現実を実感した。

『仮名草子の<物語>『竹斎』・『浮世物語』論』の感想

本書は仮名草子2作品『竹斎』及び『浮世物語』の研究書である。仮名草子は江戸時代初期に成立した漢字交じり仮名書きの平易な読み物の総称である。当時は豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱)で活版印刷術がもたらされ、出版ブームとなった。これが多数の仮名草子が刊行された背景にある。やがて仮名草子から井原西鶴『好色一代男』が生み出され、浮世草子という新たなジャンルが確立されることになる。
本書が研究対象とする富沢道冶『竹斎』、浅井了意『浮世物語』は共に仮名草子の代表作である。『竹斎』は藪医者・竹斎が滑稽な治療を行う旅行譚であり、『浮世物語』は僧侶・浮世房を中心とする教訓話である。本書では両作品について通説的見解とは異なる解釈を明らかにする。
たとえば『竹斎』では藪医者・竹斎が梅毒の患者に病気に効く食べ物として様々な食物を列挙するシーンがある。これはデタラメな食べ物を挙げる点が藪治療として笑いのポイントと理解される傾向にある。
これに対し、本書では当時の医療水準では梅毒に効く食べ物は分かっておらず、竹斎が列挙した食べ物は健康に良いと考えられていたものであったとする。つまり、このシーンの笑いは治療のデタラメにあるのではなく、治療法が不明な病気に対して健康に良さそうな食べ物を列挙する必死さにあった。当時の医学水準の限界を風刺するものであった(21ページ)。
また、『浮世物語』は中世的な「憂き世」(辛い世の中)から現世を肯定した享楽的な「浮世」への転換として高く評価されている。これに対し、本書では当時の「うき世」の用法や著者の思想を踏まえ、『浮世物語』は「憂き世」を否定して現世を「浮世」と捉えたものではないとする。「うき世」には「憂き世」と「浮世」の両者が成り立つという異なった考え方を許容するスタンスであったと主張する(140ページ)。
これらの斬新な解釈は各種資料から作品成立当時の社会を探究する著者の研究姿勢が母体になっている。それは物語に対する人々の意識の変化にも見られる。「いずれの御時にか」で始まる『源氏物語』に代表されるように日本の物語は過去の事実を語る体裁をとっていた。
これに対し、『竹斎』や『浮世物語』は同時代を舞台とするフィクションとして提示された(222ページ)。この点に近世小説の新しさがある。現代人にとって小説がフィクションであることは当たり前であり、見落としてしまいがちな指摘である。文学作品研究には当時の人々の価値観を認識することが重要であると改めて実感した。(林田力)

理科離れ克服は、あぶない科学実験で

「理科離れ」が深刻な問題と認識されている。「理科離れ」の危機感を煽る人々の背後には予算枠拡大を目論む理系研究者や技術者を求める産業界の思惑もある。そのために額面通りに受け止めることはナイーブであるが、高度成長期の少年ほど現代人が科学技術にワクワクしなくなったことは確かである。
このような状況に対し、サイエンスライターの川口友万氏は「サイエンスにもっと笑いを」をモットーに活動する。川口氏の新刊『あぶない科学実験―リアルライトセーバーからエアバズーカ、光るピクルスまで』(彩図社、2010年)では身近な材料を利用して爆発や炎上などワクワク感のある科学実験を行っている。例えば備長炭を放電させて映画「スターウォーズ」のライトセーバーのようにする実験などである。
実際にインパクトのある科学実験を行いたい人にとって本書はハウツー本になるが、本書の醍醐味は失敗の記録も書かれている点にある。実際、川口氏は実験で何度も何度も失敗している。川口氏は「おわりに」で以下のように記している。
「手を動かし、足を運び、ヤケドしたり壊したりしているうちにただ暗記するだけの数式、アルファベットが並んだだけの無色の化学式が不意に鮮やかに色づく。」(172頁)
ここに理科離れ克服の鍵が隠されているように思われる。
科学を権威や無味乾燥とした学問ではなく、面白いものと考える川口氏は好奇心豊かで柔軟である。雪の結晶を作る実験は書籍『水からの伝言』を読んだことがきっかけという(128頁)。これは江本勝氏の書籍で、水に言葉をかけると人間の意識が刷り込まれ、結晶の形が言葉に影響されると述べる。この書籍は世界各国で翻訳され、道徳の授業にも使用されたが、科学信奉者からは疑似科学・ニセ科学と激しくバッシングされた。
しかし、疑似科学・ニセ科学とラベリングして声高に排斥する科学信奉者の姿勢こそ科学的精神から最も乖離している。彼らの主張の是非以前の問題として、その攻撃性には強い違和感を覚える。その意味で『水からの伝言』を実験の出発点とする川口氏の柔軟性は特筆すべきものである。その上で、川口氏は「『ありがとう』と書いた紙を貼ったからキレイな結晶ができるわけではない」と結論付けている(132頁)。
川口氏は劇団あぁルナティックシアターが下北沢小劇場「楽園」で1ヶ月に渡り開催するイベント「博覧狂喜博覧会」にも出演する。9月23日19時から「川口先生の世界一あぶなっかしい科学実験室」と題し、怪しくも面白い科学実験を披露する。科学のワクワク感を伝える川口氏の活躍に期待したい。

『ペアプログラミング』二人で作業

本書(ローリー ウィリアムズLaurie Williams著、ロバート ケスラーRobert Kessler著、長瀬嘉秀訳、今野睦訳、テクノロジックアート訳『ペアプログラミング―エンジニアとしての指南書』ピアソンエデュケーション、2003年)は、ペアプログラミングの解説書である。

ペアプログラミングは文字通り、二人でプログラミングする手法である。通常のプログラミングでは一人でコーディングする。プログラマが複数人いる場合でも実装範囲が分担され、特定の箇所についてコーディングするのは一人である。

これに対して、ペアプログラミングでは二人のプログラマ(三人の場合もある)が一台のマシンを使用して共同でソフトウェアを開発する。一人がコーディングしている間、別の一人がリアルタイムで内容をチェックする。前者はドライバ、後者をナビゲータと呼ばれる。ドライバとナビゲータは一定時間間隔で交代する。

このペアプログラミングはソフトウェア開発手法「Extreme Programming(XP)」の実践項目の一つになっている。一方でXPを採用しないオーソドックな開発現場でも教育目的などでの採用が増えている。

ペアプログラミングは二人一組で作業を行う特性上、効果的に作業を進めるために、一人でコーディングする場合とは異なる考え方や習慣が必要になる。本書はソフトウェア開発チームのメンバーやマネージャーを対象とし、ペアプログラミングの際に生じる多くの疑問や懸念に回答する。

ペアプログラミングには多くのメリットが指摘される。たとえば二人の共同作業になるため、技術者の集中力が非常に高まる。ドライバは常にナビゲータに見られているため、手の抜きようがない。特に実業務では一人でコーディングしている場合、別の業務に割り込まれるなどで想像以上に作業に専念できない。ペアプログラミングではナビゲータに見られることによって、目の前の作業に集中できる。

また、二人でコードを吟味するため、属人的なプログラミングを回避できる。コードレビューと同時進行でプログラミングするような形になり、コード品質が高まる。一人では手詰まりになるような問題でも、二人で会話することで解決策が導き出せる。

但し、人間は様々である。内向的な人や外向的な人、プログラミングに自信のある人、苦手意識を持つ人など十人十色である。これらの相違を無視して、画一的にペアプログラミングを押し付けるならば逆効果となる危険がある。本書では、様々な種類のペアのメリットとデメリットを説明し、各々のペアに最も適した状況を提示している。

デザインパターンのバイブル的存在GoF本

本書(エリック ガンマErich Gamma著、ラルフ ジョンソンRalph Johnson著、リチャード ヘルムRichard Helm著、ジョン ブリシディースJohn Vlissides著、本位田真一訳、吉田和樹訳『オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン 改訂版』ソフトバンククリエイティブ、1999年)は1995年に刊行された『Design Patterns : Elements of Reusable Object Oriented Software』の邦訳である。
著者の4人はGoF(Gang of Four; 4人のギャング達)と呼ばれる。彼らは有益なデザインパターンを持ち寄り、本書にまとめた。ここではオブジェクト指向で設計する者がその最適な解を求める上で当然の帰結として用いられる普遍的なデザイン23パターンを整理している。本書はGoF本とも称され、デザインパターンのバイブル的存在になっている。
デザインパターン(design pattern)は良い設計のためのノウハウ集である。過去のソフトウェア設計者が発見し編み出した設計ノウハウを蓄積している。オブジェクト指向ソフトウェアを設計する際に繰り返し現れる経験的な要素を抽出し、効率の良いプログラミングをするためのテンプレートになる。
デザインパターンはソースコードや再利用可能なコンポーネント等のような具体的なものではなく、良いオブジェクト指向の設計の見本というスタンスである。以前経験したことがある、似たような問題の解決法に分かりやすい名前を付けて、再利用しやすいように特定の規約に従ってカタログ(虎の巻)化した。
オブジェクト指向プログラミングにおいてデザインパターンを利用することは、開発者に様々なメリットを与える。ここでは2点ほど指摘する。
第一に再利用性の高い柔軟な設計が可能になる。設計者の直感や経験に依存していた設計から先人達の知恵を利用した設計になる。設計力の向上が期待でき、設計の品質も安定する。既存のシステムの文書化が容易になり、システムの保守性も向上する。
第二に開発者同士の意思疎通が容易になる。デザインパターンを習得している開発者同士であれば、「○○パターンでいこう」「××パターンが応用できる」で話が通じ、詳細な説明を省略できる。
デザインパターン適用にも注意点がある。デザインパターンは、あくまで「ある一つの問題に対する解決策」である。適したパターンを使用しなければ意味がない。そのためにデザインパターンの適用が余計なトラブルの原因になることもある。
本書で整理したデザインパターンは3種類に大別される。
第一に生成に関するパターンである。
Factory Method:サブクラスがインスタンスを生成する。オブジェクトを生成する時のインタフェースだけを規定して、どのクラスをインスタンス化するかはサブクラスで決定する。
Factory Methodではnewによるインスタンス生成をインスタンス生成のためのメソッド呼び出しに代替する。それによって具体的なクラス名による束縛からスーパークラスを解放する。
1つのファクトリは1つのオブジェクトの生成のみを行うため、生成するオブジェクトの種類の変更を行う場合、ファクトリクラスを切り替える必要がある。その結果、クラスの関連を複雑にするというデメリットがある。
Singleton:インスタンスの数を制限。クラスがインスタンスを1つだけしか持たないことを保証する。既に作成していればそれを渡し、一度も作成していなければ、新規作成後に渡す。
Builder:複雑なオブジェクトを生成。同じ生成過程で異なる表現形式のオブジェクトを生成する。様々なバリエーションでオブジェクトを生成するBuilderクラスと、複数のBuilderクラスをまとめて管理するDirectorクラスを用意する。
Prototype:原型からオブジェクトを生成。様々な種類のオブジェクトを大量に生成する。
Abstract Factory:抽象的な工場を使用する。互いに関連したり依存したりするオブジェクト群を、その中身のクラスを明確にせずに生成する。インスタンスの生成を専門に行うクラスを用意することで、整合性を必要とされる一連のオブジェクト群を間違いなく生成する。
第二に構造に関するパターンである。
Adapter:クラスの橋渡し役。既存のクラスに別のインタフェースの機能を持たせる。
Bridge:委譲を使って機能と実装を分離する。関連の強い2つのクラスを互いに影響しないようにした状態で拡張する。
Composite:再帰的に一連の操作を実行。階層構造をなすオブジェクト全体に、再帰的に一連の操作を実行する。全ての要素に共通の処理(Operation)を持つ抽象クラス(Component)を定義し、サブクラスとして複合要素(Composite)と単独要素(Leaf)を別々に用意する。
Decorator:クラスを拡張する。既存のインタフェースを変更せずに機能を追加する。
Facade:単純なインタフェースを提供。複数のインタフェースに1つの統一されたインタフェースを提供する。既存のクラスを複数組み合わせて使う手順を、窓口となるクラスを作ってシンプルに利用できるようにする。
Flyweight:オブジェクトを再利用。サイズの小さなオブジェクトを大量に生成する。
Proxy:あるオブジェクトへのアクセスを制御するため、そのオブジェクトの代理となるものを提供する。
第三に振る舞いに関するパターンである。
Chain of Responsibility:複数のオブジェクト間で処理要求を転送する。1つのリクエストを、オブジェクトのチェーン内のいずれかのオブジェクトで処理する。
Command:処理をコマンド化。リクエストをオブジェクトとしてカプセル化し、複雑なリクエストを処理できるようにする。
Interpreter:オブジェクトをいつでも元に戻せる。構文解析の結果を実行する。
Iterator:複数のオブジェクトを1つずつ順番にアクセスする。集約オブジェクトを生成するクラスが走査のための共通のインタフェースを与えるようにすることで、変更すべき点を少なく抑える設計になる。
Mediator:調停者が複数のオブジェクトを一元管理する。複数の部品オブジェクトを相互作用させる。
Memento:オブジェクトの変更履歴を管理する。オブジェクトの状態をいつでも元に戻せるようにする。
Observer:状態の変化を通知する。自分以外のオブジェクトの状態が変化したことをチェックし、他のオブジェクトに知らせる。
State:状態をクラス化する。あるオブジェクトの状態を異なるサブクラスに属する別々のオブジェクトとしてカプセル化する。オブジェクトの処理内容を状況に応じて切り替える。
Strategy:アルゴリズムの入れ替え。アルゴリズムの集合をカプセル化し、それらを交換可能にする。
Template Method:処理をテンプレート化。大きな処理を部分的に変更する。
Visitor:複数のオブジェクトを訪問する。処理を追加するクラスを変更せずに新しい処理を追加する。