『翳深き谷』書評

林田力

ピーター・トレメイン著、甲斐萬里江訳『翳深き谷』(創元推理文庫、2013年)は「修道女フィデルマ」シリーズの長編作品である。「修道女フィデルマ」シリーズは七世紀アイルランドを舞台とした歴史ミステリーである。主人公フィデルマは修道女であるが、弁護士の資格を有しており、怪事件を解決する。この弁護士は現代日本では検察官に近い役回りである。

当時のアイルランドは外来宗教であるキリスト教を受容するようになったが、土着の信仰を守る地域も僅かにあった。そのような族長領グレン・ゲイシュが物語の舞台である。フィデルマは国王の特使として、グレン・ゲイシュに教会を建てる折衝をするために赴き、そこで事件に巻き込まれる。現代ではキリスト教は世界三大宗教の一つであり、信者でなくても教義は理解できる。しかし、土着の神話を信仰している人々にとってキリスト教は奇妙な教えと感じられたことが本書から理解できる。

興味深い点はアイルランド人の入浴習慣である。アイルランド人は毎日入浴する(上巻121頁)。ヨーロッパでは珍しい。ヨーロッパでは近世に入っても上流階級でも風呂に入らず、体臭を消すために香水が発達したほどである。様々な民族のひしめくヨーロッパの多様性を再確認した。

『翳深き谷』は文庫本上下巻に分かれている。上巻はテンポが遅く、物語の行き先が分からない。テーマは猟奇的殺人事件か、宗教的対立か、政治的陰謀か。下巻に入って急展開する。フィデルマが殺人事件の容疑者として拘禁され、法律知識を持たない相棒の修道士エイダルフが事件を解決しなければならない。

この時代は暗黒の中世と呼ばれているが、物語で描かれる裁判手続きはしっかりとしている。現代日本よりも人権意識は高い面もある。裁判を担当するムルガルは国王の特使としてのフィデルマには敵意を示すが、裁判は公正に進める。イングランドの侵略によってアイルランドの法文化が消滅したことは残念である。

この時代には司法権の独立はなく、裁判官は行政官が兼ねているが、問題は裁判官が裁判をする際に個人として独立しているかである。司法が独立していたとしても裁判官が最高裁の官僚機構に従属していたならば意味がない。司法の独立として何が本質的に重要かを気付かせてくれる。


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