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佐藤賢一『象牙色の賢者』の感想

本書(佐藤賢一『象牙色の賢者』文藝春秋、2010年2月10日)はフランス歴史小説を得意とする著者によるデュマ三部作の最後の一冊である。
最初の『黒い悪魔』はフランス大革命期に活躍したアレクサンドル・デュマ将軍が主人公である。次の『褐色の文豪』ではデュマ将軍の息子で、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で有名なアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)が主人公である。締めくくりの本書は大デュマの息子で『椿姫』を代表作にするアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)を主人公とする。
本書は形式及び内容面で前二作と比べて大きな特徴がある。形式面では本書は小デュマの過去を振り返る語りで進行する。内容面では前二作には心躍る冒険活劇があったが、本書では小デュマの内省や父親・祖父・文学・フランス社会などへの観察が一人称の語りで続いていく。
著者の作風として『小説フランス革命』シリーズに登場するロベスピエールのような熱血漢のモノローグがあるが(林田力「【書評】『議会の迷走 小説フランス革命4』の感想」JANJAN 2010年1月31日)、本書の語りはタイトルの賢者らしい落ち着いた深みがある。これは三部作としての統一感は壊されるが、デュマ・フィスの人生や作風に合致する。
小デュマの祖父のデュマ将軍も父親の大デュマも波乱万丈の人生であった。デュマ将軍はフランス革命期の大混乱の中を一兵卒から将軍まで上り詰めた軍人である。数多くの戦場を駆け抜けた人生であった。
大デュマも七月革命やガリバルディのイタリア統一運動を支援するなど作家にとどまらない活躍をした。貧しい子ども時代を送り、ベストセラー作家となってからはモンテ=クリスト城などで散財し、後に破産するという浮き沈みの激しい人生であった。自身の人生も小説と同じように冒険に満ちていた。
彼らの物語が冒険活劇になることは当然の成り行きである。それに比べると、小デュマの人生は作家一筋で地味であった。また、小デュマの作風も大デュマの冒険活劇に比べると私小説風である。その点で深い内省に基づく一人称の語りという展開は小デュマらしさが出ている。
前二作と趣の異なる本書であるが、『黒い悪魔』との共通テーマも存在する。小デュマの語りの中で大きな場所を占めたものが父との葛藤であった。これはデュマ将軍の葛藤でもあった。大デュマにとって幼少時に没した父親・デュマ将軍は憧れの偶像であっても、葛藤の対象にはならなかった。それに比べると『象牙色の賢者』は親子の葛藤という原点に回帰する。三部作を締めくくりに相応しい小説になっている。

初出:林田力「佐藤賢一『象牙色の賢者』の感想」JanJanBlog 2010年5月3日
http://www.janjanblog.com/archives/1099


『革命のライオン』少しの勇気が革命を起こす

本書(佐藤賢一『革命のライオン 小説フランス革命I』集英社、2008年11月30日発行)はフランス革命を描く歴史小説の第1巻である。全国三部会の招集からルイ16世が軍隊をヴェルサイユとパリに集結させ、一触即発の状態になるまでを描く。

著者は東北大学大学院で西洋史学を専攻し、『王妃の離婚』『二人のガスコン』などフランスを舞台とした歴史小説を得意とする作家である。近年は近未来のアメリカを描く『アメリカ第二次南北戦争』、織田信長を女性として描いた『女信長』などのユニークな作品を発表している。その著者がホームとも言うべきフランスに回帰した大作が「小説フランス革命」シリーズである。

本書のタイトルにあるライオンはフランス革命初期の指導者・ミラボーを指す。このミラボーとロベスピエールを中心に物語は進む。本書ではミラボーが革命に傾倒した背景を表では進歩派を気取っているものの、家族には家父長的な暴君であった父への反発として描く(38頁)。

往々にして世の中を変える原動力は個人的な体験に基づく私憤である。記者が不動産問題を市民メディアに記事を発表するようになった契機も東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずに問題物件を騙し売りされたことであった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。

過去を水に流すことを是とする非歴史的な民族性を特色とする日本では、過去を忘れて心機一転する人を度量があると持ち上げる傾向がある。しかし、そのような人間ばかりでは反省も改善も進歩もない。何かを成し遂げるためには原点となった怒りや恨みを持続させることが必要である。

ミラボーはフランス全土に湧き上がる第三身分のアンシャン・レジーム(旧体制)への不満を実感するが、民衆のエネルギーだけでは方向性が定まらず、民衆を導く指導者が必要であると考えていた(47頁)。日本でも封建的な幕藩体制が行き詰った幕末には「ええじゃないか」が各地で発生した。しかし方向付ける指導者を持たなかったために世直しに向けての社会運動にはならず、エネルギーを発散させるだけで終わってしまった。

本書の特色は、表向きは強気な主張をしても、内心では軍隊に弾圧されるのではないかと怯えていた国民議会の議員達の心理を情けないほどリアルに描いていることである。議員達は決してスーパーマンではない。しかし、ほんの少し踏み出す勇気があれば世の中を大きく変えることができる。本書で描かれた革命前夜のフランス社会の行き詰まりは現代の日本に酷似する。強い人間でないとしても信念を持ち続けることが大切であると感じた。

『バスティーユの陥落』、口火を切る勇気

本書(佐藤賢一『バスティーユの陥落 小説フランス革命II』集英社、2008年11月30日発行)はフランス革命を描いた歴史小説の2作目である。本書ではバスティーユ襲撃からヴェルサイユ行進までを扱う。前巻のミラボーやロベスピエールに加え、本書ではパリ市民に蜂起を促したデムーランがフィーチャーされる。

著者の佐藤賢一氏は濃厚な性的表現が多いことで知られるが、これまでのところ「小説フランス革命」シリーズでは抑え気味である。しかし、ミラボーがデムーランを扇動するシーンなどで卑猥な表現が使われている(48頁)。性愛シーンでないにもかかわらず、性的な表現が盛り込まれているところに著者らしさが感じられる。著者の描く人間像は、人間が性の衝動(リビドー)に支配されていると主張するジークムント・フロイトの人間像を想起させる。

パリ市民の政治への不満は爆発寸前であったが、知識人は批判するだけで、自分からは行動しない臆病者ばかりであった。しかし、ミラボーに焚き付けられたデムーランは「武器をとれ」と扇動する。この演説が契機となって、パリ市民は武装闘争に突入する。

私は新築マンションで大手不動産会社と裁判闘争をした経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。裁判を続ける中で同種の被害に遭った被害者にも数多く出会った。その中には行動を起こす意思はなく、愚痴を聞いてくれる仲間が欲しいだけとしか考えられない人もいた。真剣に相談に乗った自分が馬鹿らしく感じられるほどであった。それ故に行動しない知識人に対するミラボーの失望には共感する。革命への口火を切ったデムーランの意義も高く評価する。

前半のバスティーユ襲撃は変革を求める男達の熱い情熱で突っ走る。デムーランの感情の揺れや興奮の高ぶりは滑らかな筆致で書かれ、読者の胸も高揚させる。ところが、封建的特権の廃止宣言や人権宣言では様相が異なる。理想の実現にまい進するロベスピエールと覚めた目で見守るミラボーを対比させているためである。ミラボーの冷ややかな姿勢のために、人類の金字塔とも言うべき人権宣言にも高揚する気持ち一辺倒で読み進めることはできなかった。

ミラボーは議会の独断専行の危険性を以下のように指摘する。「自らの保身に有利な法律ばかりを通過させて、実質的な特権を築き上げて、あれだけ貴族を責めながら、自らが新たな貴族と化すだけだ」(212頁)。これは世襲議員ばかりになった現代日本への痛烈な批判にもなる。

ヴェルサイユ行進では男性達(ミラボー、ロベスピエール、デムーラン)は傍観者に成り下がった。女性を中心としたパリ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス国王ルイ16世をパリに連行した事件である。この事件を本書では支離滅裂な女性達の行動の結果として描いている。混迷を深めるフランス革命の行方が気になる終わり方であった。

『聖者の戦い』怪物タレイラン

本書(佐藤賢一『聖者の戦い 小説フランス革命III』集英社、2009年3月30日発行)はフランス革命を描いた歴史小説の3作目である。著者はフランスを舞台とした歴史小説を得意とし、『小説フランス革命』シリーズは全12巻を予定している。本書ではヴェルサイユ行進などの民衆の実力行使が一段落し、その後の憲法制定国民議会の混迷を描く。

本書では新たにタレイランが主要人物として登場する。タレイランは由緒を辿ればフランス王家に匹敵するほどの大貴族の生まれである。革命当時は自身もオータン司教として特権身分の座にあった。

旧体制を代表する立場にあるタレイランはフランス革命では革命を支持する側に回った。その論理を本書は興味深く描いている。絶対王政下では大貴族であっても王の家臣でしかない。しかし、自身が制定に参加した人権宣言で人間は平等とすることで、誰もが一番になれる時代が到来したとタレイランは考えた(16頁)。「究極の貴族主義は革命をこそ歓迎する」との発想にはタレイランの怪物ぶりを示している。

このタレイランは自らも聖職者でありながら、教会財産の国有化や聖職者の特権廃止などを強引に進める。それに対し、聖職者側は反発し、容易には進まない。表題の「聖者の戦い」は、この対立を示している。進退窮まったタレイランはミラボーを仲立ちとして抵抗勢力の首領・ポワジュランと話し合いの場を持つ。

革命そのものには反対ではなく、宗教としての神秘性を維持したいポワジュランと、それを理解しようとしない現実主義者のタレイランの噛み合わない議論が興味深い。ここではミラボーが間に入ることで妥協点を見出せた。しかし、相手の理念を理解しないことからの行き違いで、協調できる者が対立することも現実には起こりうる。

このタレイランはフランス革命期よりも、ナポレオン失脚後のブルボン復古王政期の外務大臣として歴史に名を残している。当時のフランスはナポレオン侵略戦争の敗戦国であった。にもかかわらず、彼はブルボン王家も被害者とすることで、フランスの損失を最小限にとどめた。

タレイランを名外相とする意識は西欧世界に共通する外交感覚であり、今日の国際社会の価値観に続いている。この外交感覚に則るならば、第二次世界大戦の侵略国・敗戦国であり、連合国(戦勝国)の価値観を受け入れた日本政府の高官(田母神俊雄・航空幕僚長)が侵略戦争を正当化する主張をしたことは、本人の信念の是非は別として、国際社会における日本の国益を大きく損なうものであったことは確かである。

後世には名外相と称えられるタレイランも本書では自尊心ばかりが肥大化した存在である。発想はユニークであるものの、他者を説得するという感覚に乏しく、ミラボーの助け船で何とか多数派工作に成功できた状況である。今後、タレイランが名外相としての片鱗を見せるのかも『小説フランス革命』シリーズの見どころの一つである。

第1巻『革命のライオン』で描かれたアンシャン・レジームの行き詰まりは閉塞感漂う現代日本のアナロジーと感じられた。同様に本書での国家の交戦権についての議論も、憲法の謳う徹底した平和主義が骨抜きにされつつある日本において参考になる内容となっている。

憲法制定国民議会とは文字通り憲法を制定するための議会である。そこでは宣戦・講和の権限を国王が持つべきか、議会が持つべきかで対立した。右派(保守派)は「防衛は急を要する」ことを理由に国王大権に属すると主張し、左派(愛国派)は「戦争をするか、しないか、それを決めるのは国民」として議会の権限であると主張した(161頁)。

この議論が行われた時期はフランスの友好国であるスペインとイギリスが一触即発の危機にあった。そのため、艦隊に出航待機命令を出し、イギリスを牽制した国王政府への支持に議会内も傾いていた。これに対して、左派のラメット議員は国王が議会に諮らずに派兵の準備を進めた手続き上の問題を指摘する。状況に流されず原則論から問題点を明確にする姿勢は付和雷同しがちな日本社会にとって眩しい存在である。

左派が国王の交戦権に反対する論理構成が興味深い。国王が宣戦・講和の権限を持てば、国王は自分の意思で軍隊を動員でき、その軍隊が再び国民を弾圧することに使われる可能性があるとする(163頁)。ロベスピエール議員は「戦争とは常に専制君主を守るための営みだ」と喝破する(166頁)。

平和主義は空想的と非難されることがある。しかし、有事に軍隊が国民を守ってくれるとは考えない点で真の平和主義者は現実主義者である。現実問題として近代憲法は最大の人権侵害の主体を自国政府と位置付けている。国家が戦争を行わないようにすることは理想論ではなく、権力の害悪を直視した現実論である。

日本国憲法が平和主義を憲法の3原則の一つにまで高めた理由は平和がなければ国民主権も基本的人権も画餅に帰すと考えたためである。ここに日本国憲法の斬新さがあるが、戦争と平和の問題はフランス革命の時代においても内政上の争点であり、民主主義や人権に直結する問題であると理解できた。

『議会の迷走 小説フランス革命4』の感想

本書(佐藤賢一『議会の迷走 小説フランス革命W』集英社、2009年9月30日発行)はフランス革命をテーマにした歴史小説『小説フランス革命』シリーズの第4巻である。本書ではナンシー事件からミラボーの死までを対象とする。
著者は大学院で西洋史学を専攻し、フランスを舞台とした歴史小説を得意とするが、平板な歴史叙述ではなく、登場人物の熱いモノローグが特徴である。『小説フランス革命』シリーズでもミラボーやロベスピエールなどアンシャン・レジームを打破し、革命を成し遂げようとする熱い人物が登場する。
しかし、この巻の前半では俗物的なモノローグが目に付く。「武器を取れ」の演説で市民に放棄を促したデムーランは恋人リュシルとの幸福な結婚生活を何より大切にする小市民的発想に落ち着いた。タレイランに至っては名門の生まれの人間として他人に頭を下げるのは嫌だという子供じみた考えから後先考えずに行動する。
彼らは自分達の考えが俗物的であることを自覚しつつも、理屈をこね回して正当化する。その思考過程がモノローグとして書かれるため、気持ちが高揚するような読後感ではない。しかし、万人がカッコいい人間ばかりではないという社会の現実を反映したリアリティがある。
後半になるとミラボーとロベスピエールという2人の英雄の想いが交錯し、著者らしさが出てくる。ミラボーは王族の亡命を禁止する法案に反対する。王族にも人権はあり、亡命する権利があるためである。ジャコバン派は反革命の脅威がある有事であることを理由に亡命禁止法を正当化したが、ミラボーは「独裁者が好んで持ち出す理屈が、世の治安であり、社会の安寧である」と批判した(203ページ)。これは「テロとの戦い」を名目に人権の制約が正当化された現代への警鐘にもなる。
史実ではロベスピエールは恐怖政治に突き進むことになる。この巻でなされたミラボーとロベスピエールの対話やミラボー死後のロベスピエールの感傷は、その後を暗示していて興味深い。まだ先になるが、著者が恐怖政治をどのように描くのかも楽しみである。

『王の逃亡』人を馬鹿にした嘘への怒り

本書(佐藤賢一『王の逃亡 小説フランス革命X』集英社、2010年)はフランス革命をテーマにした歴史小説『小説フランス革命』シリーズの第5巻である。本書では国王ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てたが失敗に終わったヴァレンヌ逃亡事件を扱う。本書の大部分が国王一家の逃亡過程に割かれている。

本書の特徴は、その大部分を占める逃亡過程の視点人物をルイ16世としていることである。伝統的に国王一家の中で最も個性的な存在として描かれてきたキャラクターは王妃マリー・アントワネットである。ルイ16世はマリーのわがままに振り回される人物として描かれる傾向にあった。

これに対して、本書ではマリーはルイ16世の目から描かれるのみで、彼女が何を思い、何を考えているかは分からない。本書でもルイ16世がマリーを意識し、迎合する傾向は見られるものの、むしろルイ16世にとっては守るべき家族と認識している。家族を守るために一家の長としてルイ16世が考え、判断し、行動している点がユニークである。

主体的なルイ16世を描いた点で異色であるが、ルイ16世はミラボーやロベスピエールのような英雄肌の人物でも、タレイランのような怪物でもない。世評にあるような愚鈍な暗君ではないとしても、並みの人物である。万難を排して自らの信念を貫き通すよりも、逃亡という行動が正しいか迷い、揺れ動いている。逃亡が失敗に終わったことも納得できる。

ルイ16世を視点人物としたことにはフランス革命の物語を進める上で重要な効果もある。ルイ16世の目を通して、革命の担い手である第三身分の中に生まれている階級対立を改めて整理する。ブルジョアと貧民(サンキュロット)の対立である。これは以前の巻でも度々言及されてきた対立軸であるが、革命の部外者であるルイ16世に認識させることで、改めて読者に印象付けることに成功した。

意図したものか否かは不明であるが、『小説フランス革命』シリーズは日本の社会状況の鏡となっている。革命前夜を描いた『革命のライオン』ではアンシャンレジームの行き詰まりが、閉塞感漂う出版当時の日本社会の状況を想起させた。本書で描かれた革命後の人々の不満やイライラは、歴史的な政権交代を果たしながら失望をもたらした今日の日本政治を連想させる。

逃亡した国王一家であったが、ヴァレンヌで捕捉され、パリへ連れ戻される。迎え撃つ市民の側の物語ではデムーランが視点人物となっている。ロベスピエールやダントンのような激烈な人物を視点人物としていないところが面白い。デムーランは愛妻リュシルとの家庭生活という小市民的幸福を志向し、政治から足を洗おうと思い悩んでいた。

ところが、反動化した三頭派は「国王は誘拐された」という嘘の発表でヴァレンヌ事件を穏便に済ませようとした。これにデムーランは激怒する。人を馬鹿にしたような嘘を本気で通用させようとしているからである(282頁)。

記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して新築マンションをだまし売りされた(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。だまし売り発覚後の東急不動産の言い訳が「隣地が建て替えられてキレイになった方が喜ぶ人もいる」であった。人を馬鹿にした嘘を押し通す不誠実さへの怒りに共感する。

デムーランは政治の世界に戻る意思を固める。かつてはミラボーが存在していた。しかし、ミラボーの死後は大衆と共に怒り、そして導き、行動する人材が足りないと痛感したためである(290頁)。

そのミラボーは前巻『議会の迷走』で死去し、その弟子を任ずるロベスピエールの熱い決意が最後に描かれた。本書の冒頭ではミラボーを失った国王の痛手を描き、それが逃亡の誘因となる。そして最後でもデムーランによってミラボーが想起される。『小説フランス革命』シリーズにおけるミラボーの存在感の大きさが実感できる。

『フイヤン派の野望』ジャコバン・クラブの分裂

本書(佐藤賢一『フイヤン派の野望 小説フランス革命VI』集英社、2010年)はフランス革命を描く歴史小説の第6巻である。この巻ではフランス革命を進めてきたジャコバン・クラブが分裂する。
穏健派のフイヤン派は急進派を弾圧する。権力を掌握したかに見えたフイヤン派であったが、革命を推し進める時代の流れは止まらない。ラストはフイヤン派の凋落とロベスピエール独裁の方向性を予感させる。純粋で正義感に燃えた熱い人物として描かれてきたロベスピエールがどのようにして冷酷な独裁者に変貌するのか、興味は尽きない。(林田力)

『傭兵ピエール』弱さと熱い感情

本書(佐藤賢一『傭兵ピエール』集英社、1996年)は、百年戦争下フランスの救世主ジャンヌ・ダルクの活躍を傭兵隊長の目から描いた歴史小説である。略奪が横行する当時の悲惨な社会状況も描かれる。人間としての弱さと熱い感情を直視した人間ドラマになっている。(林田力)

『預言者ノストラダムス』歴史上の預言者を描く

本書(藤本ひとみ『預言者ノストラダムス 上下』集英社、1998年)は有名な預言者のノストラダムスを描いた歴史小説であるが、実質的な主人公はノストラダムスとカトリーヌ・ド・メディシスの二人である。むしろノストラダムス以上にカトリーヌが物語の中心になっている。カトリーヌと言えば権謀術数に長け、フランス宮廷を操った人物である。しかし、本書では国王の摂政になる前の段階である。王妃でありながら国王の愛も権力も愛人のディアヌに奪われ、宮廷では商人(メディチ家)出身と蔑まれている設定である。しかし、彼女には意思の強さがあり、その点がカトリーヌの歴史的イメージと重なる。
ノストラダムスについては神秘的な預言者よりも、カトリーヌに助言する策士的な人物として描かれる。ノストラダムス自身にも名をあげたいという野心があり、一方で異端として告発されることに怯えている存在である。数百年後を見通した預言者ではなく、あくまで当時のフランス社会に生きたノストラダムスを描いている。
物語の背景は宗教改革に端を発したカトリックとプロテスタントの対立がである。中世的な預言者のノストラダムスと近代の幕開けとなった宗教改革が同時代であることには意外感がある。フランスではカトリックを信奉する国王がプロテスタントを弾圧し、双方の信者が略奪・暴行しあう内戦状態となっていた。ブロテスタントの弾圧者とのイメージがあるカトリーヌも本書では国家の分裂に心を痛めている。現代にも通じる宗教対立の凄惨さや不毛さが描かれる。
野心家だったノストラダムスが身近な幸せを重視するようになった心情の変化が涼やかな読後感をもたらした。(林田力)

佐藤賢一と藤本ひとみ〜フランス歴史小説から幕末物へ

読書の秋の到来である。秋の夜長は時代小説を読みふけるのもいい。ここでは特徴的な二人の歴史小説家を対比したい。佐藤賢一と藤本ひとみである。共にフランス歴史小説をメインとする作家だが、奇しくも最近は共に幕末物を出している。
『王妃の離婚』で第121回直木賞を受賞した佐藤は東北大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士課程単位取得満期退学という経歴を有する。『預言者ノストラダムス』『皇帝ナポレオン』で知られる藤本もナポレオン史研究学会会員やブルゴーニュワイン騎士団騎士などの肩書を持つ。二人とも歴史への造詣の深さを活かし、時代の雰囲気や歴史的人物の心情を現代に蘇らせている。加えて佐藤は男性的な性愛の描写、藤本は女性的な恋愛要素が濃厚という点で好対照をなしている。
その二人の作家が奇しくも幕末物、しかも東北の佐幕藩の視点に立った小説を刊行している。佐藤は庄内藩と庄内藩御預かりの新徴組を描いた『新徴組』であり、藤本は会津藩を舞台とする『幕末銃姫伝 京の風 会津の花』と『天狗の剣 幕末京都守護職始末』である。幕末物は歴史小説の人気ジャンルであるが、二人にとっては単なる便乗ではない。
佐藤は20世紀米国のギャングを描いた『カポネ』、織田信長が女性だったという大胆な仮説に基づいた『女信長』、内戦が勃発した米国を描く近未来小説『アメリカ第二次南北戦争』など作品の幅を広げており、新たに幕末物が加わることに違和感はない。しかも山形県鶴岡市出身の佐藤にとって庄内藩は郷土史となる。
これに対して藤本の幕末物は意外性が強い。しかし、作品中で登場人物がナポレオンの軍略について論じており、少しだけフランス史との接点が顔を出している。佐藤のデビュー作『ジャガーになった男』はヨーロッパやペルーで活躍した日本人武士の物語であり、日本史と西洋史の交錯点にも豊かな小説のネタがある。
二人の近刊の共通点は幕末物という点のみならず、歴史上の敗者である東北の佐幕藩に光をあてていることである。それも日本人的な判官びいきの視点ではなく、佐幕藩の進歩性に着目する。『新徴組』で描かれた庄内藩は、いち早く近代的軍制を整え、戊辰戦争でも官軍を撃破した。『幕末銃姫伝 京の風 会津の花』は西洋式砲術を身に付けた山本八重(後の新島八重)と兄の覚馬が主人公である。
一方で敗者を極端に美化することもない。両作品とも佐幕派の主流に位置する守旧派の救いがたいほどの頑迷さと無能と事なかれ主義を直視する。『新徴組』では将軍の直臣であることを鼻にかける旗本に泣かされる。『幕末銃姫伝』では槍や刀を信奉する守旧派が会津藩の主流に位置し、八重や覚馬の砲術は十分な活躍の機会を得られなかった。佐幕藩の視点で描くからこそ、逆に幕府は滅びるべくして滅びたという実感を強くする。
この革新的なヒーローが自陣営の守旧派に足を引っ張られて悲劇的な結末に終わるという構図は二人にとって馴染みのものである。二人ともジャンヌ・ダルクの小説を出しているためである。佐藤には『傭兵ピエール』、藤本には『ジャンヌ・ダルク暗殺』がある。
もともと佐藤は『赤目−ジャックリーの乱』(英仏百年戦争中の農民反乱)、『カエサルを撃て』(ローマに対するガリアの戦い)、『剣闘士スパルタクス』(ローマでの剣闘士奴隷の反乱)、『オクシタニア』(異端カタリ派)と敗者を主人公とした作品が多い。これらは敗者でありながらも清らかな印象を残している。『新徴組』にも爽やかな読後感がある。
これに対して藤本の『幕末銃姫伝』や『天狗の剣』には投げっ放しの印象がある。『幕末銃姫伝』ではタイトルの「銃姫」とは裏腹に戊辰戦争での活躍は少ない。また、山本八重は明治時代の活躍が有名であるが、それは描かれない。『天狗の剣』は副題の「京都守護職始末」とは裏腹に京都守護職としての活躍も戊辰戦争も登場しない。
藤本は『ウイーンの密使―フランス革命秘話』でも作品内で事件を完結させず、ヴァレンヌ事件についての読者の歴史知識で補完させる終わらせ方をしている。この点で藤本の幕末物にも藤本らしさが表れている。

林田力(はやしだ・りき)
ライター。漫画・ドラマ・不動産・裁判・住民運動・市民運動などジャンルを問わず活動中。著書に『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社)。

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