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『蘭陵王』の感想

初出:林田力「【書評】『蘭陵王』の感想」JANJAN 2010年3月7日

本書(田中芳樹『蘭陵王』文藝春秋、2009年9月30日発行)は中国の南北朝時代を舞台にした歴史小説である。著者はスペースオペラ『銀河英雄伝説』やライトノベル『創竜伝』で有名であるが、中国史にも造詣が深く、著作には中国の歴史小説も多い。

日本人の中国史への関心は非常に偏っている。三国志への関心が圧倒的に高く、残りが春秋・戦国時代で占められると言っても過言ではない。他は遣隋使・遣唐使や元寇、日中戦争のように日本史との関係で語られる。中国の悠久の歴史を踏まえると、この状況は非常にもったいない。

これは著者の問題意識でもあり、伝説的な女性武将・花木蘭(ディズニー映画「ムーラン」のモデル)を題材にした『風よ、万里を翔けよ』、中国最大の英雄・岳飛を描いた古典「説岳全伝」の編訳『岳飛伝』などを発表している。本書の主人公・蘭陵王(高長恭)も日本では雅楽・蘭陵王(陵王、蘭陵王入陣曲)以外には知られていない悲劇の武将である。

その蘭陵王の半生を軸に隋の統一へと向かう南北朝時代末期の動乱を描く。本書の特徴は正史に依拠している点である。正史とは国家が正式に編纂した王朝の歴史書である。編纂当時の王朝の正当性を示すために、前の王朝の君主が必要以上に悪く書かれることもあるとされる。

本書でも引用した正史により、蘭陵王が仕えた北斉の君主の暴虐や佞臣の専横がウンザリするくらいに書かれている。史料批判の立場からは北斉を貶めるための記述と割り引いて考えるべきとなるが、その記述には編纂時の王朝を賛美する目的よりも、権力そのものの醜悪さへの反感が感じられてならない。中国の史書には諫言によって理不尽にも罰せられた司馬遷(『史記』編纂者)に象徴される反骨精神の伝統がある。それ故にこそ多くの作品で権力に批判的な記述を繰り返している著者が正史を積極的に引用していると考える。

本書では正史に依拠することで、日本で使われている故事成語の誤解も指摘する。たとえば大本営発表で使われた「玉砕」という言葉は「死んでも節操を守る」という意味であって、「敗北」や「全滅」の意味は全くない(84ページ)。日本人の歴史歪曲や歴史美化は世界から批判されているが、中国人の歴史への真剣さに学ぶべきである。

本書は正史に依拠した「堅め」の歴史小説である一方で、道姑(女道士)・徐月琴という架空のヒロインを登場させることで「軽さ」も出している。徐月琴は山中で修行していた設定であるため、社会の動きを知らない。そこで徐月琴を都に呼び寄せた父親の徐之才が北朝の歴史を説明する。これは南北朝時代の歴史に疎い読者に対する説明にもなっている。

有能な皇族や臣下が暴君の嫉妬や奸臣の讒言によって次々と虐殺される暗澹たる状況の中で、明朗でユーモア精神に富み、辛辣な皮肉も口にする徐月琴の存在は物語を華やいだものにする。蘭陵王は知勇兼備の武将であり、外敵には果敢に戦った。しかし、国内の政治の乱れには無力であり、改善しようともしなかった。そのために蘭陵王のみの視点では、やりきれなさが残る。徐月琴が言いたいことを言うことで、現代人も楽しめる小説に仕上がった。

『リストラ屋』の感想

本書(黒木亮『リストラ屋』講談社、2009年7月1日)は空売り専門の投資ファンドとリストラ経営者の攻防を描いた経済小説である。空売り屋とリストラ屋の対決となると、資本主義の寄生虫として「どっちもどっち」の感があるが、本書における善悪の位置付けは明確である。
主人公(北川靖)は空売り屋である。インサイダー取引に該当しないように注意するなど法令遵守意識があり、ニューヨークの黒人街ハーレムで慈善活動を行う人間味ある人物として描かれる。これに対し、リストラ屋(蛭田明)は株価を上げることしか意識がない拝金主義者である。
企業価値を損なうリストラを行って目先の株価を上げ、自らはストック・オプションで高額の報酬を得た上で、当該企業を他社に高値で買収させてサヨナラする。まさに企業を食い物にするハイエナである。そのようなリストラ屋への義憤が主人公の原動力にもなっており、読者は主人公側に容易に感情移入できる。
優良工場を閉鎖して中国に集約する。その結果、製品の品質が低下し、売上げが落ちる。明らかにビジネスとしては失策である。ところが、それが株式市場では評価され、株価が上昇する。これは人間性や社会正義の点から批判できるだけでなく、経済原理としても非効率である。このような現代資本主義の欠陥が本書で明らかにされる。
この欠陥はアングロサクソン型資本主義に起因すると見なされる傾向にある。由来の研究としては誤りではないとしても、ここには落とし穴がある。日本人にとって「日本社会の根本的な問題ではない。アメリカに染まり過ぎたことが原因」と心地よい責任転嫁の口実に悪用できてしまうためである。
これに対して、本書の設定はユニークである。リストラを断行する主体は日本企業で、経営者の蛭田も日本人である。蛭田は英語も十分に話せない人物で、アメリカかぶれではない。反対に日本社会に根強く残る差別意識の被害者としてルサンチマンの鬱屈した人物である。その彼が断行したリストラによって北米支社は縮小され、多数のアメリカ人従業員が路頭に迷う。うつ病やアルコール中毒になるなど多くの元従業員の人生を破壊した。ここでは加害者は日本人であり、被害者はアメリカ人である。
強欲資本主義が英米に端を発したとしても、英米とは比較できないほど人権意識や民主主義が未熟な日本で適用したならば英米以上に悲惨な結果になる。その悲惨さは住む場所も失う派遣切り問題が象徴する。帝国主義や植民地支配が欧米に由来するとしても日本の戦争犯罪を相対化できないように、強欲資本主義も日本の資本主義の病理として直視する必要を実感した。(林田力)

【書評】『ミート・ザ・ビート』の感想

初出:林田力「【書評】『ミート・ザ・ビート』の感想」JANJAN 2010年3月14日

本書(羽田圭介『ミート・ザ・ビート』文藝春秋、2010年2月10日発行)は表題作と「一丁目一番地」の2篇の小説を収録した書籍である。表題作は予備校生を主人公とし、地方都市の若者の生活を描いた小説である。第142回芥川賞候補作となった。

予備校生ベイダーは自動車生活が当然という地方都市で、受験勉強しながら建設現場のアルバイトもしている。受験勉強よりもバイト仲間との交友に比重が傾きつつある生活を送っている。ホストもしているバイト仲間のレイラから軽自動車のホンダ・ビートを譲られることで彼の日常が変わっていく。

日本には一流大学を出て一流企業に就職することを目指す風潮があった。ベイダーは、そのレールに乗ることを目指している存在である。そのような固定的な価値観では、建設現場で働くフリーターであるバイト仲間は負け組である。

しかし、昼間は現場でのアルバイトで稼ぎ、夜はホストクラブで稼ぐレイラは既に金も女も手に入れている。ベイダーは「大学進学後、優良企業に就職し、金を得てから女も得るなんていう回りくどい道のり」の長さを思ってウンザリする。たとえ生涯賃金は少なくても、興味を持った仕事をぱっと始め、良いと思った女性にすぐに話しかけられる初速の速さに憧れる(17頁)。

ここには若年層の心理が見事に表れている。自分達の過去の体験でしか考えられない大人とは異なる。しかも今や一流大学を卒業しても就職できるとは限らない、一流企業に就職しても働き続けられるとは限らない時代である。勉強に目的意識を持てないとしても無理はない。大人が自分の学生時代を引き合いに出して、学生に「勉強しろ」と言ったとしても、若年層には響かないことを認識する必要がある。

同じ著者の過去の作品「走ル」は高校生が自転車で北へ向かうロード小説であった。本書に同時収録された「一丁目一番地」の主人公はジョギングする。疾走感が著者の小説の特徴になっている。本作品もビートを走らせている時の描写が細かく、クルマにかける青春小説の趣がある。

一方で日常から離れてクルマに没頭する訳でもないというところが作品世界の奥深いところである。ベイダーにとってビートはバイト仲間との交友の幅を広げるものであった。「走ル」の高校生も学校をサボって北へ向かうが、新たな出会いがある訳ではなく、高校の友人と携帯で連絡をとっている。非日常的な疾走間と繰り返される日常とのつながりという、相反する世界が同居した作品である。

『ミュージック・ブレス・ユー!!』ポップでキュートな青春小説

本書(津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!!』角川書店、2008年6月30日発行)は「音楽について考えることは、将来について考えることよりずっと大事」な高校3年生アザミを主人公としたポップでキュートな青春小説である。作中で登場人物が実在のバンドを評しており、エモーショナル・ハードコアなどの分野が好きな人にも薦められる。

高校3年生と言えば進路について真剣に考えなければいけない時期である。しかし、アザミはやりたいことが見付からず、考えようとする意欲も湧かない。好きな洋楽(ロック)を聴いてばかりという毎日であった。

音楽でなくても、小説だったり、漫画だったり、映画だったりと対象は様々であるが、受験勉強をしなければならないのに趣味に没頭してしまう経験は多くの人にある。やりたいことと、やらなければいけないと周囲から言われていることの乖離や、周囲から取り残されることへの焦燥感は世代を超えて共感を得られる。

一方で現代の高校生世代に特有の要素もある。インターネットや携帯電話など情報技術の発達である。本書でも音楽の趣味を共有するアザミはアメリカの少女アニーのブログを読み、英文メールでやり取りしている。

アザミの聴く洋楽は同級生では聴く人が少ないマニアックな部類に属するが、インターネットを通すことで、地域的な壁を越えて、趣味や感性を同じくする人とコミュニケーションできる。これが人間関係・交友関係の限定されていたインターネット普及以前とは大きな相違である。「今の子どもは理解できない」という類の言説を聞くことがあるが、子どもの世界はITの発達で拡大しており、昔の感覚では理解できなくて当然である。

アザミはアニーのブログでアニーの友人の溺死を知って大きな衝撃を受ける。布団を頭から被ってしまい、何をしたのか、いつ眠ったのかも覚えていないほどの衝撃であった。リアルで接している家族や友人はアザミの変貌を理解できない。子どもが理解できないと嘆くよりも、インターネットを通じて異なる世界にも生きているという点を理解することから始めるべきである。

物語の縦糸がロックならば、横糸は同級生チユキとの友情である。二人は同級生を傷つけた男子生徒に報復する。後に露見しそうになった時、アザミは最後までチユキを庇おうとした。何故、そのようなことをしたのか本人が後で考えても分からないという本能的な正義感からの行動であった。

大切なものが傷つけられたために抱く激しい憎しみ。たとえ自分が不利になったとしても、信念を貫くために戦う正義感。これはまさに青春である。記者(=林田)はマンションのだまし売り被害に遭い、売り主の東急不動産(販売代理:東急リバブル)と徹底的に争った経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。

故に純粋な正義感に基づいた真っ直ぐな怒りには共鳴するし、二人の友情が羨ましくもある。本書は無意味に浪費しているようでいて、懐かしく愛おしい、かけがえのない青春の日々を生き生きと描いた作品である(林田力「『ミュージック・ブレス・ユー!!』ポップでキュートな青春小説」JanJanBlog 2010年5月20日)。

『ザイデンシュトラーセン2 鉄工少年のもとめた絹の道』を読んで

本書は生きる意味を考え、求め続けた著者による自伝小説である。
タイトルのザイデンシュトラーセンはドイツ語で絹の道という意味で、地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが中央アジアを横断する交易路を命名した言葉である。日本では英語のシルクロード(Silk Road)として人口に膾炙している。本書では人の成長過程(道)をシルクロードに喩えている。
前著『ザイデンシュトラーセン 私のもとめた絹の道』では極貧生活の中でも画才を伸ばしていく幼馴染み「トムちゃん」(蓮尾力氏)を中心とした。これに対し、本書では著者自身である「ダイちゃん」にスポットライトをあてる。但し「畏友の外遊」のようにトムちゃんを主役した章もある。
本書はダイちゃんの半生をダイちゃんの生きてきた時代に重ね合わせて叙述する。「日本の敗戦後から今日に至るまでを、社会情況を背景に端的に描いてみたい」(583頁)というのが著者の思いである。太平洋戦争や戦後の社会状況、学生運動やベトナム戦争など時代状況を間に挟みながら物語は進行する。その意味でダイちゃんの人生は日本の戦後史の一部である。
一方で社会状況の描写は、時代が下るほど薄くなっている。時代が下っても、その時々で社会的な大事件は起きているが、国民共通の経験や関心事というものが限りなく少なくなったためと考える。だからダイちゃんも社会状況に拘束されずに自らの絹の道を追求することができる。
実際、本書の力点は主人公の精神の遍歴にある。とりわけ人を傷つけたことに対する後悔と反省を正直に描いている。中でも印象深いものは、日本社会で民族差別に苦しむ在日朝鮮人とのエピソードである。
ダイちゃんは大学生の頃に、成績は優秀ながら差別に苦しむ朝鮮人の女子高生に対し、「気にすることではない」と言った。本人は善意から、励ましのつもりで発言したが、差別を気にしている当人に対しては残酷な言葉であり、深く傷つけてしまった(232頁)。
しかし、ダイちゃんの立派な点は後悔の念を引きずり続けている点にある。教師となった後、ダイちゃんは同僚との飲み会の場で、上記エピソードを語る。これに対し、同僚教師から「その事実を大いに気にしていくべきです」「その問題を真正面から見詰めて一緒に闘っていきましょう」と相手と同じ視線に立って生きていく意志を表明すべきと指摘された(335頁)。
過去を水に流すことを是とする日本社会において成長というと「過去に囚われてはいけない」「過去は忘れて前に進むべき」というような発想が生じがちである。しかし、都合の悪い過去をリセットするスタンスでは真の成長はありえない。
本書はダイちゃんの失敗談ばかりと並んでいると言っても過言ではない。それも笑って済ませられるような軽いものではなく、人を傷つけてしまった重たいものである。その経験を忘れることなく直視し続け、自伝小説において赤裸々に語る著者の姿勢に敬意を表したい。(林田力)

『関野昂 著作選2 機巧館殺人事件』を読んで

本書は「推理小説の形態を借りた思考実験的幻想哲学小説」と紹介される作品である。タイトル「機巧館殺人事件」にしても、探偵と刑事が訪問した居館で連続殺人事件が発生する筋書きにしても、推理小説そのものである。機巧館という外界から途絶した環境で次々と殺される状況はクローズド・サークルである。
本書は刑事・支倉俊之の視点で語られる。謎解きをするのは探偵・布川京太郎である。ちょうどワトソン博士とシャーロック・ホームズの関係に似ている。しかし、ワトソンが冷静な観察者に徹しているのに対し、支倉は幻覚や夢を見たり、事件発生直後に気絶してしまったりと観察者としては失格である。実際のところ、支倉は自分自身のことも正確に認識できていない。空想と現実の境界が曖昧であり、幻想的な作品になっている。
推理小説は犯罪の謎解きがメインである。従って、どれほど有能な探偵でも犯罪を抑止することはできない。読者が名探偵に期待することは犯罪を食い止めることではなく、トリックを解明することだからである。このような価値観は現実社会においては許されざるものであり、そこに推理小説の現実との矛盾がある。この矛盾の穴埋めとして、多くの推理小説において探偵は犯罪を憎む正義感の強い人物として描かれる。
しかし、本書の探偵・布川には、その種の正義感は見られない。殺人が起きることを不可避の運命とさえ認識しているように見える。多くの推理小説と同様、最後に布川は真犯人と対面し、推理によって解明した連続殺人の謎を明らかにする。
ここでは真犯人の異常心理を明らかにすることに力点が置かれている。真犯人が誰か、どのようなトリックが使われたかという点は、あっさりと進む。ところが犯行に至るまでの心理の解明が非常に長い。布川の台詞は現実の会話ではあり得ない様な長文が続く。哲学書を読むような難解さがあり、読み進めるのには時間がかかった。
著者にとっては心理を説明したいがために連続殺人を描く必要があったものと思われる。著者の哲学的思考を発表する形式として推理小説での謎解きを借用している。その意味で本書は思考実験であり、哲学小説である。
本書は著者が小学校高学年の頃から執筆した作品である。これだけの文章をローティーンで書けることに先ず驚かされる。著者は2003年8月24日に14歳で自らの命を絶った。本書は父親の編集による遺稿である。
末尾の「編集者による解題」を読むと父親が息子の作品を実に深く読み込んでいることが分かる。遺稿を出版することだけでも簡単なことではない。親子の断絶が指摘されている中で、これほどまでに親身な理解者に恵まれて著者は幸せであると感じた。(林田力)

執着心のなさと悔恨『天地人』

本書(火坂雅志『天地人 上下』日本放送出版協会、2006年)は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・直江兼続を描いた歴史小説である。本書は2009年のNHK大河ドラマの原作でもある。

本書において直江兼続は上杉謙信に師事し、上杉家の執政として主君・景勝を支えた。利益のためには主君を裏切り、親兄弟で争うことが常態化した戦国乱世にあって、兼続は謙信の教えに従い、義を貫き通した。

圧巻は世に名高い直江状である。豊臣秀吉没後、天下への野心を顕わにした徳川家康が上杉家に「謀反の疑いあり」と言いがかりをつけた。これに対し、兼続は「景勝が間違っているのか、内府さま(家康)に表裏があるのか、世の評判が決めましょう」と返書(直江状)で毅然と反論した(下巻288頁)。豊臣恩顧の大名でも天下の形勢を考えて家康になびく人が少なくない状況で、ここまで言い切る兼続には清々しさが感じられる。

しかし、関が原の合戦で徳川方の勝利が定まると、兼続は徹底抗戦を叫ぶ主戦派を抑え、上杉家を存続させる道を選ぶ。その執着のなさは驚くべきものである。この兼続の「変心」も本書では義のための戦いとして一貫性をもって描かれる。それは兼続の薫陶を受けた真田幸村の言葉に集約される。幸村は義という目標のためなら「たとえ泥水を舐めてでもしぶとく生き抜いていく」と語る(下巻190頁)。

一方で、これまで戦ってきた人からは「何のための戦いだったか」と不満が出ることも当然である。兼続の方針転換は裏切りと受け止められかねない。主人公である兼続に肯定的な本書でも、兼続が信頼していた実弟の離反という形で不満の声を代弁している(下巻356頁)。

結果的に兼続の夢は挫折した。そこには兼続にはコントロールできない事態があったことは確かである。石田光成の挙兵も敗北もあまりにも早すぎた。また、主君景勝は後退する徳川軍への追撃を許さなかった。これらが異なれば歴史は変わっていた筈である。

しかし本人には如何ともし難いこととはいえ、見通しを誤ったことや結果に対する責任は存在する。本書の末尾では晩年の兼続の心中を「兼続の胸に去来するのは、ほろ苦い悔恨の想いであったろう」と表現する(下巻417頁)。

本書を原作とした大河ドラマではウェブサイトに以下の紹介文を掲載していた。

「激しい戦国時代にあって、自らの理想と、大切な人の幸せのために強く生き抜き「日本の品格」を守り通した兼続の、波乱万丈の人生を描いていきます。」

兼続が「日本の品格」を守り通したとするが、義のために徳川と戦った上杉家が関が原の合戦後に臣従することが品格になるのだろうか。義のための戦いとは一回でも意地を見せればいいという程度のものなのだろうか。

これを品格とすることには抵抗があるが、兼続の変わり身の早さは日本社会では大衆受けしそうである。かつて日本は無謀な侵略戦争を推し進め、敗色が濃くなっても、「進め一億火の玉だ」と徹底抗戦を掲げ続けた。それが連合国に無条件降伏した途端、経済優先の国づくりを進める方向に転換した。戦時中は鬼畜と罵った米国を「最も強固な同盟国」と恥ずかしげもなく呼ぶことに躊躇しない。

「日本の品格」を守り通した人物と兼続を持ち上げることで、日本人の無節操な性向の正当化に利用されてしまうならば作品にとっても社会にとっても不幸である。過去と向き合い、「ほろ苦い悔恨」を抱き続けた兼続と、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むだけの存在では天と地の差があるからである。

不寛容への怒り『秘密の巻物』

本書(ロナルド・カトラー著、新谷寿美香『秘密の巻物―イエス文書に書かれていたこと』イースト・プレス、2008年10月1日発行)は、イエスの自筆文書とみられる巻物をめぐるミステリーである。著者はアメリカのラジオ番組のパーソナリティーであり、プロデューサーであり、脚本家でもある人物で、本書は著者の処女小説である。

主人公はイスラエルを休暇で訪れたアメリカの考古学者ジョシュ・コーハンである。彼は死海近くの洞窟で運命的に古代の壺を発見する。壺の中にはアラム語で書かれた巻物が入っていた。巻物には作者がヨシュア・ベン・ヨセフ(ヨセフの息子ヨシュア)であると書かれていた。

本物であるとすれば今日、イエス・キリストとして知られている人の自筆文書となり、考古学上の大発見となる。ジョシュはイスラエル考古庁(Israel Antiquities Authority; IAA)に発見を連絡したところ、事件に巻き込まれていく。

イエスの人間的側面を掘り下げている点で、世界的ベストセラーとなったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』を髣髴とさせる作品である。但し本書には『ダ・ヴィンチ・コード』のようにカトリックが真実を隠していたという類の要素はなく、悪役は異端の教団である。その点で教会との緊張関係を生む作品ではない。

また、『ダ・ヴィンチ・コード』が過去の真実に迫ろうとする作品であったのに対し、本作品では信仰が現代社会にも意義あるものとして存在感を持っている。主人公も科学者であるだけでなく、霊的な能力を有した存在として描かれている。宗教を題材とした作品として深みがある。

本書の一貫したテーマは不寛容に対する怒りである。残虐な行為を正当化するために宗教が悪用されることへの怒りである。もともと主人公は独善的な非寛容に対する怒りを抱いた人物として描かれているが、巻物をめぐる争いを経て、その思想はより強化された。

しかし、パレスチナ問題の現実を踏まえるならば本書の寛容には限界がある。主人公側の寛容の精神はイスラム教徒にも向けられているが、イスラエルの存在は当然の前提としている。イスラエルがパレスチナ人の土地を奪って建国されたという現実には目を向けていない。

土地を奪った人間が寛容の精神を説いたところで、土地を奪われた被害者が受け入れる筈がない。国際社会がイスラエルの暴虐を非難するにもかかわらず、アメリカだけがイスラエルを擁護している。その背景としてイスラエル寄りの発想がアメリカ社会に根付いていることを感じさせる一冊でもあった。

『ハピネス』悲しくも優しい純愛

本書(ホ・ジノ、キム・ヘヨン著、蓮地薫訳『ハピネス』ランダムハウス講談社、2008年10月1日発行)は2007年に韓国で上映されたホ・ジノ監督の映画「幸福」のノベライズ版の邦訳である。訳者は24年間も北朝鮮での生活を余儀なくされた拉致被害者である。
病に冒された男が恋人も仕事も全て都会に捨てて田舎の療養所に入る。難病を抱えているにもかかわらず、療養所の患者達には希望があった。彼らの希望は現在の病状を好転させることではなかった。壊れた体でもいいから、現在の生をつないでいくことを望んでいた。そのモットーは「今より悪くならない」であった(57頁)。
この発想は非常に新鮮である。日本では患者の生活を闘病生活と表現されることが多い。日本の患者には頑張って病に打ち勝つことが求められる。病気で苦しんでおり、頑張らなくていいような人々にまで頑張ることを強制し、それを美徳とするような息苦しさが日本には存在する。
しかし、その日本でも『がんばらない』というタイトルの書籍がベストセラーになるなど、日本人自身が特殊日本的精神論に嫌悪感を示し始めている。本書のように悲しくも優しさに溢れた韓流の作品が日本社会に歓迎されたのも、この辺に理由があるように思われる。
本作品の主題は幸福であるが、登場人物は中々幸せにならない。むしろ満ち足りている筈なのに別の幸せを求めたくなる。そして最後には全てを失ってしまう。失って初めて過去の幸福に気付く。
厳しい見方をすれば、本作品の主人公ハン・スヨンは相手の信頼を裏切り、自己管理さえできず、酒に溺れる存在である。彼には男性の身勝手さと愚かさが満ちている。結末の悲劇をもたらした原因が外的な不可抗力ではなく、自らの行動に起因するとあっては、やるせない気持ちになる。これでは、とても感動的なストーリーになりそうもない。
しかし、本作品は紛れもなく純愛を描いている。それは主人公が身勝手で愚かであっても、カッコ悪いほどストレートに感情を表現しているためである。そこには飾りもゴマカシも存在しない。読み終わった後に悲しみの陶酔に浸れる一冊である。

『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』韓国の度量と日本の狭量

本書(金辰明著、方千秋訳『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』徳間書店、1994年)は韓国でベストセラーになった近未来サスペンス小説である。ノーベル賞候補にもなった在米韓国人の天才物理学者の不審死を発端に、気骨あるジャーナリストが朴大統領時代の核開発に迫る。
物語では日本が独島(竹島)の領有権回復を名目に韓国を攻撃するという戦略シナリオが登場する。これに対し、韓国と北朝鮮は協力して核ミサイルを開発し、日本の侵略に応戦する。韓国軍は東京を含む日本の大都市に核ミサイルを撃ち込む能力があるにもかかわらず、わざと目標をそらし、日本に対する警告にとどめた。
日本は竹島を名目に戦争しながら、韓国の経済力を破壊するために工業地帯を徹底的に空爆し、破壊し尽す。そのような被害を受けた後ならば日本の大都市に向けてミサイルを発射して応戦を試みることは当然の対応である。
自国の工業地帯が日本から空襲を受けている状態での韓国政府の度量には外国人ながら評価に値する。本書は日本では反日小説とラベリングされる傾向にあるが、そのような見方しかできない日本社会こそ狭量さを示している。
日本人は他国民を平気で傷つけるが、自国の被害にだけは過剰反応する傾向がある。「自国・自国民が他国・他民族が受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」(佐藤優『国家の罠』新潮社、2005年、119頁)。
むしろ焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかできない能天気な発想を持たない他国民は侵略の傷跡を深く記憶していることを認識すべきある。

『エースの系譜』野球を愛する『もしドラ』作者の処女作

大ベストセラー『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(略称:もしドラ)の作者・岩崎夏海の新作『エースの系譜』(3月17日発行)が好調である。表紙イラストを漫画家の久米田康治が担当したことも話題で、栗田あぐりによる漫画化(コミカライズ)も決定している。
『エースの系譜』は私立高校の野球同好会の顧問となった教師が甲子園出場を目指して奮闘する小説である。『もしドラ』は高校野球とドラッカーの『マネジメント』という組み合わせの斬新さがヒット要因となった。これに対し、『エースの系譜』は純粋な高校野球小説である。
監督や選手が実在の理論や技術を適用する点は『もしドラ』と共通する。『もしドラ』が物語中で『マネジメント』本文を多数参照したように、『エースの系譜』もページ下部に多数の注釈がある。『もしドラ』との相違点は、基本的に解説は野球に関する内容であることである。一部にプロ雀士・桜井章一の思想を野球に当てはめている箇所もあるものの、ほとんどが高校野球やプロ野球、大リーグの一流選手の実話に基づいており、野球のウンチクを楽しめる。
『エースの系譜』は『もしドラ』より後に出版されたが、執筆は『もしドラ』よりも早い。著者が1989年に書き上げた処女作である。『もしドラ』は、イメージしやすい高校の部活動を題材に難解な『マネジメント』を解説するというビジネス書的な意味合いでヒットした。しかし、『エースの系譜』では単なる素材としてではなく、野球そのものへの著者の愛が前面に押し出されている。
『エースの系譜』の特徴は野球部監督が主人公であることである。それによって、弱小野球同好会が強豪野球部に成長するまでの長いドラマが可能になった。そこには10年もの期間があり、10人ものエースが登場する。エースが交代していく点は、ちばあきおの『キャプテン』に類似するが、『エースの系譜』では監督を主人公とすることで、敗北を繰り返しながらも成長するチームの物語に一貫性を与えた。
一方、監督目線でエースの系譜をたどるというテーマを徹底しているため、特に前半では具体的な登場人物が監督とエースのピッチャーしか登場せずに話が進む。これは野球というチームスポーツの小説としては異様である。物語が進むとエースを支えるメンバーやマネージャーなどの描写も深まり、野球小説らしくなる。この流れ自体がエースを育てること自体が大変であった初期からの成長を物語っている。

『パンツダ。』の感想

本書は赤いパンツを履いたパンダのキャラクター・パンツダを主人公とした4コマ漫画である。パンダと言っても、パンツを履いていることから理解できるとおり、擬人化されており、二足歩行で人間と同じような行動をする。このパンツダのユーモラスな行動を本書では描く。
本書は一風変わった4コマ漫画である。王道的な4コマ漫画と比べた特徴を2点指摘する。
第1に明確なオチがない。一般的な4コマ漫画の構成は起承転結であり、最後にオチが来る。これに対して本書はオチが不明確である。たとえば坂を上がって、下を見下ろし、ダッシュで下りて、また上るという漫画がある(20ページ)。文章で説明すると「だから何なの」となるが、のどかな展開に癒される。
第2に登場人物は基本的にパンツダだけであり、会話が全くない。「サザエさん」にしろ、「コボちゃん」にしろ、「ののちゃん」にしろ、家庭や学校、会社の人間関係が話題になっている。それに対して本書は、ひたすらパンツダの他愛もない行動が描かれる。読者はパンツダの行動から意図を解釈しなければならず、その点が前述のオチの不明確さにもつながる。
パンツダは「ひとりあそびの天才」である(帯より)。その行動は子どもが好奇心の赴くままに自分の身体や周囲の物で遊ぶ姿に重なる。たとえばティッシュペーパーを顔にかぶせて息で吹き上げ(27ページ)、電灯から垂れ下がった紐をヘディングする(38ページ)。これらの遊びを実際に子ども時代に行った人も少なくないだろう。
また、パンツダは傘を引っくり返して、その中に自分が乗っかって船のようにしている(30ページ)。人間の重さから物理的には不可能であるが、子ども心にやってみたいと思ったことはある。子ども時代の純真さを思い出させる点が本書の魅力である。
消費経済では子ども向けの玩具も商品として消費される対象である。玩具メーカーは子どもが欲しがるような玩具を次々と発売する。そのような玩具は遊び方も決まっており、それに従って子ども達は遊ぶことになる。それに比べるとパンツダの「ひとりあそび」は自由である。お仕着せの玩具よりも、身近な環境での「ひとりあそび」によって子どもの想像力が伸びると感じられた一冊である。

インターネット小説評

エラリィ「聖なる夜」2000.2.12

このタイトルから先ず連想したものは、タンポポの「聖なる鐘がひびく夜」であった。「あとがき」を読むと著者もここから着想を得たようである。因みにタンポポの飯田圭織さんと石黒彩さん(2000年1月脱退)はこの物語の舞台である札幌出身である。この作品では恋人を待つ女性の気持ちが上手く描かれている。期待、切望から喜びへという心理経過がたどられており、途中で雪を降らせることが「転」の効果をもたらし、短いながらも起承転結になっている。

一般論として待ち合わせで女性の方が待たされるのはあまり好ましいことではないと思われる。しかしここではカップルは「1ヶ月も会ってない」状態であり二人は遠距離恋愛をしていると考えられる。そして多分ナミは札幌(近郊)に住んでおり、他方「彼」は遠くに住んでおり久しぶりにおそらく故郷かもしれない札幌に帰ってくるのだろう。ナミが「彼」が来るのを待ち「彼」を迎えるのが自然に描写されている。

本文中には「赤くなっている両手に白い息を吹きかける。」という表現がある。彼女は寒いのに手袋をしていないのか、と疑問に思われもするが、赤くなっている手に白い息というコントラストは詩的で美しいし、「彼」に会う前、一人で待っている寂しさをうまく表している。以上のように本作は素敵な小品である。(林田力)

黒猫「姫君と黒竜」2000.2.18

筆者による解説によれば本作執筆の動機は辰年にちなんで竜を題材にした作品を書こうということのようである。竜の物語といえば竜退治であるが、それを竜の視点で書いたのが本作という。しかし作品の前半部は姫を奪還しようとして竜に戦いを挑む人間の視点から描かれている。読者である私も勇者に感情移入して読んでおり、筆者にまんまと騙されてしまった。狂言誘拐はドラマでも漫画でも更には事実でも存在しており、オリジナリティーの高い発想とは言えない。窮屈・退屈な宮廷生活からの逃避についても映画「ローマの休日」等で既に使われている。

そして「竜は、ため息をついた」「薄目にしていたまぶたをゆっくりと持ち上げ」等の表現を随所に入れることによって、竜退治の物語に登場するような攻撃的・暴力的な竜とは異なるということを筆者は仄めかしている。それにもかかわらず私は本作の結末を予見することができなかった。筆者の筆力にただただ感服するだけである。

本作は短編ということで登場人物の深い心理描写を求めることは望蜀の言かもしれない。それでも登場人物が何をしたいのかがわかりにくい。竜は姫君の望み通り、姫君を城から連れ去り、洞窟にかくまい、勇者の相手までしているが、それが姫の立場に同情しているからとは思えない。同情しているのならば軍隊を相手にするのが面倒くさいから出て行こうという、途中で放り投げるような姫から見れば無責任な言動はしないだろう。しかしそうでないならば何故竜は姫の望み通りに動いたのだろうか。竜は人知を超えた生き物だから理解しようというのが間違えかもしれない。

しかしもっとわからないのが姫君である。姫君はただのわがままなのだろうか。命がけで救出しようとしている人のことをどう思っているのだろうか。確かに「ローマの休日」の原題Roman Holidayには「ローマの休日」というそのものの意味の他に他人の苦しみによって得る娯楽という意味があり、自分がいなくなることで周りが慌てふためくのを見るのが快感ということもありうるが、本作の姫君がそのようなことを楽しんでいるとの記述はうかがえない。

ここで注目すべきことは姫君が裸である、という点である。宮廷生活が窮屈で嫌だ、というのは常識的に理解できる範囲だが、普通の人なら喜びそうな宝石すら姫君にとっては「奇妙な石」に過ぎない。姫君が苦痛なのは堅苦しい宮廷生活だけでなく、文明生活・人間社会そのものもなのかもしれない。そうだとすれば姫君は求めているというよりも、自然に帰ろうとしているのかもしれない。動物の中で人間だけが服を着るものであり(最近ではペットも服を着せられるが、そのようなペットは自分は人間だと思っていよう)、裸ということは人間であることの否定にもつながる。姫君が望むものが人間的な自由ではなく、自然にあるとすれば、人間界に関心が低い竜が姫君を助けるのも肯ける。本作は一読しただけでも楽しめるが、深く読み込めば色々と考えさせてくれる作品である。(林田力)

エラリィ「パンドラの箱」2000.2.19

パンドラPandoraの箱とはもともとギリシャ神話の物語で、ゼウスが最初の人間の女性であるパンドラに人間のあらゆる罪や災いを入れて渡した箱を指す。本作は魔法やモンスターのいる架空のファンタジー世界を舞台にパンドラの箱を題材とした物語である。私が一読して感じたことは本作は非常に読みにくい、ということである。

まず舞台が現代日本とはかなり異なる世界であるにもかかわらず、その世界に対する説明はほとんどないため、読者の作品世界への理解が困難である。勿論、「パンドラの箱」というタイトルで現代日本の日常生活を予見する方が奇特であり、読者は別世界の物語であることは覚悟していよう。但し私は同じ作者の札幌を舞台とした恋愛短編「聖なる夜」を読んだ直後に本作を読んだためかなり困惑してしまった。

例えば「導士級の魔術士」という言葉があるが、これだけでは導士が魔術士のランクであることはわかっても、それがどれくらいの階級なのかは不明である。かろうじて「ここ、ライソルド大陸にはさまざまな伝承があった。世界を救ったという十二神徒の伝説 神による最後の審判 神がいなくなる原因になったといわれている最終戦争・・・」という説明が見られるが、十二信徒なり最後の審判なり最終戦争なりの詳しい説明がないため却って謎が深まるばかりである。

そして登場人物に対する説明も少ないため、登場人物が日本人にはなじみ薄い欧風の名前であること、代名詞が多用されていることも手伝って、人間関係も理解しにくい。ちょうどFyodor Dostoyevskyの小説や水滸伝を読んでいるような感じである。更に本作では登場人物は三人称で語られているのに、最後の節だけ登場人物の一人である「僕」の視点で語らせている点も、読者を困惑させる一因となろう。

勿論、読みにくいということが本作の評価を落とすことにはならない。わかりやすくしようとして詳しい説明を入れたら却って冗長になってしまい、作品のテンポを損なってしまうかもしれない。おそらく作者は本作の背景設定を綿密に行っているのだろうが、表現の過程で削ぎ落としてしまったのだろう。折角築き上げた精緻な世界を本作だけで終わりにしてしまうのは惜しく、続編も期待できる作品である。(林田力)

秦乃実さえら「水の底の小さなお魚」2000.2.20

感想同盟加盟者リストによると作者の作品ジャンルは学園恋愛という。本作は紛れもなく高校生同士の恋愛が主題であり、学校生活も描かれているが、「学園恋愛」という語から一般に想起されるイメージを抱いて読むならば違和感を覚えるだろう。何故ならば本作の登場人物の境遇も生活も相手も「普通」ではないからである。

優等生と不良という組み合わせは少女漫画によくあるが、本作はそのようなステレオタイプとは似て非なるものである。尤も全く境遇の異なる二人が互いに惹かれあって強く結ばれるという点で本作は吉田秋夫・Banana Fishに共通する。又、「僕は許されていいのかな。僕は、僕を救っていいのかな。」のくだりは新世紀エヴァンゲリオンTV版最終回を想起させる。

主人公ユタは自閉症と診断された少年で、「正常」者からみれば「異常」者である。しかしその求めているものは、「小さな水槽の魚みたいな、たったそれだけの自由」、即ち自己の生活圏内における自由であり、それはささやかで常識的な願望に過ぎない。そのような普通の願望のために苦闘する人物として精神「異常」者を登場させるところに現代日本の救いがたい矛盾が潜んでいる。日本では「普通」に生活を送る「普通」の人々にはそのような自由はなく、そのような自由を求めることさえ忘れてしまっているようだ。そして皆と同じことをして満足している。「普通」でないからこそ、「普通」の人々が発するどうしようもない汚臭を感じることができる。本作は私にこのようなことを感じさせてくれた。(林田力)

森猫「化ける」2000.2.21

本作は「森猫の森」という作品の一部で、文字化けを主題にした部分である。創作という営為はこれまで存在しなかったものを自己の手で生み出す行為であり、創作によって他の誰でもない自己の個性を表現することができる。しかし人間は外界から全く孤立した存在ではなく、よいか悪いかは別として外界から多大な影響を受けている。表現についても媒体に規定されるところが少なくない。

作者はテキストによる表現という点に徹底的にこだわる。ここでは「「音」すら文字を介して聞き取るしかない」し、大声で叫びたいときも、大声で叫ぶのではなく、強調字体で叫ぶものなのである。そして本作のテーマは文字化けという特殊インターネット的問題である。これはインターネットだから書ける作品であり、作者が自らのメディアを自己の創作の道具として十分に使いこなしていることを示している。

文字化けは、作者が記号にもたせた意味を「全部、無意味に」させてしまう。文字化けのページをいくら読んでも作者の意図は読み手に全く伝わらない。旧かな遣いを校正者が勝手に現代かな遣いに変えることでも烈火の如く怒る作家も存在する。作家にとって自己の作品が自己の表現した通りに伝達されないということは、作品が全く伝達されないこと以上に避けたいことであろう。

ただ文字化けをなくすことがインターネット文化にとって好ましいことかは疑問である。文字化けの原因は文字コードが統一されていない点にあるから、文字コードを統一すればよいのだが、文字コードを統一する権限など一体誰にあるだろうか。世界各国の文字を一つのコードに含めたUnicodeなるものが開発されているが、それは表音文字の文化圏に属する人々を主体として開発されたためか、多くの漢字がそのコードには含まれてはいない。そのためそのコードでは自分が使いたい漢字が使えないかもしれない。

コードの統一化は特定の文字の排除をもたらしかねない。文化の豊かさとは多様性であり、文字コードの多様性も否定すべきではないと私は考える。デジタル著作物とはコピーや伝達が容易という面の他に専用の読み取り・再生装置、ソフトウェアがなければ視聴できないという特徴もあり、文字化けはユーザーがそれ用の文字コードを備えたブラウザーをもっていなかっただけということもできる。それ故、文字化けはなくならないが、ソフトウェア会社は文字化けを増やすようなことをすべきではない。

最近は多くのワープロソフトにhtml形式での保存機能がついているが、それによって保存したhtmlファイルのソースを調べてみると、普通のタグの書き方とはかなり異なっていたりする。このような自社のブラウザーでしか通用しないような特殊なタグを使っていたりする。このような企業に対しては「ヒドイよね」と呟いてもいいだろう。(林田力)

黒猫「地球へ……」2000.3.20

本作は短編SFである。「リング」に代表されるホラー小説ブームが一頃起きたが、次はSFブームとも言われている。SFとは空想科学小説であり、作者の空想の産物たる未来社会・未来技術がウリとなるはずである。しかし優れたSF作品はそれだけで終わらないことが多い。登場人物は現代とは異なる未来社会で未来の技術に囲まれて生活しているが、彼の感情・思いは非常に感傷的・非合理的で、背景となる合理主義の粋を凝らした先端科学技術と好対照をなしていたりする。時代劇をちょんまげをつけた現代ドラマというのと相通じるだろう。

本作も主人公の自分のではなく人類の祖先の故郷たる地球への望郷の念がモチーフになっている。手塚治虫・火の鳥でも人類は他の惑星に植民していったが、やはり地球が恋しくなって戻ってしまい地球の人口が増大したため、戻るのを禁止してしまった。ガンダムの世界でもコロニー生活に対し地球に住むことが特権として描かれている。

本作の世界でも地球に住むことが社会的経済的に価値があることなのかどうかはわからないが、たとえそうだとしても本作の主人公がそのようなことのために地球に憧れるわけではない。この辺は行間を読まなければならないが、好きな人と一緒に行くことに意味があるのだろう。この点で本作は現代的な小説である。

もう一つ本作を読んでいて現代を感じてしまった点がある。それはジェンダーである。本作の主人公は女性であるように思われる。明確な証拠が文中にあるわけではないが、名前や仕草からそのような印象を受けた。問題なのは、この主人公の幸福が相手の男(だよね)よって与えられるものになっている、という点である。女性が自分の将来を受身の立場でむかえなければならないというのは、歴史的に作られた観念に過ぎず、未来永劫固定したものではないと思う。

また、主人公の職業は専門医療器具のオペレーターとされるが、これは現代における看護婦を連想させる。やはり未来においても女性の仕事は男性であるドクターの補助というのが常態なのだろうか。たまたまこの主人公を専門医療器具のオペレーターとしただけで、ここまで言うのは深読みのしすぎかもしれないが、読者は作者によって与えられた表現から考えていかなければならない。私は未来社会においてはジェンダーは打破されていると考えたいが、現実は厳しいのもまた事実だろう。そして小説は理想を描くとは限らず、むしろ現実を描くものともいえる。その意味で本作は地に足ついたSFと言えよう。(林田力)

しずく(葉月)「Room - Hello Again」2000.3.21

本作はオムニバス小説Roomの一編である。日常と非日常、電子メールによるコミュニケーションと旅路での偶然の出会い、そのような好対照をなす要素が絡み合って本作を際立たせている。多くの場合、一方を賛美して他方を軽視してしまいがちである。とりわけ日本では大衆がなあなあで済ます傾向が強いために、却って知識人には相容れないものは全く受け入れないという傾向がある。勿論、理論とはそういうものであり、足して2で割るような解決策を是とするような態度では普遍的正義を実現できず、個別的正義をも満足させることができない。

「黒板に向かっておんなじ様な恰好をして、勉強」することが人生にとって重要なことなのか、それとも人生の意義はそれを抜け出たところにあるのか。インターネットは新たな人間関係を構築するのか、それとも人間関係の希薄化を進め個々人を孤立化させてしまうのか。このような議論は真剣に検討する価値があり中途半端な妥協で満足すべきではないと思うが、人生の実践においてはおそらく両方を適度に利用していくことが望ましいのだろう。本作はその辺のバランスが無理なく取れているように感じられる。達成不可能な理想を追求しているわけではなく、奴隷的境遇の中での満足を探そうというのでもない。

最後に話と関係のない点を一つ。本文では商標が多用されている。それは小説に現実感・生活感を与えるものであり結構なことだと思う。ただメールソフトがOutlookである必要があるのだろうか。筆者自身OSはWin 98、ブラウザはIE、メーラーはOEというプレインストールされていたのをそのまま使っている。しかも雑誌のCD-ROM等で他社のソフトも入手してはいるが、インストールしていない。それ故、述べる資格はないかもしれないが、小説の中までもMSにする必要はないのではないだろうか。これは単なる私の願望である。(林田力)

秦乃実さえら「クール・ビューティ」「キリング・ムーン」「ノックタール・ミー」「セブン・シーズ」2000.4.4

前者は作者がはじめて書いた学園小説という。後三者は三部作となっている。両方とも一貫制の名門私立高校を舞台として幼馴染の対立と愛情を中心に、学校行事や三角関係を絡ませている。

本作はある種理想(空想)的な学園小説と言えよう。現実の学園ではいい意味でも悪い意味でも生徒はクラスや学校に対してそれほど大きな帰属感・連帯感を抱いていないし、生徒会というものの影響力を感じていないだろう。高校生の生活に学校は大きな割合を占めているが、携帯電話を持って渋谷へ繰り出す高校生の交友・交際範囲は校内という枠を容易に飛び越えている。むしろ学校にいる自分はつくった、演技した自分であり、学校の外に本当の自分はいると考えている人も少なくないだろう。

その中で学校を楽園とし、忘れられない思い出にするためにクラスが更には全学が一丸となって行事に熱中するのを追っていくのは面映い。その意味で本作は私にとって暗すぎて救いようがないと評されたとされる「水の底の小さなお魚」以上に違和感を感じた。私は本作に現実離れ、リアリティの欠如を感じてしまったが、一方でこのような学園生活は羨ましいとも思う。

生徒は高校を選ぶ自由が保障されているが、その学校の全ての面を支持して入学するわけではない。だから自分が選んだ学校でも不満を抱いてもいいし、高校がつまらないなら無理にそこで楽しもうとせず、外に楽しみを見出してもよい。その点でコミュニケーションツールの発達によって学外の人とも情報交換が容易になり、学外での可能性が開かれたことは非常に好ましいことである。しかし高校生活が楽しければそれは望ましく無理に絶望することもクールを決め込むこともない。作者は「ちょっと歪んだ愛の世界」が嗜好というが、学校生活を真剣に楽しもうとする登場人物に健全さを感じた。(林田力)