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林田力「東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った(上)」

 

 

東急不動産を提訴... 1

林田力の請求内容... 3

林田力の思い... 4

東急不動産の勘違い... 6

提訴の報告... 7

東急不動産の不可解... 8

東急不動産答弁書の粗末... 10

東急不動産の弁論欠席... 11

東急不動産は二回目で出廷... 13

嘘に満ちた東急不動産準備書面... 15

弁論準備手続開... 16

東急不動産の証拠改竄を指摘... 21

隣地建て替え把握と改竄証拠... 27

東急不動産の図面集捏造に反論... 28

「倉庫」との虚偽説明を糾弾... 34

アルス東陽町での進行協議... 37

 

 

東急不動産を提訴

林田力は二〇〇五年二月一八日、東急不動産を被告とし、マンション売買代金の返還を求めて東京地裁に提訴した(平成一七年(ワ)三〇一八号)。一年で最も寒さの厳しい季節である。以下、訴状を引用する。

********

被告(事業者)は、原告(消費者)との本件不動産売買契約の締結について勧誘するに際し、日照・眺望・通風・景観等の住環境に関する重要事項について、原告に対し、原告の利益を告げるとともに、原告の不利益となる事実(マンション完成後すぐに北側隣地に三階建の建物が建築され、前記住環境が極端に悪化すること)を故意に告げなかった者であり、その不告知によって、原告は、そのような不利益事実が存在しないとの誤認をし、それによって前記売買契約締結の意思表示をしたことが明らかであるから、本件不動産売買契約を取消すことが出来る(消費者契約法四条)。

********

訴状は、とびきり明敏な法律家が総力をあげて、一点非の打ち所のない調査をもとに書き上げた書面との印象が至る所から立ち上っていた。訴状は書きぶりも見事なら、裏付けもすきがなく説得力に溢れていた。

林田力は遂に一歩を踏み出した。不誠実極まりない東急不動産に対し、反撃を開始した。ナポレオンは「作戦計画を立てることは誰にもできる。しかし戦争をすることのできる者は少ない」との言葉を残した。人生は一回しかない。同じ日は二度と来ない。人生の一回性に思いを致せば、うかうかしてはいられない。

かくして林田力は訴訟社会の一員となった。林田力にとって2005年2月18日は歴史的な日になった。これはスケールの大きな訴訟であり、極めて重要な訴訟である。大々的な訴訟以上に胸をときめかせてくれるものは他には何一つない。輝かしき新たな門出への期待感で林田力の脈は速まった。

提訴に至るまで、林田力の関心は専ら今回の裁判で占められていた。勿論、他にも注意を振り向けるべき重要なことはあった。しかし東急不動産を訴える件が頭を離れたことは一度もなかった。林田力は重要な訴訟に共通する提訴時の興奮を感じた。そして、いざ爆弾が命中し、巻き上げられた土埃が静まった後に到来する深い安堵と心地良い静けさも感じていた。

林田力は既に多過ぎるほどの落ち葉を収集していた。今度は、それを一つに束ねて紙幣に変えなくてはいけない。今は、その段階である。法律上グズグズ考えるような問題点は残っていなかった。東急不動産のだまし売りは明白であった。証拠もある。証言もある。これ以上、何が必要であろうか。「私は怪しい」という大きなネオンサインだろうか。

東急リバブル東急不動産に対しては、殊更工作する必要はなかった。事実を明らかにするだけで十分であった。林田力が唖然として鼻をつまむほど、東急リバブル東急不動産は腐臭に満ちており、小さな穴を開けただけで毒気が流れ出して周囲を窒息させそうであった。

事件番号を受け取った林田力は喜色を浮かべた。自らの手で運命を切り開くことができるからである。林田力は悪徳不動産業者に屑物件を押し付けられたままではいられなかった。東急リバブル・東急不動産の不誠実な対応に踏みつけられたままではいられなかった。

無価値の屑物件によって耐え難い毎日を強いられ、息をすることがやっとの生活に泣き寝入りするつもりはなかった。ただ生きるだけの人間にはなりたくなかった。自分の意思で行動せずにはいられなかった。これは己の矜持をかけた戦いであった。

林田力には東急不動産と闘う以外の選択肢は存在しなかった。運が味方をしてくれないかもしれない。時には全てを賭けなければならないかもしれない。それでも林田力は自分の望むところに辿り着くまで耐えてみせると誓った。林田力の視線は真っ青な青空に吸い込まれていった。

提訴の翌日、林田力は子どもの頃から感じたことのない生気に満たされて目を覚ました。洲崎川緑道公園へジョギングに出かけると、思いのほか速く走ることができた。限界まで走りきったところで足を止め、腕立て伏せと腹筋運動を繰り返した。それでも余力が残っていた。亀戸天神の梅も三分咲きから五分咲きとなり、春も近いと感じられる頃であった。桜にくらべ少し控えめな梅であるが、花も実も楽しめる素敵な花である。

 

林田力の請求内容

林田力の請求内容は「約束通りに代金を支払ったのだから、約束通りのものを引き渡してほしい。引き渡したものが約束通りのものでなければ受け取れないので、代金を返してほしい」という単純なものである。当たり前の権利を主張しているだけである。誰にも気兼ねすることのない内容である。林田力の望みは、ただ最初の地点に戻ることだけであった。東急リバブル・東急不動産の卑劣なマンションだまし売りに巻き込まれる前の地点に戻りたいだけである。

論理は単純で因果関係は明白であった。東急リバブル・東急不動産が不利益事実を説明していれば、林田力は無価値の屑物件を購入することはなかった。東急リバブル・東急不動産が隣地建て替えを説明しなかったことは事実である。隣地が建て替えられればアルスの日照・眺望・通風が遮られることも十分に予測できることである。

東急リバブル・東急不動産は法令や既存の業務遂行手続きをうっかり見過ごしたのではない。不利益事実を十分に認識していながら、アルスが売れなくなることを恐れて意図的に説明しなかった。責任の所在を示す論理としては文句をつけようがなく、単純明快であることで論理の魅力はいやが上にも増していた。

これからの時代は法令違反について厳格に対処しなければならない。法律の一番大きな責務は弱者を保護することにある。多くの訴訟・判決の積み重ねによって、一定の適切な基準が確立される。もし当事者が判決を避けるようになれば、この貴重な蓄積の機会を失ってしまう。

林田力の真意は、はっきり言って金銭ではない。東急リバブル・東急不動産のマンションだまし売りに基づく売買契約を維持することが正義に反するという想いで満たされている。裁判を損得勘定のビジネスと考えるようでは社会正義の実現にはほど遠い。反対に金輪際、ビジネスの対象とはなり得ない相手であると認識したからこそ、東急不動産を提訴した。

なるほど林田力にも欲はある。しかし、それは金銭欲や名誉欲ではない。あくまで消費者の権利を確立したいという欲である。誰に嫌がれ、誰に誤解されようとも、構わず自分の道を突き進む利己心である。

東急リバブル・東急不動産の不誠実極まりない対応で林田力が味わった悔しさは、金銭では氷解できない。これまで林田力が堪え忍ばなければならなかった苦痛は、何をもってしても埋め合わせがつかない。東急不動産に主張したいことは無数にある。強引な販売方法、契約後のトラブルにおける顧客対応の悪さ、不誠実、嘘で固めた回答、居留守、たらい回し、時間稼ぎ等である。

林田力は消費者を踏みつけにする東急リバブル・東急不動産を絶対に許さなかった。結果はもとより、売らんがための詐欺的販売手法と、その後の嘘で固めた応対で消費者を翻弄させ、ごまかそうとした態度が許せなかった。大企業として数々の肩書きを掲げて信用を売り物にしておきながら、平気で嘘をつく悪徳不動産業者の態度が許せなかった。東急不動産に法令順守の思想が欠如していること、行政機関(国土交通省、都庁)に平然と虚偽の報告をしてごまかしたことも許せなかった。

最も許せないことは日照が皆無になり、ホームレスでも住みたがらないような屑物件をだまし売りしておきながら、「隣地が建て替えられキレイになった方が喜ぶ人もいる」という人を馬鹿にした嘘を本気で通用させようとしていることであった。太宰治の小説『駆込み訴え』には「怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。」とある。

林田力は他人の支配を拒否する人間であった。林田力は馬鹿にされることを拒否した人間であった。高いところにいる者が手繰る糸の下で踊る、操り人形になることを拒否した人間であった。如何なる力も如何なる人間も、それを林田力自身が望むことがない限り、その意思に反した行動を強制させることはできなかった。自分と他人の尊厳を求め、どこまでも声を挙げたい気持ちを捨てなかった。林田力の意思を覆すことができるものは、非の打ちどころのない道理だけであった。

相手が威圧的に出れば出るほど反発を感じた。諦めることも慣れることも眼を閉ざすこともしなかった。強引に押さえつけられると、遮二無二、相手の主張とは逆の方向に突っ走ってしまう。過酷な状況に追い込まれれば、かえって根性が座る。やるとなったら徹底的にやる。それこそが林田力の林田力たる所以であった。

東急不動産が不誠実な態度を示せば示すほど、「なにくそ」と反発して、不条理と戦い、正義を貫こうとする不屈の精神は強固になる。林田力が受けた侮辱を忘れなかった。侮辱した相手を決して許さず、最後まで戦う気性の激しさは決して衰えることはなかった。悪徳不動産業者にとっては厄介な相手であった。

林田力は東急不動産に真実を直視させたかった。林田力の権利を冷酷無慈悲に踏みにじったという事実としっかり向き合って欲しかった。東急リバブル東急不動産は算盤勘定だけで冷酷な決断を下した。本来ならば不利益事実を説明した上で販売すべきアルス東陽町301号室をだまし売りする決断である。

 

林田力の思い

提訴は真相を知って以来、苦しめられ続けてきた悪夢を断ち切るためでもあった。東急リバブル及び東急不動産のマンションだまし売りを思い出し、眠りにつけない夜もあった。何も手を講じないでいたら、受けた傷はそのまま残ってしまう。

熱を伴った激しい痛みは止むとしても、傷はただれ、痛みはあとをひき、完治の望みは消えうせてしまう。このままでは悔しさばかりが残り、納得できなかった。自分を押し殺していると、息苦しさはつのり、いつかは偽りに変わる日が来ることになる。

誰もが林田力に提訴を勧めた。

「次に被害者になる人々のことを考えたことはあるか。また、別の家族が同じ悪夢を経験することになると考えたことは。訴訟が悪徳業者を駆逐して、多くの人々を守ってきたことは事実だ」

「東急不動産が不利益事実を隠して、新築マンションをだまし売りした。それならば連中に売買代金を返還させることが筋だ」

「私の知っている林田力は、常に法律への敬意を忘れない男であった」

林田力は自分に知りえないことをクヨクヨ考えて潰瘍になることはない。しかし、知ったとなれば林田力は責任を負ったことになる。いい人を演じ、発見したのは事故みたいなものと誤魔化すことは林田力の仕事ではない。「東急リバブル東急不動産は、今後は悪いことをしないだろう」と楽観的な妄想を求められている訳ではない。だまし売りに基づく不動産売買契約は破棄されて当然である。

「もう争いごとはたくさんだ、静かに暮らしたい」という負け犬の発想はなかった。サン・テグジュペリは「事件の渦中に入ってしまうと、人間は、もはやそれを怖れはしない」と言った。むしろ静かな暮らしを求めるために、提訴は必要であった。空が晴れ渡るのは台風が通過した後である。

林田力には東急リバブル東急不動産に侮られたままで終わるものかと、たぎりたつ思いがあった。林田力も尊厳ある市民である。金持ちだから、大企業だからと媚びへつらうことはない。生まれながらの権利においては全く劣らない人間であるという自覚と自信で一歩も引くべきではないとの信念がある。

屈服しない力は意思から生まれる。正々堂々と真正面から東急不動産に挑み、勝利することが求められた。林田力が完全に事実に根ざしており、東急不動産が嘘をついているのだから、戦わないわけにはいかなかった。自らの手で権利と自由をつかみとらんとする林田力は、語るべき理想も誇るべき心情も持ち得ない東急リバブル東急不動産を向こうに回して、断じて負ける訳にはいかなかった。己の生き方に重きをおく林田力にとって、裁判闘争は譲れない選択であった。

「やってみせる。この勝負に全てをかけてもいい。そしてここを勝ち抜く」

多くを失い、打ちひしがれている心の奥になお秘められている力こそ、信じる価値のあるものであった。後戻りするつもりはない。今の林田力に恐れるものは何もなかった。自分が正義の側に立っていると意識すると、気が楽になった。

これは正義対悪の問題である。人間たるものはすべからく己の生に何か価値あるものをつけ加えねばならない。単純な職業生活を超えた何かを。林田力にできる一番大きなことは裁判闘争である。林田力のような消費者が東急リバブル・東急不動産のような悪徳不動産業者に一生に一度あるかないかの買い物でだまし売りされる悲劇を食い止めることであった。林田力は一生、世の中を不潔で不公平なものにしている東急リバブル及び東急不動産の不正を追及していくに違いない。

東急リバブル東急不動産によるだまし売りは、あまりにも長いこと横行し過ぎた。あまりにも多くの良心ある人々が見て見ぬ振りをし過ぎた。彼らは大手企業が消費者に屑物件をだまし売りすることは事実ではない、と信じ込もうとした。だが、だまし売りは事実である。何があっても林田力は東急リバブル東急不動産のだまし売りを追及するつもりであった。東急リバブル東急不動産のだまし売りを野放しにしておけないからである。これはトコトン正しいことであった。

林田力は孟子の言葉「君子は戦わざることあり、戦えばかならず勝つ」が好きだった。それは既に林田力の体の一部となって、血と呼吸の中を駆け巡り、今にも詩となって噴出しそうであった。その感覚が好きであった。林田力の興奮は度を増した。最初は演技的な部分があったが、次第に芯から感情が激してきた。法学部卒らしい正義感が燃えた。

林田力が自分で描いた自画像はステンレススチールのように汚れ一つなかった。悪の権化・東急リバブル・東急不動産が憎らしかった。気品と激しい闘志が湧き上がってきた。心の底から戦いが待ち遠しくてならなかった。

今や林田力は屑物件をだまし売りされて途方にくれる、存在を忘れられた一被害者ではなかった。気分はアル・カポネと戦うエリオット・ネスであり、できればトレンチコートを羽織りたいくらいであった。日常がやけに色褪せて思えた。

 

東急不動産の勘違い

東急不動産は屑物件のだまし売りが完全に成功したと思っていた。やがて来る嵐は地平線の彼方にあって影も形も見えなかった。そのために勝利の女神は東急不動産を一方的に贔屓していると妄信しているようであった。しかし女神の微笑は専制君主の寵愛よりも儚い。奈落の底は何時でも口を開けて待っている。

悪徳不動産業者の論理では「無価値の屑物件をだまし売りされた消費者が悪い。消費者の自己責任」となる。しかし、だまし売りされた消費者をあざ笑う悪徳不動産業者の方が、粗忽で思慮に欠け、致命的なくらいに軽々しかった。東急リバブルも東急不動産も担当者をコロコロ変えた。その時ばかりは「自分こそが正式な担当者」と宣言するが、それに釣りあうだけの仕事ができるわけではなかった。それどころか、何もできない。何かしても、事態を悪くすることしかできない。その体たらくの悪徳不動産業者に消費者を嘲笑する資格はない。

悪徳不動産業者は回答拒否で終わらせたつもりになっているが、何も解決してはいないことを思い知らなければならない。悪徳不動産営業は東急不動産だまし売り裁判林田力が困難に直面した場合、典型的日本人と同じ反応を示すと信じて疑っていなかった。かつて日本人がアメリカ軍の占領を唯々諾々と受け入れたように消費者も弱者の立場を大人しく受け入れるであろう、と。

大企業の威勢を背景に消費者を迫害する東急リバブル・東急不動産は消費者から反撃されることを想像もしなかった。無抵抗の弱者を痛めつけることが戦いと思っている。しかし世界は愚か者達が考えているほど単純には進まない。マンションだまし売りのような理不尽な不正義を前にすると、林田力は一層激しく闘志を燃やし、理性では測り切れないとてつもない信念を持って粘り強く闘い出す。

これまで東急不動産は多くの過ちを犯してきたが、状況判断も間違っていることを思い知ることになる。東急不動産は色々な場面で大切な事象から目を背けてきた。当初からの無責任さと杜撰さ、後手に回る対応の遅さと小出しの回答しか出せない小心ぶりが、ここまで問題を大きくしたことを肝に命じるべきである。

「くたばれ、東急リバブル東急不動産」

部屋の中に響くような声で悪態を吐き出してみると、子どものように可笑しかった。遠からざる未来に後悔するのは東急リバブル東急不動産である。

 

提訴の報告

林田力は提訴を周囲に報告した。

「東急不動産を提訴して、どんな心境だい?」

弧を描いた低い天井の下、凸凹の石畳をゆっくりと歩きながら、友人が尋ねた。友人の見た目はナヨっとしていたが、握力は万力並みの強さを誇り、機会さえあれば必ずそれを実証して見せた。林田力は横を向き、月の光に照らされた友人の顔をじっと眺めた。

「どうして、そんなことを訊くのかな?」

「こっちは何のしがらみもない身だからね。でも、君は……」

友人の目は本気で心配していた。林田力は心が和らぐのを感じた。

「これは私が求めたことだよ。忘れたのかい。東急リバブルや東急不動産にとっては金と商売が全てだ。でも、私は違う。もっと深刻な問題だ。これまで不動産トラブルでは消費者は泣き寝入りを強いられてきた。終わったことは水に流して、建設的な方向にエネルギーを注げばいい的な発想がはびこっている。だから私にとって闘うことは焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことしかできない愚かな社会に抵抗することになる。私は胸を張って叫ぶことができる。私は市民だ。価値ある存在だと」

「元気を取り戻したようで安心した。だまし売りの問題が分かった当初は、うろたえていたようだったが」

林田力は唇をギュッと引き結んだ。

「うろたえるなんて生易しいものではなかった。気が狂いそうだった」

羅美にもキッパリとした口調で言った。

「泣き寝入りを強いられた大勢の被害者のためにも、裁判を闘い続ける」

「東急不動産の闇は、どれくらい底が深いのかしら。一体、どこまでつながっていくのかしら」

「どんなに深い闇でも、死ぬまで自分の信念を貫き通したい」

「もう心を決めてしまったのね。私に言えることが何かあるのかしら」

羅美は誰もが思わず二度見してしまい、そのあとポカンと見とれてしまうような黒髪の美人であった。しかし、舞踏場のその他大勢のような整いすぎた作り物的美人ではなく、人間味を感じさせる美人であった。人当たりが良く、魅力的で誰からも愛される女性であった。だからこそ今の彼女があった。

「幸運を祈ってくれると嬉しいよ」

羅美の瞳が真剣な光を湛えて彼を見つめた。普段はまるで女優のように大袈裟に目玉を上げ下げするが、今は真面目そのものであった。

「あなたが大企業を相手に裁判すると考えただけで、怖くてたまらない。でも、あなたという人は一旦、心に決めると、もう引き戻すことはできないものね」

「ああ」

「それがあなたの魅力です。幸運を祈ることは当然だけど、何よりも、あなたには永遠の愛を捧げるわ」

羅美は腕を絡ませてきた。林田力は香水の知識に長けているわけではないが、羅美の香水はテレビで謎めいたコマーシャルをしているエキゾチックな香りのものに違いないと検討をつけた。

「リラックスして。正義を貫くことは楽しいことでもある筈よ」

その点に関してならば、林田力は少しも疑いを抱いてはいなかった。毅然とした表情は意気揚々としていた。

林田力は様々な市民団体にも提訴を報告した。

「私は東急不動産を消費者契約法違反で提訴しました。私は何ヶ月も前から東急不動産だまし売り事件を真剣に検討し、祈りを捧げてきました。親族や友人諸氏とも話し合いを重ねました。そして遂に決断に達した今、明鏡止水の境地に至っており、公になる前に皆様にお知らせしたいと思いました」

林田力は僅かに不安げな表情をのぞかせた後にスピーチを続けた。

「私が東急不動産を提訴した理由は、ここにいる皆様と共通した価値観を大切にしたいと願うからです。大企業の横暴に苦しめられず、日々の暮らしを楽しむ自由。皆様も同じでしょうが、私も私達の価値観が損なわれていく現状に苛立ちを禁じ得ません。私達の価値観が大企業の作り出す拝金主義によって刻々と蝕まれています。今回の提訴は東急不動産のだまし売り体質を明らかにする戦いにしたいと考えています。皆様のお力添えがあれば勝てます。ご清聴ありがとうございました」

短時間で終わった林田力のスピーチは聴衆に大好評をもって迎えられた。落ち着いた賞賛の拍手の輪が会場内に広がっていく間、林田力は自分の座席に戻って腰を下ろした。

 

東急不動産の不可解

林田力が東急不動産を提訴した日に東急不動産は不可解な行動を起こした。東急不動産住宅事業本部の林正裕と野間秀一が隣地所有者を訪問し、理解に苦しむことに林田力との示談の仲介を依頼した。以下は林の言葉である。

「ところで二階の人(林田力と同じだまし売り被害を受けた住民)とは示談になる。和解が進んでいるのですが、林田力さんとは話が出来ない状態なので、二階の方のように間に入ってくれる方がいれば有難いのですが……。迷惑をかけて申し訳ないが、隣地所有者さんが間に入れたら入ってくれませんかね。林田力さんにも示談にしたいと隣地所有者から言ってくれませんか」

東急不動産は不思議なことに林田力が提訴した日に示談の依頼を行った。林田力の提訴の動きをどこからか察知して慌てたのであろうか。消費者からのクレームを放置する東急不動産の姿勢が今回の事態を招いたことを、肝に銘じるべきである。問題は先送りしてもよい結果は出ないものである。未来を予測せずに現実を処理しようとするのはおこがましい。

本人に対しては「後は弁護士でも裁判所でも都庁にでも、どこでも好きなところに行ってください」とタンカを切っておきながら、矛盾した態度である。東急不動産は自分の言葉から逃げることはできない。林田力は東急不動産を本人の言葉で縛り首にしてやるつもりであった。現実は引き返しようのない、片道切符で動いている。それを東急不動産は自覚していない。ふざけた画策をする前に過去の発言を反省すべきであった。

東急不動産の不誠実は本人を無視して別の人から話を進めようとした点にもある。どのようなことでも、こそこそ進めるのは不信感を呼ぶだけである。特に日本は根回し社会と言われるほどである。綿密に事を運ぶことは微妙な状況下では非常に重要である。話す順序を間違えれば、それだけでまとまる話もまとまらなくなる。

東急不動産の方から回答拒否をしておきながら、「林田力さんとは話が出来ない状態」とは、どこまでも人を馬鹿にした発言である。「あっちにはこう言い、こっちにはああ言い」である。二階住人との交渉も具体的な話は何らなされていないにも関わらず、決まったかのように吹聴する。実際に二階住人と東急不動産の交渉が実質的に始まるのは、林田力の裁判終結後の二〇〇七年になってからであった。

これで話が進められると考える東急不動産は異常である。責任者の林課長は冷酷で傲慢な男であったが、その程度の尊大さと残酷さは悪徳不動産営業には珍しくない。林課長の異常さは焦点を定めたら、それだけしか目を向けない偏狭さから来ているようであった。林課長は、できもしないスローガンを掲げて騒ぎまわり、人からできる男と認められたいと思っていた上辺を飾るだけの人間であった。

東急不動産は根性なしである。だまし売りは大好きだが、提訴は怖いというのだから虫が良過ぎる。どうせ詐欺をするなら、死刑になっても本望だ、というくらいの信念をもって行うべきである。住宅は一生に一度あるかないかの買い物であり、屑物件をだまし売りされた被害者の人生はメチャクチャになる。せめてだます方も人生を賭けて行うべきである。

開き直った後で示談を求めるという東急不動産の矛盾した行動の真意が何であれ、それは最早何の意味も持たなかった。林田力は既に自分の道を進んでいた。示談とは別の方角へ。林田力が目指したのは新しい場所、違う場所である。林田力は既に決心した。勇敢な新世界へ。もう引き返しはしない。行き着く先がどこかは分からなかったが、それを恐れてはいなかった。林田力を待っているのが今より良い人生ではなかったとしても、少なくとも泣き寝入りではない何かに向かっていることは確かであった。

 

東急不動産答弁書の粗末

東急不動産は答弁書を二〇〇五年三月一一日付けで送付した。以下に答弁書の内容を引用する。提訴した以上、答弁書が送付されることは予期されたが、実物を目にすると林田力の心臓は打ち鳴らされる鐘のように暴れ始めた。

***

請求の原因に対する答弁

 林田力の請求を棄却する

 訴訟費用は、林田力の負担とする

との判決を求める。

 

請求の原因に対する認否

 追って主張する。

***

答弁書は林田力からの訴状に応えて被告が最初に提出する書面である。この答弁書の内容によって、その後の裁判の大まかな方向性が決まる。東急不動産の最初の書面は形式及び内容の両面で非難の対象となるものであった。

第一に東急不動産は答弁書で形式的な表記の誤りを犯していた。答弁書は訴状に対応するものである。訴状は「請求の趣旨」と「請求の原因」に分かれている。それぞれに対応して「請求の趣旨に対する答弁」と「請求の原因に対する答弁」を書くことになる。

ところが東急不動産の答弁書では「請求の原因に対する答弁」と「請求の原因に対する認否」となっている。両方とも「請求の原因」に対するものになっており、これは致命的な誤りである。弁護士を三人(井口寛二、野村幸代、上嶋法雄)も付していることが信じ難い答弁書である。

第二に東急不動産の答弁書は具体的な内容を一切記述せず、卑劣な時間稼ぎをしていた。「請求の原因に対する答弁」では、「林田力の請求を棄却する、訴訟費用は、林田力の負担とするとの判決を求める」としながら、「請求の原因に対する認否」では「追って主張する」とするのみである。具体的な主張を何ら明らかにしていない。ここでは不動産売買契約の成立さえ認めていない。一般に被告は争いようのない明らかな事実以外は争ってくるものである。しかし東急不動産の場合は争いようのない事実さえ、肯定しない。

「請求の原因に対する認否」(請求の原因に対する答弁)は林田力の訴状の中の「請求の原因」の内容をよく読み、事項毎に認めるか認めないかを答え、認めない場合はその論拠を挙げるものである。「請求の原因に対する答弁が、いわば答弁の中身です」(高橋裕次郎『すぐに役立つ裁判・訴訟のしくみと手続き』三修社、二〇〇二年、一一六頁)。東急不動産の答弁書は中身が全くないものである。

東急不動産の答弁書は掘り下げたものが何一つない粗末なものであった。本当に自らの責任がないと主張するなら、堂々と表に出てきて説明すべきである。弁護士を三人も付していながら、不誠実極まりない応訴態度である。このようなやり方を仕事ができることと勘違いしている連中は皆同罪である。このようなやり方が当たり前と思っている会社全体も同罪である。

東急不動産の主張は不当である以前に非礼を極めていた。東急不動産は図々しさと空威張りを新しい水準に押し上げていた。つまり鉄面皮をある技術水準にまで高めているのであった。答弁書読了直後の林田力の戸惑いは想像するに余りある。答弁書を読み終わっても、林田力は呆然と答弁書を睨みつけたままであった。あまりに熱心に睨みつけたために、答弁書が燃えるのではないかと思われたほどであった。強烈な不快感と嫌悪感と怒りが黒い塊となって、林田力の胃から食道の辺りに滞留した。

これが林田力の更なる反発を招くことは自然の流れである。「戦わねばならない」という戦慄と「戦える」という歓喜の複雑な感覚が沸き起こった。林田力になされたペテンを思うだけで、いやが上にも意欲がかきたてられた。

 

あわせて訴訟委任状の写しも届く。訴訟委任状は3月11日付で三人の弁護士(井口寛二、野村幸代、上嶋法雄)に委任していた。提訴が2月18日であることを考えると、随分遅い対応である。2005年12月の渋谷での協議の席上で林や野間は既に「弁護士に相談している」と発言していたにも関わらず、である。

井口寛二弁護士は民事介入暴力事件を長年扱っている弁護士である。即ち汚濁まみれのいかがわしい裏社会を熟知していることになる。何といっても彼らの依頼人は豊富な資金を有する大企業である。

大企業は旨味たっぷりの公共事業を受注するために献金という合法的賄賂を政治家に渡し、外国の独裁者に献上する袖の下のための資金をスイス銀行に隠しているが、その種の活動ができるのも弁護士の助力があってのことである。事件によっては向こう側について踏みにじられている人達を擁護したい思うことはないのだろうか。

 

東急不動産の弁論欠席

第一回口頭弁論は三月二三日に開かれた。場所は東京地方裁判所の五一八号法廷で、開廷時刻は一三時半である。暑さ寒さも彼岸までと申しますように過ごしやすい季節となった。

東京地方裁判所は東京高等裁判所と同じ建物の中にある。千代田区霞ヶ関一丁目の裁判所合同庁舎である。法廷の扉は堂々としていた。どれほど中で激しい闘いが展開されていてもビクともしない、頑丈なつくりである。林田力は、その闘い手の一人として能力を試されようとしていた。緊張感から心臓は早鐘のように打ち、額には汗が浮いている。林田力は内心で繰り返し「リラックスしろ」と自分に言い聞かせた。

第一回口頭弁論は相対する当事者が始めて顔を合わせる場となる。法廷はどちらから見ても水平が保たれている場所である。当事者が一消費者であっても大企業であっても何人の弁護士に委任しようと、テーブルの大きさや形が変わる訳ではない。林田力は誰よりも早く到着した。余裕を持った早めの行動は林田力の数ある美徳の一つである。

法廷前の廊下には一人の人間が立っていた。その人物は四十代の紳士風の男であった。男は新聞紙を広げ、それを読んでいる振りをしていた。しかし、実際は林田力を観察していた。裁判所の中で誰かが他人を観察することには必ず何らかの理由がある。男は手に新聞しか持っていなかった。裁判所が新聞を読む場所でないことを考えれば、これは奇妙な格好であった。

大事件が審理される法廷の傍聴席は、しばしばサロンといったような観を呈する。多くの人々は、誰か知り合いの顔を見つけ、幸い席が近くて自分の席が取られる恐れがない時は立っていって挨拶を交わす。他の人々で隔てられているような時は手真似で合図を交わしていた。

ところが東急不動産は不誠実にも第一回口頭弁論を欠席した。裁判官は東急不動産の欠席を告げた。

「被告から、出頭できないと連絡がありました。よって答弁書を擬制陳述します」

擬制陳述は事前に答弁書を提出しておけば、口頭弁論に欠席しても答弁書を陳述したことにする制度である。

「私の方には何の連絡もありませんでした」

林田力代理人は憮然として答える。林田力代理人は価値を重んじる人物であり、裁判を単なるビジネスまたはスポーツとして見ていない法律家であった。林田力代理人によれば「欠席する場合は、事前に相手方に連絡を入れておくのが礼儀」とのことだが、東急不動産代理人は何の通知もせず、無礼であった。

林田力代理人は話を続ける。育ちの良さ、自信、非の打ちどころのないマナー、それらが全て含まれている声であった。

「既に被告は不利益事実も不告知も認めています。そのため、本日、被告が出席すれば早速手続きを進めていただきたいと考えておりました」

「被告との交渉は全て本人が直接行われたのですか」

「ほとんど本人です。私からは最後に一回だけ被告の担当者に電話しました。『訴訟を起こす以外に方法はないのか、お願いします』と言ったところ、『裁判所で話します』との答えでした」

この日の弁論は次回期日を決めて終わった。第一回口頭弁論の欠席は時間稼ぎを企む不誠実な被告の常套手段であるが、今回のように林田力側が裁判官に主張をアピールできるならば被告側の失点になる。

 

東急不動産は二回目で出廷

第二回口頭弁論は四月二一日に開かれた。法廷は六二五号室で、開廷時刻は一〇時半である。前回は欠席した東急不動産であるが、今回は三人でやってきた。東急不動産側の人間が来たことは臭いで分かった。敵が部屋に入ってきた途端、臭いで分かる。それが林田力の未だ失われていない野生的な部分であった。彼らが林田力の品定めをする間、お返しに林田力の方でも彼らを値踏みした。

三人のうち知っている顔は一人であった。それは大島聡仁である。大島に評価できる要素は何一つない。アルスの担当者を名乗る大島が実はアルスの建設に一切関与しておらず、担当者を名乗る資格がないことは既に明らかになっている。それにも関わらず、林田力の前で担当者面することはまともな神経ではない。そのような人物を出廷させるところにも東急不動産の不誠実さが現れている。

しかし悪徳不動産営業の辞書に恥の文字はない。自分で自分に不名誉の泥を塗る行為を重ねるうちに悪徳不動産営業は免疫を身につける。仕事と依存症の両者に後押しされ、人としての礼儀や恥の感覚を失ってしまう。代わって嘘やだましや裏切り、隠しごとや脅しの術を身につけ、僅かな罪の意識さえ感じないまま、だまし売りできる人間になっていた。

そもそも新米にしか見えない大島が上場企業を代表して法廷に来ること自体が場違いである。大島ほど法廷に似つかわしくない人物もいなかった。落ち着きや思慮というものを徹底的に欠落させた男である。

大島ほどスーツが似合わない人物も珍しくなかった。大島のスーツ姿には、着用する者とされる者との間に反発しあうものが存在するとしか思えなかった。バーの外のドブに転がっているのがお似合いである。相変わらず、口を半開きにしてヘラヘラしていた。

「面白い」

林田力は心の中で呟いた。

「判決言い渡しの時も、そうやってヘラヘラ笑ってくれないか。お前がいかに下らない人間か、皆によく見せてやってくれ」

一方で林田力は、このような考えを、しかるべき時が来るまで胸に秘めておくことができる人間であった。林田力は相手が新米だからといって甘く見ることはない。油断すると、大島のような連中は腹に噛み付くことがある。林田力は、あらゆる攻撃に備えていた。

もう一人は井口寛二弁護士であった。東急不動産は三人の弁護士を付していながら、出廷したのは井口弁護士一人だけであった。これは最後まで変わらなかった。

井口弁護士は好感の持てる目つきではなかった。「消費者に何ができる」と言わんばかりの挑発的な視線であった。その瞳には一片の温かみも見えなかった。下唇の肉付きが良いために短気で意地の悪い少年のような雰囲気である。

林田力は一目見ただけで井口弁護士が嫌いになった。あまりにも大勢の金持ちにあまりにも沢山の出費を免れさせようとする弁護士があまりにも多い。井口弁護士が悪徳不動産業者のための偽札使いであるか否かは、これから判断されることになる。

林田力も林田力代理人も傍聴人も書記官も皆、黒か紺のスーツを着ていた。これに対して井口弁護士だけはグレーで、場違いな印象を与えた。林田力は眉をひそめたくなることを我慢しなければならなかった。

この場で傍聴人達による投票が行われれば間違いなくワーストドレッサーに選出されただろう。格式ばった場所では格式ばった服装が無難であるに違いない。服を着た時やネクタイした時に何故か気がシャンとすることがある。衣・食・住と言われるが、正にその順番通りであると実感することがある。やはり、それなりの服装というものが世の中には存在する。

書籍でも以下のように記述する。

「法廷における服装や言葉遣いなども、ことさらに堅苦しくする必要はないものの、それなりの節度をもったものとすることが要請される。」(加藤新太郎編著『新版民事尋問技術』ぎょうせい、1999年、124頁)

井口弁護士は、やたらに興奮しやすく、やたらに自説に固執し、誰かの下で働いた経験が乏しく、自分一人のルールで仕事を進めてきた典型的なボス弁タイプであった。一方で法廷での手続きに不慣れなようであった。居丈高にふんぞり返ることの多い反面、法廷を秘かに恐れているようであった。安全で居心地の良い事務所で進められ、請求書の支払いに宛てられる仕事中心で、権利が認められ、否定される恐るべき戦いの場から遠ざかっているようであった。

大島と井口弁護士の間には微妙な距離感があった。悪徳不動産営業にとって企業に雇われる弁護士は愛憎半ばする関係であった。この種の弁護士は法律や正義とは無縁であった。たとえ新築マンションだまし売りであっても、金さえ積めば代理人を引き受ける。悪徳不動産営業が頼らざるを得ない相手であるが、本音では彼らの傲慢さが大嫌いであった。

また、悪徳不動産営業は弁護士を密かに恐れてもいた。弁護士の弁護対処は企業であって、だまし売りした担当者ではない。企業の責任を回避するためならば喜んでトカゲの尻尾を切る。悪徳不動産営業の人生は彼らによって、いくらでも悪い方向に向けられてしまう。

三人目は見知らぬ存在であった。林田力は一目で彼が重度の酒飲みであることを理解した。充血した目、目の周りの腫れぼったさ、ピンク色の頬と鼻、そして眉毛の上の汗。洗顔や歯磨きと並び、二日酔い対策が朝の重要な日課になっているに違いない。薬をいくらか飲み、水分をたっぷり補給して濃いコーヒーを飲む。

彼は東急不動産従業員若しくは井口寛二法律事務所のスタッフと思われる。林田力代理人は「法務か総務の人間では?」と話した。彼が何者であれ、笑顔も見せず、挨拶の一言も口にしないところを見ると、友好的な人物でないことは確かである。その目には険悪そのものの強い光があった。薄いゴムのような唇は死人のものとは言わないまでも、いかにも冷酷そうであった。

三人とも自分の背中には十分気をつけているようであった。いつ斧が振り下ろされるとも限らない状況では当然である。林田力側と東急不動産側の表面的な雰囲気は折り目正しいものであった。しかし一分毎に敵意が高まることを抑えることはできなかった。

 

嘘に満ちた東急不動産準備書面

東急不動産は準備書面を提出した。被告準備書面(二〇〇五年四月二一日付)は嘘に満ちていた。内容は貧弱で取るに足りないもので、どうでも良いことを大問題と同じ重さで扱うのみならず、時には更に重い厳粛な気持ちで表現しようとしていた。その文章たるや真実ではなく、即座に反論できるものであった。その主張は前提も間違い、推論過程も間違い、結論は勿論デタラメで、全く話にならなかった。

東急不動産は恥も外聞もなく、嘘を組み立てていた。ありとあらゆる嘘を壁に放り投げて、どれがくっつくか試しているようなものであった。あまりにも見え透いた嘘を東急不動産は必死に守ろうとしていた。ブラック・ユーモアとしてしか受け止められないような理屈を無理にも通用させようとしている。そのような強引な印象ばかりが後に残った。

それとも東急不動産自身には自分が書いた内容が狂気の沙汰であるとの自覚はないのだろうか。それならば東急不動産の従業員や弁護士の魂は病に侵されている。自己陶酔した東急不動産にとって、嘘も真実に思えるのかもしれない。

しかし客観的には嘘は嘘である。矛盾や御都合主義にも満ちており、前提から結論までの思考過程が全く理解できない。一定の順序がなく、思いつくままに書き並べたとしか思えない文章は読んでいてイライラさせられる。同じものや密接に関連するものに関する記述が何の断りもなくあちこちに散らばっており、腹が立つ。

しかも東急不動産の準備書面は林田力の主張・論点と全く噛み合っていなかった。例えるならば番組の内容や物語の舞台設定を全く無視した歌詞で歌われる新人歌手とのコラボレーション主題歌を聴かされているようで悲し過ぎた。その主張は悪意に満ちた言葉と凝り固まったイデオロギーばかりであった。東急不動産を止めなければ、東急不動産は自らの歪んだ考えを世界中に解き放ち、その後には灰しか残らなくなってしまう。

東急不動産はアルスの販売時に日照や通風、眺望をセールスポイントとしていた。ところが、裁判になると日照や通風、眺望をセールスポイントとしていなかったと主張する。一方で東急不動産はアルスが何をセールスポイントとしていたかについては沈黙する。

これでは東急不動産自身が自社物件にはセールスポイントが何一つない無価値な物件であると主張していることになる。自社物件の価値を全否定することで裁判を乗り切ろうとする東急不動産には情けなさしか感じられなかった。林田力は東急不動産との売買契約を取り消した自己の選択の正しさを実感した。

被告準備書面の問題は反論に何の根拠もないことである。販売時に配布されたアルスの図面集には「独立性の高い立地を活かした全戸に開放感ある角住戸を実現。風通しや陽射しに配慮した二面採光で、心地よい空間を演出します」と明記していた。これに対して被告準備書面では図面集とは別の広告を持ち出して、「『二面採光で心地よい空間を演出します。』との記載も無い」と否定した。別の資料なのだから、記載がないことは当然である。

準備書面の没論理に対して、批判の余地はユーラシア大陸よりも広く存在するが、文章表現も間違いだらけであった。例えば準備書面には「壁工事などは未だ未施工」との表現があった。「未だ」と「未施工」で「未」を重ねたことで意味不明な文章になっている。二重打ち消しを素直に解釈すると打ち消しの否定で肯定となり、意味が通じない。

また、被告準備書面では林田力の主張を「些か理解し難い」とする。「些か」とは「数量・程度の少ないさま。ほんの少し。わずか」の意である。もし「全く理解できない」「少しも理解できない」と主張したいのであれば「些かも」としなければならない。

東急不動産は偉そうなことを主張する前に、中学生の使う国語辞典くらい開くべきであった。東急不動産代理人の井口寛二弁護士は桐蔭横浜大学の教授でもあるが、学生にどのような指導をしているのだろうか。

後日、林田力は被告準備書面を東急リバブル東急不動産不買運動家に見せた。不買運動家は「井口弁護士の無価値で愚劣な話は以前から知っていた」と話す。

「まさに驚くべき尊大な態度であった。自分の知識を並べ立てるためだけに、あの男は問題を取り上げる。その文章は醜い未熟さを見せ、そのために威張って批判などと称している」

第二回口頭弁論になって、ようやく両当事者が揃ったため、次回からは弁論準備手続で争点を整理することになった。

 

弁論準備手続開始

第一回弁論準備手続は五月二七日一三時半から東京地裁三階民事七部書記官室で開かれた。弁論準備手続は口頭弁論と異なり、法廷ではなく非公開の書記官室などで行われる手続である。出席者は林田力、林田力代理人、井口弁護士、大島聡仁、東急不動産従業員(氏名不詳)である。

東急不動産側は、ほとんど井口弁護士だけが話した。大島は相変わらず口を半開きにして見ているだけであった。落ち着きがなく、そわそわしていた。大島のような、無知・無能を絵に描いたような人間を担当者面させる東急不動産は深く反省すべきである。

林田力は以下の証拠を提出した。

  甲第九号証:アルス写真

  甲第一〇号証:アルス写真

  甲第一一号証:アルスの宣伝チラシ

  甲第一二号証:アルス現地案内図

  甲第一三号証:隣地所有者陳述書

  甲第一四号証:林田力陳述書

林田力が提出する証拠は甲第×号証、被告が提出する証拠は乙第×号証と名付けられる。甲第一号証から甲第八号証までは訴状に添付して提出済みであったため、今回提出した証拠は甲第九号証から始まっている。

 

林田力陳述書は林田力自身が執筆したものである。血と汗と涙が詰まった、林田力の分身とも言うべき陳述書である。思い入れも半端ではない。林田力にとって陳述書の作成は不思議な体験であった。とにかく書いた。それこそ倒れるように寝て、また起きては書き始める。

当時の林田力には陳述書のことしか頭になかった。書き調べていくうちに、これもあれも陳述したいと、見直しては書き、調べては書き直しと、亀の歩みのような陳述書の作成であった。知的に響く言葉をあれこれ考えているうちに一時間が去っていったこともある。

林田力と同じような東急リバブル・東急不動産だまし売り被害者のためにも書かなければならないという義務感が林田力に存在したことは確かである。しかし、いかなる意味においても、切迫した心境とは無縁であった。堅苦しい気負いすらなく、執筆が楽しくてならないという状態であった。

もっとも、「楽しくてならない」は一面では不正確である。林田力は獲物に食いつく肉食動物のように机に組み付きながら、攻撃的な気分になっていた。いや、攻撃的にならなければならないと林田力は自分に言い聞かせた。平静なままでいたら駄目だ。何故ならば消費者運動の本質は悪徳業者に対する怒りだからである。

悪徳不動産業者を悪と言わずして何を悪として退ける。東急リバブルや東急不動産のような悪徳不動産業者を許せないと憤る気持ちこそが消費者の原動力である。実際に許さない社会を実現することが市民の義務である。

故に東急不動産だまし売り裁判は提起されなければならなかった。そのような思いを新たにするほど、媚びるような言葉遣いを用いる気にはなれなかった。悪徳不動産業者の金儲けの論理に動かされず、部分の妥協も拒絶しながら、ひたすら悪を打倒する活動に邁進しなければならない。

林田力は陳述書作成中に号泣していた。書けば書くほど、ジワジワと胸の奥から新築マンションだまし売りに対する悲しみが湧き出した。東急リバブルや東急不動産のような悪徳不動産業者の存在が許されるのか、と今更ながら胸が締め付けられた。東急リバブル・東急不動産の不誠実な対応を告発する箇所では、涙も噴き出すほどの勢いになった。涙のためにモニター画面も満足に見えなくなった。

しかし、林田力陳述書は怒りと悲しみに突き上げられるまま、その感情を文字にして叩きつけた文章ではない。林田力は自分を喪失してはいなかった。泣き、喚き、叫びながらも、どこか淡々として東急リバブル東急不動産に怒る自分を客観的に観ている部分があった。それこそが作家となるべき者に特有の目線であった。陳述書を書くことで林田力は、ヤル気満々で力に満ちた感じ、タフな自分を取り戻していった。

書き終えた時、陳述書は48ページになっていた。東急リバブル東急不動産のマンションだまし売りという世界で一番悪辣な商売の実態を細密な筆致で描きあげていた。陳述書の出来栄えに林田力は心から満足した。一晩空けて陳述書を読み返したが、恥ずかしくて仕方がないという文章ではなかった。それどころか、本当に自分が書いたのかと不思議に思うほど、とてもよく書けていた。二度目の読み返しで裁判所に提出する価値のある陳述書であると確信した。

林田力陳述書を読む東急不動産担当者が肩をいからせ、眉を吊り上げる姿が目に見えるようである。それどころか、担当者以外の東急不動産従業員が薄笑いを堪えている様子も見えてくる。消費者からの苦情を放置するだけの偽りの担当者・大島聡仁も含めた担当者の言動が彼ら自身を追い詰めている事実は何人も否定できないからである。

隣地所有者陳述書は手書きであった。流れるような書体は見るからに気品が漂っていた。画と画の間が悦妙に離れ、筆の力の入れ具合と抜き具合が見事に調和していた。筆の打ち込みや止めには豪放さが感じられ、力強い直線と柔らかい曲線が一体となった字である。その書体は見る人の心を奪わずにはおかなかった。

 

弁論準備手続きは林田力が提出した証拠の説明から始められた。

林田力代理人「甲一四号証は全ての事実を網羅した林田力本人の陳述書です」

裁判官「写真は現像したものとして、他のものは原本でしょうか」

井口弁護士「原本でなくても構いませんよ」

裁判官「印鑑が入っているものもあります」

林田力代理人「甲一三号証、甲一四号証は原本でなければならないので、原本を提出します」

書証の証拠調べは原本で行うのが原則である。それにもかかわらず、井口弁護士は「原本でなくても構いません」と、いい加減な発言をした。この適当な発言が示すように井口弁護士が提出した証拠は杜撰で形式的なミスを連発していた。そのため、以後の弁論準備手続では東急不動産提出証拠の誤りの指摘に少なからぬ時間が費やされることになる。

裁判官「写真はどのように見ればいいのでしょうか」

甲第九号証の一を示しながら林田力代理人が答える。

「下の白い部分が作業所の三階の床です」

林田力「手前の赤いものが作業所の鉄骨です」

裁判官「もう、作業所はできているのですか」

林田力「はい。壁がないだけで、鉄骨は出来上がっています」

壁がないのは隣地作業所の二階以上で、一階部分は壁も含めて完成済みであった。

裁判官「こんなに近くにあるのならば、窓全体がふさがってしまう」

林田力「はい。壁ができれば真っ暗になります」

裁判官「距離はどれくらいですか」

林田力「五〇センチメートルくらいです」

井口弁護士は「測定しましょう」と発言したが、東急不動産側から具体的に測定の申し出がなされることはなかった。林田力の主張を否定できないと考えたためであろう。

 

井口弁護士「窓ガラスは型ガラス(曇りガラス)にしているので、日照は元々ない」

裁判官は嵐をはらんだ口調で問いかけた。

「四階以上を透明ガラスにしているということは、三階が建てられることを知っていたのではないですか?」

井口弁護士「三階を建てたいと聞いていたが、いつ建てるとは聞いていない。図面もない」

ヌケヌケと言い切った井口弁護士のデタラメに対しても、林田力は辛うじて表情を制御し、吐き気を催すことなく、真顔を保っていた。林田力代理人が反論する。

「そこには回答の変遷がある。隣地所有者の話とも異なる」

「それはこちらの認識とは違う」

「そこが争点になる」

林田力代理人のまぶたの奥からは稲妻よりも鋭い光が放たれていた。

「それはそうです。ただ、あの敷地では三階建てくらいしか建てられない」

井口寛二は人を小馬鹿にした笑みをにじませた。顎が震え、太鼓腹がユサユサと揺れる。その軽薄な表情には倫理観も正義感も全く感じられなかった。井口の面を一発、ぶん殴ったならば、どれほど気持ちがいいだろう。想像しただけなのに自分でもゾッとするほど野卑な喜びが心に湧き上がる。

「それは違います。四階建てが建てられるかもしれない」

林田力代理人の声に凄みを感じたのだろう。井口弁護士の顔が少し蒼ざめた。

裁判官「建蔽率の問題で建てられないということではないですね」

井口弁護士「はい」

裁判官「西側からの日差しは夕方くらいにはあるのですか」

林田力「西側を撮影した写真が、甲第九号証の四です。一方通行の狭い道路を挟んで、このようにマンションが建っており、西側からの日差しは最初から期待できませんでした」

裁判官「このマンションはアルスが建つ前から建っていたものですか」

「はい」

林田力が裁判官に説明している間、井口弁護士は小声で大島に質問した。

「あれはどこを撮影したものか?」

「ええと……。ベランダから撮影したものです」

ボソボソと囁きあう彼らの横顔は醜悪であった。東急不動産は西側からの採光が妨げられないということを繰り返し主張していたが、井口弁護士はアルスの西側の建物を把握していなかった。東急不動産担当者と井口弁護士との間のコミュニケーションに問題がある。偽りの担当者である大島が井口弁護士に対しても担当者として接している状態では無理がない。被告準備書面が虚偽だらけになることも当然である。

 

井口弁護士「次回期日には担当者の陳述書を提出します。国土交通省への提出書類もあります」

裁判官「国土交通省とは?」

井口弁護士「この問題で国土交通省から照会がありました」

裁判官「それは林田力が行ったのですか」

林田力「はい。ただ、今の問題はそれとは別に被告が国土交通省に提出した報告書が隣地所有者の発言とは異なる内容を記載しているため、隣地所有者ともめている問題です」

東急不動産はアルス販売時に不利益事実(隣地建て替え)を説明しなかった理由として、隣地所有者が資金調達困難であり、建て替え計画に現実性がなかったためと主張した。名誉と信用を害された隣地所有者は当然のことながら東急不動産に抗議し、東急不動産は林田力だけでなく、隣地所有者ともトラブルになっていた。

林田力代理人「その問題は解決したのですか」

「宙ぶらりんの状態です」

井口弁護士は悪びれずに答えた。東急不動産には近隣住民とのトラブルを積極的に解決しようとする意思さえない。

裁判官「林田力の請求は契約の取消ですね」

林田力「はい」

裁判官「この物件には現在、居住していますか」

林田力代理人「はい、住んでいます」

裁判官「和解はないのですか」

「ない」

井口弁護士は予想される苦情に断じて取り合う気がないところを見せようとして、傲然と顎を突き出した。井口弁護士は東急不動産の幹部に「自分は毅然とした態度で和解を拒否した」と誇らしげに報告するだろう。しかし、井口弁護士は卑劣にも証人尋問後に矛盾した態度をとることになる。

最後に次回期日を決めた。

「株主総会後にして欲しい」

井口弁護士は株主総会という本件とは何ら無関係の一方的な事情を押し付けてきた。

「そうですね。色々と問題を抱えているようなので」

井口弁護士の身勝手な要求に、すかさず林田力代理人が答えた。思わずニヤリとしたくなる返答であった。

「問題は抱えていないですよ」

「それは甲第一四号証(林田力陳述書)を読めば分かります」

次回期日は七月一五日、東急不動産の証拠等提出期限は七月八日となった。期日は一ヶ月毎のペースで開かれるのが通常である。しかし、東急不動産側の身勝手な都合で、二ヶ月以上後になった。一方当事者側の都合が裁判引き伸ばしの口実とされてはたまらない。それでも林田力代理人の口調はいささかも丁重さを失わず、あくまでも声音は落ち着き払っていた。

弁論準備手続き終了後、林田力代理人は林田力の方に向いて言った。

「まずは順調だ。君が話し始めると、東急不動産はうろたえたみたいだったよ」

「全て、あなたから教わったことです」

「姿は真似できても、中身はできないものだ。先ほどは君そのものだった」

 

東急不動産の証拠改竄を指摘

第二回弁論準備手続は七月一五日一四時から書記官室で開かれた。出席者は林田力、林田力代理人、井口弁護士、関口冬樹、東急不動産従業員(氏名不詳)である。

東急不動産従業員は、何も知らない大島からアルス担当者であった関口に代わり、もう一人の従業員も年配になった。大島が不適格・無能であることを東急不動産自身が認識したのだろうか。東急不動産が本件訴訟に対し、より真剣に対応するようになったと評価できる。

しかし話すのは井口弁護士だけで、東急不動産従業員が石のように押し黙っている点は以前と変わらない。東急不動産従業員は一言も話そうとしなかった。東急不動産従業員は一言も話そうとしなかった。それが林田力の不信感の根に肥料を注いだ。話すことは意思を表明し、共通の表現と理解の場を所有することである。無言の悪意ほど、圧迫感を覚えるものはない。

林田力が関口冬樹と会ったのは今回が初めてである。関口は名乗らなかったが、林田力は東急不動産のウェブサイトで関口の写真を見たことがあったため、関口と認識できた。アルスの担当者でありながら、今日まで購入者の前に姿を現さないこと、姿を現しても自己紹介すらしないことに東急不動産の不誠実さを再確認した。

関口は東急不動産二〇〇四年度新卒採用サイトに写真付きで紹介されていた。本人にとっては穴があったら入りたい気持ちにさせられる写真かもしれない。そのためか現在は削除されているが、関口の写真には違いない。

それによると関口は一九七七年生まれで、一九九九年に入社した。趣味は「夏は顔に似合わずサーフィンを今年から始めました。冬はスノーボードとゴルフを特訓しようと思ってます」と記述する。全世界に公開されるウェブサイトで恥ずかしげもなく「い抜き言葉」を使用する。

日本語の乱れは新聞社説でも嘆かれている。「学校教育と生涯教育のあらゆる場で、国民が美しく正しい日本語に触れ、学ぶ機会を増やす国語施策が求められる」(「日本語守る意識が高まった」読売新聞二〇〇五年七月一三日)。

関口冬樹は新卒採用サイトで「商品計画は、他社物件との差別化を常に考えつつ、コスト意識を徹底させ稼ぐことの難しさ、自分が会社の代表としてプロジェクトを推進するやりがいの大きさが魅力です」と語る。

一度大空に舞い上がったことがある、というささやかな経験だけで自分を過大評価するお年頃である。大学を卒業したばかりで自分は無敵だと思い込む。自分は未完成の作品であり、あらゆる可能性を秘めている。後はあちこちに磨きをかければいい。

伸びきっていない羽で大海原を横断できると過信する雛鳥。ミスやトラブルという猛禽類は、そのような時に背後から密やかに忍び寄る。他人の言葉には耳を貸さず、一人でさっさと決めてしまう。付け上がって、単純なアイデアで窮地を脱することができると妄想する。その結果、得られたものは取り返しのつかない失態である。

関口は何とも空虚で実体を感じさせない男である。若い顔であったが、早くも老いが忍び寄っていた。表情は冬の曇り空のように陰気である。生まれた瞬間から快活さをなくしたような陰性の人間で、いつも不満げな顔をしている。覇気がないようにも怠惰に流れているようにも見える。企業という傘の下で典型的な「右へ倣え」の人生を歩んできた臭いがプンプンと漂っていた。

関口には眼鏡以外に知性を感じさせるものは存在しなかった。その眼鏡もレンズが分厚く、汚れていた。目の底には暗い輝きが感じられる。熱もなければ、愛もなく、生温い泥沼に首まで浸かっている印象であった。関口に対する印象は風船の虚ろさであった。弾けた後には何も残らない。夢遊病者を連想させる虚ろな目つきが、その存在感さえ希薄なものにしていた。私生活を日記につけたら、恐らく薄いノートでも三年間はもつであろう。

精神に異常を来たした人間に向き合うような、ある種の不安を感じさせずにはおかない人物である。右足を夢想の池、左足を妄想の沼に突っ込んでいるようである。鉄格子のはまった閉鎖病棟で壁を相手に呟いているのが似合っている。但し口を半開きにしていない点では大島聡仁よりは、まともに見える。

 

弁論準備手続は東急不動産が提出した証拠の説明で始まった。

井口弁護士「二〇〇二年一二月に隣地所有者に会っている。ここにいる関口が会った。モデルルーム、重要事項説明のために行っている。ここで建てる時期が未定と聞き、図面もないということだった」

関口は眠そうな目をしていたが、唐突に自分の名前が出されてビクッとした。井口弁護士は「目を覚ませ、このクソたわけ野郎」と悪態をつくかのように関口に冷たい視線を送った。関口はメガネを外し、激しい頭痛に襲われたかのように眉間のマッサージを始めた。

裁判官「でも、当初は早く建てたいと言っていたのでは?」

「そこは曖昧になっている」

井口弁護士は目をウロチョロさせて答えた。

裁判官「ここは隣地所有者さんがどう言ったかになりますね」

井口弁護士「そう、そう」

裁判官「林田力からは隣地所有者の陳述書が提出されていますが、会話文でコンパクトになっていない。ここは直接聞いた方が早いですね。隣地所有者が「入居者に伝えてくれ」と言ったことは確かなのですか?」

「ですから、重要事項説明で説明しました」

井口弁護士は誠意の欠片もない口調で言い放った。

「説明されていません。周辺は私有地になっており、そこでは建つ可能性があるという記述だけです」

林田力は即座に井口弁護士の虚偽を否定した。あまりのデタラメに腕に鳥肌が立った。

「一般的な記述だけです」

林田力代理人も同調する。

「いやいやいや、北側建物を指してのものです」

井口弁護士は反抗的な薄ら笑いを浮かべながら答えた。

林田力「どのマンションを買ったとしても書いてあるものです」

林田力の体内では東急不動産に対する深甚な憎悪が音もなく沸騰していた。林田力は自身の内で煮えたぎる感情から目をそらし、遠くへ視線を放った。

井口弁護士「三〇一号室が接しているのは北側建物だけですから」

裁判官「他のマンションの方では問題になっていないのですか」

「はい」

これも井口弁護士の嘘である。井口弁護士は息を吐くように嘘をつく。

「いいえ。二階の方とトラブルになっています。隣も二階建てですが、アルスとは高さが違うので、二階からの眺望の妨げにはなりませんでした」

「問題にはなっていませんよ」

井口弁護士は真剣に誤魔化そうとしていたが、いかにも退屈している演技をしていた。

「訴訟はなっていませんが、トラブルになっています」

林田力の言葉は、その強烈な存在感で周囲の空気を圧した。井口弁護士は顔をしわくちゃにして渋面を作った。嘘を指摘された時に見せる顔である。

「政治家が出てきて…(笑)」

井口弁護士は笑った。まるで剃刀のような笑い声、薄くて危険な笑い声であった。二階住民は元江東区議に解決を依頼したが、東急不動産の引き延ばし工作で協議は進展していなかった。

裁判官「一階はないのですか?」

林田力「一階は駐車場で、住戸はありません」

裁判官「それなら問題ないですね。隣は作業所で騒音が出るとあるので」

「準備書面は消費者契約法四条の要件に沿ってまとめてあります。林田力の請求は解除なので」

井口弁護士は林田力の請求を「解除」と言ったが、厳密には取消しである。悲しむべきことであったが、これも井口弁護士が司法の現場での経験が哀れなほど不足していることを如実に示すものであった。

東急不動産の事実誤認の根底には、理論的無知が存在する。法律を学習する人間(法学部ニ年生)ならば、井口弁護士の発言が直ちに「間違っている」と理解できる。分からなければ失格である。三年生に進級できない。

裁判官「話し合いならば裁判所としても色々と解決策はありますが、被告側がないと言っておりますので審理を続けることになります」

 

林田力代理人「今回提出された証拠には疑問点が多々ある。被告準備書面も含め、反論の機会をいただきたい」

裁判官「わかりました。(被告に)証拠には写ししかないのですか」

井口弁護士「ありません」

裁判官「写真は原本を出さないと」

井口弁護士の回答がユーモアのつもりであったならば、的を完全に外していた。東急不動産は原本を提出しなければならない証拠についても写しの提出だけで済まそうとした。裁判官に原本を提出すべきと指摘されて渋々「はい」と従った。

裁判官「乙七号証も写しですか」

井口弁護士「これは原本がないものなので……」

裁判官「作成者は大島となっているが、捺印がない……。ああ、これは林田力に宛てた手紙そのものですか」

林田力「この後に出された手紙には社印が押してあります。この手紙は大島個人が書いたようになっていますが、社印があると言う点では、この後のものの方が正式です」

林田力代理人「証拠説明書には幾多の誤りがある。まず乙第三号証の『本件建物の西側部分』は誤りではないか」

井口弁護士「正面なので西側です」

林田力代理人「下の写真です」

裁判官「北側では?」

井口弁護士「そうです」

「訂正しなければ、こちらで反論するだけです」

林田力代理人の瞳に炎が宿った。

井口弁護士「訂正します」

林田力代理人「乙第四号証には作成年月日、作成者の記載がない」

裁判官「これは建築時に作成したものですか」

井口弁護士「いいえ。そのために証拠説明書に「入れ込んだ図面」と書いてあります」

林田力代理人「こちらでの測定と間尺が違うので、その点は反論します」

井口弁護士「具体的にどの箇所が違いますか?」

林田力代理人「隣地との距離です」

 

林田力代理人「乙第五号証は菱形はつしもワイヤーのカタログだそうですが、典拠をもう少し詳しくお願いします。こちらでも同じカタログを入手していますが、ページ数が合わない」

井口弁護士「わかりました」

林田力代理人「それからこのページだけでは性能がよく理解できない」

井口弁護士「そう思いまして現物を持ってきました。写真では分からないと思いまして」

井口弁護士は袋からガラスの破片を持ち出して裁判官に見せた。

東急不動産はアルスで使われた窓ガラスがセントラル硝子の「菱形はつしもワイヤー」であると主張して、カタログ(乙第五号証)を証拠として提出した。しかし、これは東急不動産に都合の悪い箇所を除外したものであった。東急不動産は「菱形はつしもワイヤー」が型ガラス(曇りガラス)であるため、眺望や採光を企図した窓ではないとの詭弁を弄した。

ところが、菱形はつしもワイヤーのカタログの七六頁には用途として「展望台のエレベーターのかごの窓」や「ベランダ」を掲載している。これは菱形はつしもワイヤーが眺望や採光を企図していることを示す。東急不動産は卑劣にも用途が書かれた七六頁を除外して証拠として提出したが、林田力は自らメーカーにカタログを請求して東急不動産が隠そうとした情報を把握していた。

 

林田力代理人「乙第六号証は綴じる順番が逆ではないか。一頁目が後ろになっている」

井口弁護士「その通りです」

林田力代理人「一頁目も二頁目も共に井田真介作成で宜しいか」

井口弁護士「はい」

林田力代理人「一頁目には井田氏が知るはずのない事実が含まれている」

井口弁護士「他人から聞いたのでしょう」

井田はアルス建設地を地上げして東急不動産に転売した康和地所の従業員であった人物である。転売後も近隣対策屋として東急不動産のために働いていたが、マンション販売には関係していない。しかし、井田の陳述書には林田力のアルス売買契約締結日や物件引渡し日まで記されていた。東急不動産が顧客との契約情報を他人にベラベラと話す企業であることが井口弁護士の回答によって明らかになった。

裁判官「井田氏は被告側の人間なのですか」

井口弁護士「そうです」

裁判官「被告のために仕事をしていた?」

井口弁護士「いいえ。売主、康和地所の担当者で引継ぎのために仕事をしていました」

林田力「その点は隣地所有者の話と食い違っています」

林田力代理人「井田氏は東急不動産の代理人として住民と折衝していました。そこは裁判所のご判断をお願いします」

 

林田力代理人「乙七号証は一枚目が大島作成、二枚目が関口作成となっているが、枝番を振るべきでは」

井口弁護士「それはどちらでも構いません。証拠説明書には一枚目、二枚目と書いてあります」

「枝番を振る形で差し替えお願いします」

裁判官の声は穏やかだが、威厳がこもっていた。旅客機の機長が乗客にシートベルトを締めろと指示しているようであった。

「乙七号証の二は改竄がされている」

林田力代理人は爆弾を投下すると、自分の言葉の重みと鋭さが相手の心にしみこむのを待った。

「改竄というと?」

井口弁護士は声を漏らした。抑制しようとしながらも思わず発した驚きの叫びである。急につかまれて押さえ込まれた老レスラーのうめきにも似ていた。

「こちらの入手した証拠と相違点がある」

林田力代理人は、さも何か必要な文書があるような手つきで書類の束をめくっていた。

「そういうことですか」

井口弁護士は小さな吐息を漏らした。井口弁護士は怯えきった顔をした。それまでも怯えた顔をしていたが、今度とは比べ物にならない。林田力代理人が井口弁護士を刺したのではないかと思われるほどの顔であった。

まるで平手打ちでも食らったかのように顎がガクガクと震える。その姿は犬に似ていたが、犬のようなかわいらしさは皆無であった。林田力代理人が相手を驚かしてやりたいと望んでいたならば、その望みは達せられた。林田力代理人が東急不動産側に与えたショックは生きたコブラか手榴弾を投げつけた以上のものであった。

東急不動産側にとっては恐怖の瞬間であった。裁判官は、いかにも信じられないという表情で、あんぐりと口を開いて井口弁護士を見つめた。改竄した証拠を提出した事実が暴露されたことは東急不動産にとって致命的なダメージであった。

 

林田力代理人「乙二号証は標記が異なります」

東急不動産は証拠説明書で乙二号証を「重要事項説明書」としていたが、実際の乙二号証は林田力がパンフレットなどを受け取ったことを示す受領書に過ぎなかった。

裁判官「受領書ですね」

「重要事項説明を聞いたということです」

井口弁護士は証拠改竄のダメージから回復して正常な呼吸を取り戻そうと必死であった。

林田力代理人「証拠説明書に重要事項説明書と書いてある」

井口弁護士「そういうことですか。わかりました」

裁判官「これはパンフレットなども受け取ったというものですね」

 

今回の弁論準備手続も終わりに近付き、次回期日が取り決められた。裁判官は愛想の良い眼差しを向け、林田力代理人に尋ねた。

「林田力としてはまだ話し合いということにはなりませんね」

「はい。やるべきことをやってからです」

「次回期日は八月下旬になります」

「すいません。私は中国に行っていていません」

井口弁護士は自慢げに話す。井口弁護士は必要のない時にまで自分を大きく見せようとする間抜けな人種であった。林田力は下らない話を聞くために心の準備をした。

「中国と電話会議というわけにもいきませんね」

「日中法律家友好協会の行事で八月二二日から九月二日までです」

裁判官「長いですね。では九月六日はどうでしょう?」

林田力代理人「構いません」

井口弁護士「私は一一時から予定があるので、なるべく遅くしてもらえませんか」

裁判官「では一四時からは?」

林田力代理人「構いません。では準備書面は一週間前に提出します」

井口弁護士「ああ、一週間前だと…。でもこれは仕方ない」

林田力代理人「中国にいるのは、そちらの都合で仕方ないでしょう」

最後に裁判官は井口弁護士に「証拠説明書の差し替えをお願いします」と念押しした。

 

隣地建て替え把握と改竄証拠

東急不動産だまし売り裁判の主要争点は「東急不動産が隣地建て替えを知っていたか」であった。東急不動産は隣地建て替えを把握していたことは明白であった。東急不動産は隣地所有者に対し、東急不動産がアルス購入者に以下の説明をすると約束していた。

・アルス竣工後に隣地を建替える建替えが行われること。

・隣地は作業所なので騒音・臭いがあること。

しかし裁判において、東急不動産は改竄した証拠を提出してまで上記事実を争った。東急不動産は「隣接地の利用計画について、建築(建替え)計画があるものの、その具体的な着工時期、建築内容などが未確定であった」と主張した。その具体的内容は以下の通りである。

隣接地の利用計画について、建築(建替え)計画があるものの、その具体的な着工時期、建築内容などが未確定であった。東急不動産担当者・関口冬樹がアルスの重要事項説明のため隣接地建替え工事について、工事図面等を求めたところ、隣地所有者から、まだ建築予定の建物図面が作成されていないことや融資を受ける金融機関がまだ見つかっていないとの説明を受けた。

これに対し、林田力は隣地所有者の陳述に基づき、以下内容で反論した。

隣地所有者と関口冬樹の会話は単なる挨拶、茶飲み話に過ぎなかった。関口冬樹は重要事項説明の内容を決めるというような重要な話を一切していない。

東急不動産は自己の主張を裏付けるために改竄証拠「乙第七号証の二」を提出した。これは被告証拠説明書によれば東急不動産が国土交通省関東地方整備局建政部建設産業課に提出した報告書の一部で、東急不動産担当者とマンション隣接地の所有者の会話を再現した内容とする。「乙第七号証の二」では関口冬樹が隣地所有者に対し、「そろそろ重要事項やモデルルームの準備をする時期なので」と発言している。

ところが、東急不動産が国土交通省に提出した報告書そのものでは関口冬樹は上記発言をしていない。東急不動産は国土交通証に提出した報告書を改竄し、都合の良い台詞を書き加え、「販売するマンションの重要事項の説明のため隣接地建替え工事について、工事図面等を求めた」と話を持っていこうとした。実際はマンションの重要事項に反映させるような話は隣地所有者と東急不動産の窓口担当者・井田真介との間で決着済みであり、関口から重要事項についての話はなかった。

弁論準備手続で東急不動産提出証拠の虚偽を指摘したことは見事な成果であった。悪徳不動産業者の不正を暴くほど快感なものもなかった。これは一種の慰謝であり、何ヶ月も裁判の重圧に耐えている林田力の労苦と犠牲に報いてくれるものであった。これで全て無駄骨に終わるのではないかと案じる必要はなくなった。

この後、林田力は東急不動産が改竄する前の報告書を証拠(甲第四〇号証)として提出し、東急不動産の証拠改竄を実証した。これだけ確固たる嘘を指摘した以上、東急不動産としては防戦のしようがない。他に一つか二つの嘘が暴露されれば、それだけで東急不動産の主張はトイレに流される運命であった。

 

東急不動産の図面集捏造に反論

第三回弁論準備手続は二〇〇五年九月六日一六時から民事第七部書記官室で行われた。出席者は林田力、林田力代理人、井口弁護士、大島聡仁、関口冬樹である。林田力は常に時間に遅れず、身なりも清潔、準備万端怠りなく、休養も十分、次のイベントに向けて出発する用意が整っていた。東急不動産だまし売り裁判は至高の大義に裏付けられた天命になっていた。

東急不動産従業員は常に二人で出席している。東急不動産従業員二名のうち、背の低い方が大島である。東急不動産従業員は一人では仕事ができないようである。前回いなかった大島が出席した。何も知らず、決定権もない大島を出席させるという点から東急不動産の本件訴訟に対する意識は後退したものと判断できる。

東急不動産の経営幹部は大島聡仁のような無能な人間を出廷させて裁判の状況を正確に把握できると思っているのだろうか。文書を読み、耳で聞くことにより、理解できることは実際の何分の一だろうか。経営幹部は自分自身の塹壕の中に閉じこもり、実際の戦闘シーンを見ようとしていないのではないか。

手続の場でも関口は多少事情を理解しているように見えたが、大島は全く理解できていない様子であった。高等数学の講義を受ける小学生、アラビア語によるコーラン朗読を聞くフィンランド人のような表情であった。担当者としての力量も才能も持ち合わせていない上にアルス建設時の事情も知らないのだから当然である。無責任極まりない対応をした大島と対面することは林田力にとって不愉快極まりない。それは生理的嫌悪感の集積であった。

 

弁論準備手続は裁判官の雑談から始まった。

裁判官「ここ(書記官室)は仮住まいなのですよ。来年の1月に13階に戻ります。それまでに終わらせたいですね」

林田力代理人「終わらせましょう」

裁判官「まず林田力が提出した証拠について」

林田力代理人「私から説明しても宜しいでしょうか」

裁判官「はい」

林田力代理人「被告が複数種類の図面を作成し配布していたことがわかりました。甲第一五号証から甲第二四号証までが反論のための証拠です」

東急不動産が証拠として提出した図面集(乙第一号証)は林田力が販売時に受け取ったものとは別物であった。林田力は東急不動産が実際に配布した図面集を証拠として提出し、東急不動産の証拠捏造を立証した。

林田力代理人「甲第二五号証は物件の写真です。様々な角度から撮影しました。ただ写真だけでは分からないこともあります。是非、一度現場検証をしていただきたく。正式の検証ではなくても双方立会いの上という形でも構いません。現場を見ると写真の見方も変わります」

裁判官「八月に撮影した写真もありますね」

井口弁護士「七月もある。時期はいろいろあるのですね」

林田力代理人「林田力以外の撮影者もいます。証拠の説明文に書いております」

林田力以外の撮影者とはジャーナリストの山岡俊介のことである。山岡はアルスを取材し、このだまし売り事件についての記事を発表していた(「東急不動産側が、マンション購入者に「不利益事実」を伝えなかった呆れた言い分」ストレイ・ドッグ二〇〇五年二月二一日)。その記事で使用された写真も証拠として提出した。

林田力代理人「それから甲第二六号証から甲第三八号証までが林田力と被告らがやり取りした文書です。時系列に並べているので、経過が全て分かります。甲第三九号証は電子メールのやり取りをまとめたものです」

裁判官「東急リバブルとは販売した会社?」

井口弁護士「関係者とのやり取りということでしょう」

林田力代理人「電子メールのやり取りだけをまとめましたので、文書でのやり取りと時間的に重なっている部分があります」

井口弁護士「了解しました」

林田力代理人「甲第四二号証(林田力陳述書(二))は被告主張及び証拠に対する全面的な反論となっています」

井口弁護士「これを読めば他の証拠の関係が分かるというものですか」

林田力代理人「はい。証拠番号も振っておけば、より分かりやすいですが」

裁判官「林田力の文書での主張の方は?」

林田力代理人「訴状の通りです」

裁判官「被告の反論は?」

井口弁護士「正直申し上げて、一週間で全てを読むことはできませんでした」

林田力代理人「それはそうでしょう」

「お時間をいただきたい」

井口弁護士は高級レストランで豪勢なステーキを平らげた後で、ハンバーガー一個分の所持金しか持っていないことに気付いたような表情になっていた。

林田力代理人「やむを得ないことです」

井口弁護士「前回、被告は隣地所有者との経緯を主張しました。今回、新しい証拠も出ています。先ず裁判所が争点整理をするのはどうでしょう」

裁判官「担当者がいろいろ出ていますが、その陳述書は?」

井口弁護士「出すことはできますが、訴訟の範囲に議論があります。どの範囲まで関係するのかという問題があります」

 

林田力代理人「証拠の原本は持参してきましたが、提出はどうしましょう」

井口弁護士「写しで構いませんよ。必要なものは先生のところで拝見するということでどうでしょうか」

林田力代理人「それでは本日提出ということで宜しいですか」

裁判官「はい」

林田力代理人「これで肩の荷が下りました」

井口弁護士「これからは写しだけでいいですよ」

 

林田力代理人「是非とも現場検証をお願いします。現場に行けば終わりも見えます」

裁判官「キーは隣地所有者と考えます。隣地所有者がどう言ったかということ。どのように伝わってどうなったのか。建てるとは聞いているが、いつ建てるとは聞いていなかった」

林田力代理人「それが被告の主張です」

裁判官「そのため被告は重要事項で将来建てられることがあると説明した」

井口弁護士「重要事項で説明できるほどの確定的な事実ではなかった」

裁判官「これに対して林田力の主張は、被告は知っていたにもかかわらず説明しなかった」

林田力代理人「被告は故意に秘匿して販売した。既に提出しました隣地所有者の陳述書で、この事情を述べております。これが重要です。今回の証拠でも被告が知っていたことを裏付ける傍証を提出しています。例えば甲第二四号証はアルスの管理規約です」

裁判官「これを証拠とする理由が裁判所には不分明なのですが」

井口弁護士「私も分かりませんでした」

林田力代理人「管理規約七二条七号の『プライバシーを保護するため、一部に型ガラスを使用しており、将来にわたって変更できないこと』です」

裁判官「これはすりガラスのことですか」

林田力「はい。型ガラスとは曇りガラスのことで、管理規約で曇りガラスを使用するところでは居住者が変更することを禁止しています」

林田力代理人「被告は隣地が建てられることを予期していたことになります」

井口弁護士「この管理規約には発効年月日が書かれていない。原本とありますが、本当の管理規約ですか」

管理規約が購入者に配布されたのは契約締結時である。その時点ではアルス管理組合は発足しておらず、管理規約の発行年月日は書けない。それを承知の上で東急不動産は購入者に配布した筈である。東急不動産の弁護士が上述の質問をすること自体がおかしい。承知していながら難癖をつけているのか。それとも偽りの担当者である大島聡仁からしか話を聞いていないために本当に知らないのか。

林田力代理人「この状態で配布された。まだ管理組合は成立していないから日付が入っていない」

「新しく日付の入ったものが別にあるということですか」

井口弁護士は睡眠と精神的余裕を不足させた赤い目で林田力を睨む。両目だけが炉の中の石炭のように燃え上がっている。そこから放たれた憎しみの矢は真っ向から林田力を突き刺した。

林田力「購入時に渡されたものがこれで、他に配布はされていません」

裁判官「配布されたのはいつですか」

林田力代理人「契約を締結した二〇〇三年六月二六日です」

裁判官「その頃は、隣地はまだ建替えられていなかった」

林田力「はい」

裁判官「『一部に』とありますが、他の窓は曇りガラスなのですか」

「裁判官、西側も曇りガラスならば光は入ってこないでしょう」

井口弁護士は茶化したが、裁判官は真面目に質問を続ける。

「そうではなく、南側はどうなのですか」

「バルコニーになっています」

林田力は落ち着き払って回答した。

裁判官「他に曇りガラスを使っている住戸はないのですか」

「南東が五階まで曇りガラスになっています」

大島が唐突に口を開く。林田力は大島が文章を最初から最後まで口にできることに驚かされた。話し振りはのろくさく、目つき同様に虚ろな声であった。

「南東は住居と接しており、四階まで曇りガラスになっています」

即座に林田力は大島の嘘を訂正した。嘘を指摘された大島は顔を紅潮させた。首の筋肉が強張り、顎が重そうに震えた。

大島は極めつけの厄介者である。マトモな会社ならばコピー係を任されるほどの値打ちもない。頼まれてもいないのに出しゃばり、迷惑極まりない。そのくせ本人は役に立っているつもりであるから、付ける薬がない。要するに自分が見えなくなっている。その上、協調性に欠け、常識的なビジネスマナーも身につけていない。そのくせ自分の意見を退けられた日には、いきなり臍を曲げてしまう始末である。

裁判官「写真はありますか」

林田力「全ての角度から写真を撮ってはおりません。陳述書に位置関係を示す図を掲載しています」

林田力代理人「甲第四二号証です」

林田力「一三頁の図です。これは位置関係を示すための図で縮尺は正確ではありません」

裁判官(図を指して)「アルスはこの部分?」

林田力「はい。敷地は、いびつな形になっています。この住居と接している部分も四階まで曇りガラスになっています」

裁判官「ちょっと写っている写真がありませんでしたか」

林田力「甲第二四号証の一二です」

裁判官「この建物(アルスの南東にある戸建て住宅)が何か疑問に思っていました。ここはアルスが建てられる前からあったものですね」

林田力「はい」

裁判官「となると管理規約の型ガラスはこれを指しているとは考えられませんか」

林田力「林田力宅も、そこと同じ型ガラスを使用しています。建設時に建物と接していない三〇一号室を型ガラスにしたのは被告が建て替えを確実なものと認識していたことを示します」

林田力は微笑した。その微笑には、どことなく相手を冷やりとさせるものがあり、井口弁護士は言葉を挟もうとして躊躇した。

「被告はアルス建築時に建物と接している箇所は曇りガラスにするという方針を持っていました。実際に近隣住民に説明しており、隣地所有者も説明を受けています。曇りガラスにすると説明した以上、後から居住者に勝手に変えられては約束違反になります。そこで被告は管理規約で縛りをかけて、居住者がガラスの材質を変えることを禁止しました」

井口弁護士は「一消費者風情が、何故これほど話術に長けているのか」とでも思っているような目をしていた。裁判官は井口弁護士に語りかけた。

「ということですので、反論があれば出してください」

「どのような形で反論するのが望ましいでしょうか」

「文書での主張でいいでしょう。証拠抗弁や陳述書、いろいろあります」

 

裁判官「被告証拠説明書差し替え版の方は?」

井口弁護士「八月半ばに発送しました」

林田力弁護士は井口弁護士の嘘を訂正する。

「半ばではなく下旬です。受取書に八月二四日と日付が入っています」

裁判官「乙第五号証と乙第七号証がある。乙第八号証がないのは?」

井口弁護士「差し替えだから。差し替えたものだけです」

裁判官「差し替えた証拠は枝番を付けただけ」

井口弁護士「はい。中身が変わったら差し替えにならない」

林田力も井口弁護士の嘘を訂正した。

「乙第五号証はページが増えています」

井口弁護士「七六頁と七七頁は最初からあったものです」

林田力代理人「七六頁はなかったでしょう。こちらが指摘して付けたものです」

「そうでしたっけ」

井口弁護士は、とぼけた。林田力は、わざとらしく天井に視線を投げた。拙劣した演技を見せられて辟易した観客の表情を露骨に示す。

林田力代理人「そうですよ。型ガラスの性質は七六頁に書いてあります」

林田力「七七頁はガラスの切り方が中心で、それだけでは何も分かりませんでした」

 

裁判官「人証は隣地所有者と林田力本人、後は担当者ですね。前の売主(康和地所)はどうですか」

井口弁護士「担当者はいますが、訴訟の範囲をどこまでとするかが問題です」

裁判官「売主は法人なのですよね」

井口弁護士「はい」

林田力代理人「現場検証もお願いします。事実を見ることができます」

裁判官「ビデオを撮るという方法もありますね」

林田力代理人「私としては是非とも裁判所に見ていただきたい」

井口弁護士「裁判所はいつ異動するか分からない。ビデオは証拠に残ります」

「私の転勤まで考えているのですか?」

裁判官は自分の転勤を期待するかのような井口弁護士の発言をたしなめた。

林田力代理人「現場を見ると変わります」

裁判官「現場百見とは言います」

 

弁論準備手続は裁判官のまとめで終わった。

裁判官「林田力は甲第一五号証から第四二号証まで提出しました。被告は乙第五号証の一、二と第七号証の一、二を差し替えました。林田力は人証と現場検証の申請をお願いします。被告は甲第一八号証(東急リバブル錦糸町営業所によるアルス虚偽広告)又は第四二号証(林田力陳述書(二))に対する証拠抗弁でどうでしょう」

裁判官は親切にも東急不動産に反論の方法まで教示したが、東急不動産が証拠抗弁を提出することはなかった。林田力の提出した証拠は真実であり、東急不動産は正面から反論できなかったためと推測する。

「早くその通りと言ってくださいよ」

林田力代理人は井口弁護士に無駄な抵抗と時間稼ぎを止めるように求めた。言葉そのものは穏やかであった。しかし、林田力には分かっていた。内心は林田力代理人も東急不動産のデタラメな証拠に怒り心頭であった。それを表情に出さないよう、必死で抑えていた。

「代理人が自認してどうするのですか」

井口弁護士は守勢に立たされた弁護士の常套手段としてショックと失望の表情を取り繕いつつ答えた。信じられないという思いを表すために眉毛を吊り上げる。困惑を表すために頭を左右に振る。最後に片手で顔をつかみ、眉根を寄せながら頬をすぼめる。

東急不動産は過ちを認めようとはしなかった。頑なに自分の城を守ろうとしていた。認めることは、決して怖いことではない。少し肩の力を抜いて認めてみると良い。

「行政訴訟でもないのに、証拠は多いと大変でしょう」

井口弁護士は、ただ間を埋めるためだけに話を続けた。井口弁護士は自分ではユーモアを解する男と自負しているようであったが、そのユーモアとは他人を馬鹿にし、貶める類のものであった。つまり悪意を含むユーモアであった。

「私は民事事件でも甲第三百号証まで出します」

林田力代理人は頭の回転が速く、説得力に富み、自惚れや手抜きとは無縁の人物であった。

「重いでしょう」

「いやあ、弁護士は力仕事です」

 

「倉庫」との虚偽説明を糾弾

第四回弁論準備手続は一〇月一四日一一時から民事第七部書記官室で開催された。出席者は林田力、林田力代理人、井口弁護士、関口冬樹である。協議には書記官も同席した。次回以降の日程として以下二点が決められた。

第一にアルスでの現地進行協議手続を一一月二九日一四時から行う。アルス正面玄関に集合する。進行協議は今後の審理の進め方について協議する場であるが、裁判所外で行うこともできる。現場検証となると大掛かりになるため、進行協議の名目で事実上の現場検分を実施することにした。

第二に証人尋問を一二月二二日一三時半から一六時半まで東京地裁六二五号法廷で行う。

 

裁判官「被告から書証が提出されました。乙第一〇号証は黒くて分からない」

乙第一〇号証は建替え前の隣地建物の写真数葉であるが、カラー写真をファックス送信したため、全体が黒くなって判別できない状態であった。

井口弁護士「後で送付します」

裁判官「差し替えとなりますか?」

林田力代理人「今回提出でいいですよ」

裁判官「出てから提出でいいですか?」

井口弁護士「どちらでも構いません」

裁判官「乙第九号証は書面なのでオッケーですね。(被告提出証拠原本を見て)乙第一〇号証の原本はカラーになっていますね」

井口弁護士の顔は赤くなった。左半面と右半面との間に断層が生じて二つの表情が同居した。

「原本はそうです。写しもカラーをお渡しするつもりでしたが、事務所の者が持ってくる書類に挟まなかったようで…」

井口弁護士は「事務所の人間が悪い」と他人に責任転嫁する。実作業を事務員にやらせるとしても、自らのチェックの甘さを反省すべきである。主任弁護士としての自覚は皆無である。井口弁護士のメンタリティは悪徳不動産営業と同じである。全て悪いのは他人である。結局、騙された消費者が悪いとしてだまし売りを正当化する。

井口弁護士「私は控えを持っていますので、これをお渡します」

林田力代理人「これで改めて郵送せずに済みましたね」

裁判官(写真を見て)「これは何ですか?」

井口弁護士「建替え前の建物です」

裁判官「そうすると隣地は、それほど広い建物ではないわけですね」

林田力代理人「はい。証拠として図面も出ております」

裁判官「これは倉庫として使われていたのですか」

林田力「販売時には東急リバブルから倉庫として説明されました。しかし、実際は作業所として使われていたそうです」

井口弁護士「倉庫兼作業所でした」

「東急リバブルが配布した案内図にも倉庫と記述してあります」

林田力はピシャリと言い返した。東急不動産は隣地建て替えを隠しただけでなく、建て替え前の作業所も(作業騒音の発生しない)「倉庫」「資材置き場」とだましてアルスを販売した。東急不動産は販売パンフレットでアルスを「閑静な住環境」とアピールしていたが、舌先三寸の美辞麗句であった。

 

裁判官「証人として林田力から隣地所有者と中田愛子(東急リバブル営業担当者)、林田力本人、被告から関口冬樹、井田真介が申請されました。隣地所有者は呼び出しですか?」

林田力代理人「呼び出しでお願いします。私どもよりもお願いはします」

裁判官「中田愛子は敵性証人ですね。もし被告が林田力の主張を否定するのならば必要になりますが、今回は不要で宜しいですね」

林田力代理人「構いません」

裁判官「次回に林田力側証人尋問を行い、次々回が被告側証人尋問とします。反対尋問も含め、三時間で十分ですか」

井口弁護士「二人で三時間ですか?」

裁判官「はい。被告側証人の尋問は年明けになるでしょう」

井口弁護士「ずいぶん時間をかけますね」

裁判官「林田力本人は既に長大な陳述書を提出しておりますので、ポイントだけで十分でしょう。隣地所有者が第三者ということで中心になります」

林田力代理人「了解しました」

 

裁判官「林田力からは現場検証の申出がなされています。これは正式の検証ではなく、進行協議手続きということで宜しいでしょうか?」

林田力代理人「構いません」

裁判官「一四時にアルス一階正面玄関集合とします。裁判所は車を使えます。一三時に出れば間に合うでしょうか?」

林田力代理人「お昼ならば混んでいないので、三〇分程度です」

裁判官「駐車場はありますか?」

林田力代理人「ありません」

井口弁護士(関口に)「あるか?」

林田力代理人「アルスの駐車場は、もう東急不動産とは関係ないでしょう」

関口「コインパーキングならあります」

林田力代理人「料金はこちらで負担します」

裁判官「数百円でしょう」

林田力代理人「証人の旅費と同じ扱いですから」

書記官「そういうことになりますね」

林田力代理人「ビデオはどうしますか」

井口弁護士「林田力側で撮影されれば?」

裁判官「写真は既に証拠としてたくさん提出されており、後は実際に五感で確認するだけなので、必要ないでしょう」

 

アルス東陽町での進行協議

現地進行協議手続は二〇〇五年一一月二九日一四時からアルス正面玄関にて行われた。事実上の現場検証である。

林田力にとって東急不動産側の人間を自宅に上げることには抵抗があった。東急不動産だまし売りマンションに少しでも入れば、どのような訪問者も暗澹たる気持ちにさせられた。林田力宅がゴミ溜めというわけではない。しかし部屋の天井は低いし、家具や調度類はないも同然である。東急不動産側の連中が嘲笑することは確実であった。そもそも東急不動産が販売した物件であるが、彼らはそのようなことを考えたりはしない。そのような連中が訪問時に見せる俗物根性を我慢しなければならないと思うだけでも苦痛であった。

林田力側は本人と代理人に加え、元江東区議会議員も立ち会った。元区議は林田力と同じく東急不動産のだまし売りの被害を受けた2階住民から東急不動産との交渉の委任を受けていた。しかし、東急不動産は不誠実にも元区議との交渉に対応していなかった。

一三時半には裁判所(裁判官、書記官、司法修習生二人)、林田力代理人が到着していた。その後、並木元区議が到着する。林田力は林田力代理人、元区議を紹介し、両人は名刺交換した。

林田力代理人、並木元区議、林田力で雑談した。一一月の空気は冷たくて爽やかであった。隣接する洲崎川緑道公園には落ち葉がヒラヒラと舞い、散歩には絶好の季節であった。

林田力代理人「隣地は完成しそうで、中々完成しませんね」

元区議「この問題があって止めていた時もあったようですよ」

元区議は洲崎川緑道公園について説明した。

「この辺は都有地が払い下げられたものです。元々、洲崎パラダイスという遊郭であった。緑道公園は洲崎川という川で、私達が運動して埋め立てて公園にした。最近ようやくマンションが建つようになった」

林田力「東陽一丁目にはアルスの販売と同じ頃にダイナシティもマンションを販売していて、そこの営業は『この辺は元遊郭だった関係で土地は比較的安く手に入った』と言っていました。その種の情報は、東急リバブルは消費者に絶対教えません」

並木元区議「安い筈ですよ」

 

東急不動産側は例によって時間ギリギリにやってきた。出席者は井口弁護士と大島聡仁である。何も知らない大島を相変わらず出席させるところに東急不動産の不誠実さが看取できる。井口弁護士と大島は別々に来た。井口弁護士が先に到着した。太陽の下では爬虫類のような井口弁護士の視線も威圧感は皆無であった。

井口弁護士は林田力に対し、唐突に「会社の連中来てる?」と質問してきた。その高圧的で潤いのない声は、うんざりするほど聞かされていたものであった。井口弁護士の質問は無神経で、いかにも脅迫し慣れている人間といった感じであった。林田力は代理人を立てて訴訟に臨んでいる。代理人に断りもなく、林田力に直接質問するのは無礼である。「林田力に直接話し掛けてもいいですか」くらい言えないのだろうか。

林田力代理人を蔑ろにする所業である。相手が踏み込んで欲しくないと思う領域を回避するエチケットに欠けている。二人掛けの座席を一人で二人分占拠するような人物である。遠慮や謙遜や慎ましさという美徳をこの世に生まれる時に母親の胎内に置き去りにしたに違いない。

次に来たのは見知らぬ顔ではなかった。見知らぬ顔の方がマシなくらいであった。嫌悪感を最大限に呼び出させる顔であった。未見の相手に対して追伸文を用いた手紙を送りつけてきた人物である。わざわざマナーに反する行為を行い、林田力を挑発する人間である。林田力に対して明白な悪意を抱いている人物である。大島聡仁であった。大島は林田力らに対して会釈した。相手に会釈するのは、この男にしては進歩したと言うべきであろうか。

しかし、大島の視線には友好よりも嫌悪が勝っていた。屑物件を売りつけた加害者としての謙虚さが欠けていた。いかなる完全平和主義者でも先制攻撃の誘惑に駆られる視線である。小さな目から無言の毒念が放射されていた。両目は炉の中の石炭のように黒々と燃え盛っていた。

イメージとしては、硫黄が噴出す暗い谷間に似ていた。異臭に満ちた赤黒い泡が煮えたぎった泥の表面に弾けて、悪意を噴き出していた。悪念の塊であった。これほど憎しみに満ちた人間の眼差しを林田力は見たことがなかった。否、この瞬間まではなかった。同じ地球人とは思えない程である。美しいものは何一つ存在しない。ひたすら醜悪でおぞましいだけである。

大島は普段以上に醜く感じられた。理由は明らかであった。これまでは大島の歩く姿を見ていなかったからだ。大島は歩く姿勢が悪い。首を前に突き出し、背筋を真っ直ぐ伸ばさず、腰を落とし、膝を曲げて歩く。どこかしら雑で端正さを欠く雰囲気が動作の端々からこぼれ落ちる。

頭からは細くて長い触角が出ていて、ゆらりゆらり、揺れているような幻覚がした。林田力は思わず目をこする。擬音語ならば「ギトギト」、擬態語ならば「ツルン」。艶やかに黒光りするゴキブリが脳裏に像を結ぶ。

東急不動産従業員は林田力宅に上がる時に自分の履物を揃えることもしなかった。履物と言えばチューラ・パンタカ(周利槃特)が想起される。チューラ・パンタカは釈尊の弟子であったが、物覚えが悪く、修行が進まなかった。そのため、特別な修行として「チリ、ホコリをはらう」と唱えながら人の履物を布で拭き、揃えるという修行を授けられた。チューラ・パンタカは愚直に修行を実践し、遂に悟りを啓いたという。東急リバブル・東急不動産には絶対にいないタイプの人間である。

 

進行協議手続では林田力住居(ベランダ、洋室)及び共用部の外階段等を確認した。林田力が案内する形で進められた。最初はベランダに出る。

裁判官「隣地とは階の高さが違うようだね」

林田力「はい。隣は三階建てでも、こちらの三階よりも高いです。元々、北側の土地(隣地)の方が南側(アルス)よりも高くなっています。そのため、マンションの一階部分は地下室マンションのような形です」

地下室マンションとは規制緩和によって可能になった住宅地下室の容積率不算入措置を悪用して建てられたマンションで、住民反対運動の対象にもなっている。その悪評高い地下室マンションとの共通点を指摘することで、林田力はアルスが問題物件であることをアピールした。

続いて洋室を案内した。窓を開けて隣地建物を見せる。窓を開けると手が届くところに建設中の隣地作業所が迫っていた。その惨状を初めて目にする井口弁護士の表情を林田力は注意深く観察した。その取り澄ました顔には何の感情も浮かんでいなかった。

林田力は「よく見ろよ。お前の依頼人のだまし売りの結果を記憶に焼き付けろ」という台詞をぶつけたくなった。東急不動産だけでなく、この会社の代理人を務めるような品性下劣な弁護士も被害者にとっては憎しみの対象であった。

「西側の道路はもっと広いと思っていた。二つの洋室はつながっているものと思っていた」

この期に及んで井口弁護士は的外れな感想を漏らした。林田力代理人は即座に間取り図を提示して否定した。

都合の悪い事実を直視としない姿勢である。安っぽい演技の端々から滲み出る東急不動産代理人の醜悪な顔は、林田力を苛立たせ、落胆させた。物件について間違った知識を有したまま、事実上の現場検証に臨むことは代理人として失格である。大島聡仁のような偽りの担当者からしか情報を得なかった自己の確認不足を恥じるべきである。

裁判官「工事はどうなっているの」

林田力代理人「一時止まっていましたが、最近再開されたそうです」

林田力「木の柱は証拠写真を撮影した時期にはまだなかったものです」

裁判官「確かになかった」

井口弁護士「ブルーのシートは?」

隣地建物は一時期ブルーのシートに覆われていた。井口弁護士は今でもブルーのシートに覆われ、三〇一号室の風通しが悪くなることを期待しているかのように意地悪く質問してきた。このため、林田力は嫌味を込めて言い返した。

「今はメッシュになっています。お陰でこちらにとっては風通しはいいです」

「ブルーのシートは珍しいから……」

ばつが悪そうに井口弁護士はと言い訳にもならない言い訳をした。

続いて別の洋室を案内した。

裁判官「この部屋は北側しか採光面がない」

「はい。ですから壁ができれば日中でも深夜のごとく暗くなります」

林田力は、その身体から発するオーラと強烈でエネルギッシュな個性で実際よりも大きく見えた。

「それはそうだが……」

林田力から発する抗い難い力に圧倒され、井口弁護士は抑えた声で答えた。まるで同情する能力が備わっている人間のような口ぶりであった。

林田力代理人「百聞は一見に如かず、でしょう」

裁判官「向こう(東側)は奥までマンションになっている?」

「はい。マンションの敷地は歪な形になっています。恐らく地上げに失敗したのでしょう」

林田力はニヤっと笑った。いかにも秘密を明かすといった風情で、わざと声まで低くした。

裁判官「等価交換とありましたからね」

 

最後に外階段を案内する。三階と四階の踊り場から眺める。井口弁護士は隣地が越境しているのではないかとケチを付けていた。

裁判官「四階はどうなっているの」

林田力代理人「下の方がちょっとくらい隠れる形ですね」

井口弁護士「これ以上は建てないでしょう」

林田力は深呼吸し、動悸を静めた。目を閉じ、微笑を浮かべながら顔を太陽に向けた。顔をなでるそよ風を体内に入れ、神経細胞に送り、生命そのものと一体化させて発言した。

「アルスの四階の住人は購入時に隣が三階に建替えられるという説明を東急から受けたと言っています」

東急不動産は隣地建て替えで影響を受ける二階と三階の購入者には建て替えの事実を隠し、建て替えの影響を受けない四階の購入者には説明していた。

帰り際には耐震強度偽装事件が話題になった。

裁判官「今は姉歯秀次の問題でマンションは大変ですね」

裁判官は、いかにも単なる雑談とゴシップを楽しんでいるような口調であった。しかし林田力側は裁判官が事実をつぶさに知りたがっていることを察していた。そして雑談が訴訟の勝敗を決定する場合がある。

林田力代理人「私は氷山の一角だと思いますよ」

井口弁護士「ここはヒューザーが建てたのではないので」

林田力「建築確認はイーホームズなのですよ」

書記官「それは大変だ」

林田力「テレビが取材に来ました」

耐震強度偽装事件が二〇〇五年一一月一七日に発表された当初は偽装物件がイーホームズの確認物件に集中しており、イーホームズが確認した物件であるだけで危険視されていた。林田力は裁判で利用するため、アルスの建築確認資料を収集していた。それがイーホームズの発行した建築確認文書の実物を調査したいテレビ局の思惑と合致し、取材を受けることになった。当時判明していたことはイーホームズ確認物件というだけであったため放送には至らず、マスメディアの偽装事件報道も一時の加熱で終わってしまったが、後にアルスでは耐震強度偽装に関連した新事実が発覚する(後述「耐震強度偽装事件と欠陥施工」)。